Magnet 8-Ⅰ「 Sequel 1  :  The next day 1」













8-Ⅰ. 「The next day 1」 後日談 1 ― 運命の日の翌日 1 ― 



 アッパー・ウエスト 10:20 a.m. 


 頭痛を押さえながら起き上がると、彼女はもうベッドから抜け出していた。彼は熱いシャワーを浴びるために裸のままで寝室から繋がるバスルームへ行った。酒の匂いを洗い流し、彼のために用意されてあったバスローブは使わずにバスタオルを腰に巻き、彼女のリヴィングルームへと移動する。
 そこから続くキッチンで壁の時計を見上げると、10:30を回った頃だった。日曜日だと言うのに彼女は仕事に出てしまったのだろう。何しろ忙しい女だ。
 気にも留めず、いつものように勝手に冷蔵庫を開け、ガス入りのミネラルウォーターの栓を捻り喉を鳴らす。冷蔵庫の扉を閉めると、そこに短いメッセージがマグネットで貼り付けてあるのに気付いた。

『残念な夜だったけど、昨夜のことは忘れてあげる。それから、ご存じないみたいだから自己紹介しておくわ。はじめまして、ショーン。 My name is Inés. Not Shelly.』

 目を点にした彼は、昨夜のことを思い出そうと思考を巡らせてみた。リヴィング・ルームで事に及び、途中で寝室に移動したまでは憶えている。だがそこから目覚めるまでの記憶が一切ない。
 イネスの文面から推測するに、どうやら彼女に向い『シェリー』と呼びかけてしまったらしい。何てこった! この俺がそんな失態を犯すとは。
 だが何故、一度会ったきりの彼女の名を? もう顔もおぼろげにしか憶えていないのに。
 実際、彼はイネスを『シェリー』と呼び、挙句、途中で力尽きて寝てしまったのだが、幸か不幸か、彼にその暗黒の記憶はない。だがそれをイネスに確かめるまでもないだろう。彼女の嫌味が全てを物語っている。
 この俺としたことが……最悪だ――彼は忌々しそうに舌打ちして残りのミネラルウォーターを飲み干し、リヴィング・ルームのあちこちに散らばっている衣服を掻き集め始めた。
 " Not Shelly. Sherry " ――最後に彼はイネスのメッセージの " Shelly " の部分を線で消し、" Sherry " と書き換えてその部屋を後にした。彼女ならこんなブラックな悪戯も、きっと鼻で笑ってくれるだろう。



 良い天気だったので、ひとつ先の地下鉄の駅まで歩こうか、いっそのことキャブを拾おうか考えながら通りを歩いていると、ポケットの携帯電話が鳴った。姉のケイティだ。

「Hi , Katie」
「Sean ?  今どこにいるの?」
「えっと、アッパー・ウエストかな」
「何だってそんなところに? 今朝から何度も電話したのよ? まあいいけど、実は今あんたの家の下にいるの。いきなりで悪いけど、アルとクリスを見ててくれないかしら」
「What !?」
「マムも今日は予定あるとかで……こら! 通りで暴れないの!――3時くらいまででいいの。お願い、ショーン!」
「……いいけど」

 今日こそ家でゆっくり過ごして、明日からのメニューを決めたりコンピュータに溜まったデータの整理を進めたかったのだが、姉に怪獣(正式名称:二人の甥達)のお守りを突然押し付けられることになってしまった。
 シングルマザーの姉は休みの日まで子守を雇うほどの余裕もない。近くに住む長兄の妻、つまり義理姉であるアンバーとは折り合いも悪くて余り付き合いたがらないから彼女にも頼めない。それで時折こうしてマンハッタンの弟の許までやって来る、というわけだ。
 まあいつものことと言えばいつものことだ。怪獣どもの相手は疲れるが、運動不足の解消には丁度良いだろう。姉には近くのワシントン・スクエア・パークで待つように言い、結局はキャブを拾ってヴィレッジまで急ぐことになった。
 それから急いでカジュアルな服に着替え、バスケットボールを手に持って、彼は姉親子の待つ公園まで向った。









 アッパー・イースト 1:30 a.m.

 熱い時間の後、一転して静寂が支配する寝室に静かに響く、夫の寝息。直ぐに眠ってしまった夫とは対照的に、彼女はその夜もなかなか寝付けずにいた。身体も心も満足したはずだったのに、何故こんなに虚しい気持ちになるのだろう。どんよりとした重苦しい雲に覆われたような、漠然とした不安。
 この先も夫はあんなふうに私を求めてくれるだろうか。彼に期待して求めすぎ、そして失望する。またその繰り返しが待っているだけなのでは? そう鬱々とした不安ばかりが浮かんでしまう。
 うんざりした彼女は静かにベッドを抜け出し、ガウンを羽織るとこっそりキッチンへと向った。
 マグカップを手に取ってパントリー(食品庫)の扉を開け、左奥の棚に置いてある瓶類をがちゃがちゃと漁る。
 やがて一本の瓶を選び取ると、彼女は床に座り、それをマグカップに少量注いで一気にあおった。熱く喉を通り抜けた液体が身体中に染み渡る。彼女は再び少量注いだそれをぐっとあおり、ふうーっとひと息吐いた。

 そうして床に座り込んでぼうっとしていると、向かい側の棚と棚の隙間に何か紙切れのようなものが落ちているのが目に留まった。猫のように床を這ってそこまで行き、それを拾い上げてみると、それは色々な食材の名前が書かれたメモで、数日前の夜に食べたものを直ぐに思い起こさせるものばかりだった。つまり、それはショーンが落としていったものだ。
 案外繊細な字を書くのね――そう思うのと同時に彼のあの瞳を思い出し、彼女はそれを消し去るように手にしていた紙切れをくしゃっと丸めて床に捨てた。
 私ったら……クローゼットでフィルに抱かれながら一瞬彼のことを考えていた。どうかしてる。私は何も彼に欲情したわけじゃない。夫のことを愛しているからこそ、まるで知らない誰かに愛されているような錯覚を、ただの錯覚として思い切り愉しむことが出来たんじゃない。

 " I ―― " 

 彼女が言い訳のようにそう自分に言い聞かせた時、さっきの " あの瞬間 " に夫が言いかけた言葉が唐突に蘇り、彼女は後ろから頭を殴られたような思いで瞳を見開いた。

 アイ……リーン?

 ――まさか! I gonna come…… , I wanna……something……something……そう、何かそういう言葉を言おうとしただけよ。
 マグカップに手を伸ばし、震える手で琥珀色の液体をそこに注ぎ、天井を仰ぎ見るように勢いよくそれを喉に流し込む。
 横で寝息を立てていた夫の背中に昨夜見つけた小さな新しい傷。その訳を知りたいとは思わない。今更追及するつもりもない。彼は家庭を壊すつもりはないのだし、それにまだ……私にあんなふうに欲情するのなら、それで構わない。
 大丈夫、私は愛されている。きっと愛されている。――彼女は再び自分にそう言い聞かせた。
 けれどもう、次の瞬間にははっきりと気付いてしまっている。そう言い聞かせることで自分を保っていただけなのだと。
 それはもう彼女にとって癖のようなものでしかなかった。傷を広げないよう、崩れ落ちないよう、真っ直ぐ歩いて行けるよう、そうやって言い聞かせることで自分を誤魔化し続けてきた。
 そう認めたら何故だか解き放たれたような気分になれた。不思議だ。百年も二百年も眠り続けてやっと目が覚めたような思いだった。

 ――そうやって、ぼんやりと床の一点をじっと見つめる彼女の瞳の中で揺れている、丸めて投げた紙切れ。彼女はもう一度床を這ってその紙切れを拾い、くしゃくしゃに丸めていたそれを開き、そこに書かれた文字を指先で追った。
 ショーンはきっと、夫の背中の傷の理由を知っている。だから憐れむような眼で私を見ていた。だからあんな眼で……

「ふ……ふふ……」

 何だか急に何もかもが馬鹿らしく思えてきて、彼女は泣きながら声を上げて笑った。
 悔しい。あの男に同情されるなんて。全く癪に障る。彼女は再び泣きながら笑った。
 もう解らない。何が一体どうなってしまったのだろう? 彼女はぼんやりとした目でマグカップに酒を注いでは口に運ぶことを繰り返した。
 意識が朦朧とし始め、気付けば、ママ、とっても美味しいよ、とトマトを食べるレイが目の前にいる。
 そう、いい子ね、レイ……


 そこでとうとう彼女の意識は尽きた。その後、夜中に目覚めた夫に発見されることになるのだが、今はまだ、息子のレイと夢の世界に迷い込んでいた。









 チェルシー 9:40 a.m. 

 ベティの涎や口紅で染みだらけのジバンシーのシャツを洗濯かごに放り込み、彼は熱いシャワーを浴びてクローゼットを開けた。
 何となく今日は全身黒でいきたい気分だが、モード過ぎない軽めの格好がしたい。ボトムは腰周りのぶかっとした、ジョッパーズ風のチャコールグレーのパンツと黒いワークブーツ。裾はブーツに入れるようにしてたわませる。
 それから暫く考えて黒いギンガムチェックのコットン・シャツを選び、それに黒いニット製のタイを結んでグレーのパーカを羽織る。パーカのファスナーを上げてVゾーンを作り、コートは黒いウールのチェスターフィールドを羽織った。
 最後に黒縁のウェリントン*をかけ、クリスティーズ・ロンドンの黒いダービー・ハット*を被って崩す。
 これであとはステッキがあれば、現代風のカジュアルなチャーリー・チャップリンの出来上がりだ。
 今日は日曜日だが彼にはその日も仕事が待ち受けていた。ベティは毎週日曜日には休みを取っていたので(もっとも、彼女はハリーに合わせてそうしていたので、今後は日曜日にも仕事を入れることになるだろう)、彼だけがブルックリンから急いでマンハッタンに戻ってきた、というわけだ。

 空腹で目が回りそうだったので、彼は遅めの朝食を買うためにチェルシー・マーケット内のエイミーズ・ブレッドへ寄ろうと駅とは反対の方向へと歩き出した。少し遠回りにはなるが、あそこのブリーチーズ・サンドが食べたい。
 日曜日は10時開店の店だったのだが、10時を5分と過ぎていないのに、店内は既に沢山の人で賑わっていた。目当てのサンドウィッチとコーヒーを買い、マーケットを出て通りを歩きながらサンドウィッチをぱくついていると、近くの建物から寄り添うようにして男がふたり出てくるところに遭遇した。
 ――キース!?
 ふたりの男はミシェルに気付かずに笑いながら先を歩いて行く。彼は眉根を歪めてその後姿をただ見送った。彼らが出てきた建物を見上げる。ここが新しい恋人の住むところなのだろうか。
 酷いよ、キース。そのマフラーは僕が君にプレゼントしたものなのに。それなのに彼と一緒の時にそれを身に着けて、それを僕に見せ付けるだなんて。後ろからキースの肩を叩き、そのマフラーを取り上げてしまいたい心境に駆られ、彼は溜め息を吐いて項垂れた。
 本当はそんなことなんて出来やしない。I missed you , Keith――そう言ってしまうに決まっている。

 まだこんなに彼を愛していたなんて、と実感するのが辛い。わざわざエイミーズになんか行かずに近所のル・ガマンに食べに行けば良かった。マンハッタンは狭い。今後も色んな場所でこうやって彼らに遭遇し、その度にこんな惨めな思いを味わうのだろうか。
 一日も早く彼を忘れて新しい恋をすればいいのだ、そう頭では解っているけれど、なかなかそうもいかない。
 ああ、キース、こんなふうに無意識に僕を最後の最後まで傷付けてしまえるだなんて、君は本当に、何て残酷な男なんだろう。悔しいけれど、そうされることすらも彼との繋がりが残されているみたいで、何となくホッとする自分もいる。 やっぱり彼を忘れられない。彼のような恋人にはきっともう出会えない。そう諦めに似た気持ちが邪魔をして、新しい出会いに期待なんか持てそうもなかった。
 昨日という日は、ベティとラムカ、ふたりを慰めることに尽力した一日だったが、彼自身の苦しみや痛みは誰が癒してくれるのだろう。
 もちろん彼女達も彼をケアすることに心を砕いてくれはするけれど、彼自身はどちらかと言うと、余りこういうことで他人に頼る人間ではなかった。子供の頃から独りで決断し、解決してきたから。そして孤独には慣れている。

 ただ、今は温もりが欲しかった。傷を舐め、肌を温めてくれる誰かが今の彼には必要なのだ。
 ……久しぶりに「彼」に電話をしてみようかな。ふとそう思い立ち、そうすることの罪悪感に、いや駄目だ、と首を振る。
 けれど今の彼を温かく包んでくれるのは、きっと「彼」しかいない。
 いつの間にかキースとザックの姿は消え失せていた。彼は短く息を吐くと、気を取り直したように、辿り着いた地下鉄の駅の階段を下り始めた。

( 第8話 パートⅡへと続く )