Magnet 8 「 Sequel 1  :  The next day 」













8. 「The next day」 後日談 1 ― 運命の日の翌日 ― 



アッパー・ウエスト 10:20 a.m. 


頭痛を押さえながら起き上がると、彼女はもうベッドから抜け出していた。彼は熱いシャワーを浴びるために裸のままで寝室から繋がるバスルームへ行った。酒の匂いを洗い流し、彼のために用意されたあったバスローブは使わずにバスタオルを腰に巻き、彼女のリヴィングルームへと移動する。
そこから続くキッチンで壁の時計を見上げると、10:30を回った頃だった。日曜日だと言うのに彼女は仕事に出てしまったのだろう。何しろ忙しい女だ。気にも留めず、いつものように勝手に冷蔵庫を開け、ガス入りのミネラルウォーターの栓を捻り喉を鳴らす。冷蔵庫の扉を閉めると、そこに短いメッセージがマグネットで貼り付けてあるのに気付いた。
『残念な夜だったけど、昨夜のことは忘れてあげる。それから、ご存じないみたいだから自己紹介しておくわ。はじめまして、ショーン。 My name is Inés. Not Shelly.』
目を点にした彼は、昨夜のことを思い出そうと思考を巡らせてみた。リヴィング・ルームで事に及び、途中で寝室に移動したまでは憶えている。だがそこから目覚めるまでの記憶が一切ない。
イネスの文面から推測するに、どうやら彼女に向い『シェリー』と呼びかけてしまったらしい。何てこった!この俺がそんな失態を犯すとは。
だが何故、一度会ったきりの彼女の名を? もう顔もおぼろげにしか憶えていないのに。
昨夜のことに思いを巡らせるうちに、何故か中心部分に熱が集まり始めた。おかしい。まさか昨夜、果てることが出来なかったのか?それでイネスはあんなメッセージを?
実際、彼はイネスを『シェリー』と呼び、挙句、途中で力尽きて寝てしまったのだが、幸か不幸か、彼にその暗黒の記憶はない。だがそれをイネスに確かめるまでもないだろう。彼女の嫌味が全てを物語っている。
この俺としたことが…最悪だ――彼は忌々しそうに舌打ちして残りのミネラルウォーターを飲み干し、リヴィング・ルームのあちこちに散らばっている衣服を掻き集め始めた。
" Not Shelly. Sherry " 最後に彼はイネスのメッセージの " Shelly " の部分を線で消し、" Sherry " と書き換えてその部屋を後にした。彼女ならこんなブラックな悪戯も、きっと鼻で笑ってくれるだろう。

良い天気だったので、ひとつ先の地下鉄の駅まで歩こうか、いっそのことキャブを拾おうか考えながら通りを歩いていると、ポケットの携帯電話が鳴った。姉のケイティだ。
「Hi , Katie」
「Sean ? 今どこにいるの?」
「えっと、アッパー・ウエストかな」
「何だってそんなところに?今朝から何度も電話したのよ?まあいいけど、実は今あんたの家の下にいるの。いきなりで悪いけど、アルとクリスを見ててくれないかしら」
「What !?」
「マムも今日は予定あるとかで……こら!通りで暴れないの!――3時くらいまででいいの。お願い、ショーン!」
「……いいけど」
今日こそ家でゆっくり過ごして、明日からのメニューを決めたりコンピュータに溜まったデータの整理を進めたかったのだが、姉に怪獣(正式名称:二人の甥達)のお守りを突然押し付けられることになってしまった。
シングルマザーの姉は休みの日まで子守を雇うほどの余裕もない。近くに住む長兄の妻、つまり義理姉であるアンバーとは折り合いも悪くて余り付き合いたがらないから彼女にも頼めない。それで時折こうしてマンハッタンの弟の許までやって来る、というわけだ。まあいつものことと言えばいつものことだ。怪獣どもの相手は疲れるが、運動不足の解消には丁度良いだろう。姉には近くのワシントン・スクエア・パークで待つように言い、結局はキャブを拾ってヴィレッジまで急ぐことになった。
それから急いでカジュアルな服に着替え、バスケットボールを手に持って、彼は姉親子の待つ公園まで向った。









アッパー・イースト 1:30 a.m.

熱い時間の後、一転して静寂が支配する寝室に静かに響く、夫の寝息。直ぐに眠ってしまった夫とは対照的に、彼女はその夜もなかなか寝付けずにいた。身体も心も満足したはずだったのに、何故こんなに虚しい気持ちになるのだろう。どんよりとした重苦しい雲に覆われたような、漠然とした不安。
この先も夫はあんなふうに私を求めてくれるだろうか。彼に期待して求めすぎ、そして失望する。またその繰り返しが待っているだけなのでは? そう鬱々とした不安ばかりが浮かんでしまう。
うんざりした彼女は静かにベッドを抜け出し、ガウンを羽織るとこっそりキッチンへと向った。
マグカップを手に取ってパントリー(食品庫)の扉を開け、左奥の棚に置いてある瓶類をがちゃがちゃと漁る。
やがて一本の瓶を選び取ると、彼女は床に座り、それをマグカップに少量注いで一気にあおった。熱く喉を通り抜けた液体が身体中に染み渡る。彼女は再び少量注いだそれをぐっとあおり、ふうーっとひと息吐いた。
そうして床に座り込んでぼうっとしていると、向かい側の棚と棚の隙間に何か紙切れのようなものが落ちているのが目に留まった。猫のように床を這ってそこまで行き、それを拾い上げてみると、それは色々な食材の名前が書かれたメモで、数日前の夜に食べたものを直ぐに思い起こさせるものばかりだった。 つまり、それはショーンが落としていったものだ。
案外繊細な字を書くのね―― そう思うのと同時に彼のあの瞳を思い出し、彼女はそれを消し去るように手にしていた紙切れをくしゃっと丸めて床に捨てた。
私ったら……クローゼットでフィルに抱かれながら一瞬彼のことを考えていた。どうかしてる。私は何も彼に欲情したわけじゃない。夫のことを愛しているからこそ、まるで知らない誰かに愛されているような錯覚を、ただの錯覚として思い切り愉しむことが出来たんじゃない。

" I ――― " 

彼女が言い訳のようにそう自分に言い聞かせた時、さっきの " あの瞬間 " に夫が言いかけた言葉が唐突に蘇り、彼女は後ろから頭を殴られたような思いで瞳を見開いた。

アイ……リーン?

――まさか!I gonna come…… , I wanna……something……something……そう、何かそういう言葉を言おうとしただけよ。
マグカップに手を伸ばし、震える手で琥珀色の液体をそこに注ぎ、天井を仰ぎ見るように勢いよくそれを喉に流し込む。
横で寝息を立てていた夫の背中に昨夜見つけた小さな新しい傷。その訳を知りたいとは思わない。今更追及するつもりもない。彼は家庭を壊すつもりはないのだし、それにまだ…私にあんなふうに欲情するのなら、それで構わない。
大丈夫、私は愛されている。きっと愛されている。―――彼女は再び自分にそう言い聞かせた。
けれどもう、次の瞬間にははっきりと気付いてしまっている。そう言い聞かせることで自分を保っていただけなのだと。
それはもう彼女にとって癖のようなものでしかなかった。傷を広げないよう、崩れ落ちないよう、真っ直ぐ歩いて行けるよう、そうやって言い聞かせることで自分を誤魔化し続けてきた。
そう認めたら何故だか解き放たれたような気分になれた。不思議だ。百年も二百年も眠り続けてやっと目が覚めたような思いだった。
―― そうやって、ぼんやりと床の一点をじっと見つめる彼女の瞳の中で揺れている、丸めて投げた紙切れ。彼女はもう一度床を這ってその紙切れを拾い、くしゃくしゃに丸めていたそれを開き、そこに書かれた文字を指先で追った。
ショーンはきっと、夫の背中の傷の理由を知っている。だから憐れむような眼で私を見ていた。だからあんな眼で…
「ふ……ふふ……」
何だか急に何もかもが馬鹿らしく思えてきて、彼女は泣きながら声を上げて笑った。
悔しい。夫が差し向けた男に同情されるなんて。全く癪に障る。
今頃になってフィリップが彼らを連れて来た訳に気付き、彼女は再び泣きながら笑った。
もう解らない。何が一体どうなってしまったのだろう?彼女はぼんやりとした目でマグカップに酒を注いでは口に運ぶことを繰り返した。
意識が朦朧とし始め、気付けば、ママ、とっても美味しいよ、とトマトを食べるレイが目の前にいる。
そう、いい子ね、レイ……


そこでとうとう彼女の意識は尽きた。その後、夜中に目覚めた夫に発見されることになるのだが、今はまだ、息子のレイと夢の世界に迷い込んでいた。









チェルシー 9:40 a.m. 

ベティの涎や口紅で染みだらけのジバンシーのシャツを洗濯かごに放り込み、彼は熱いシャワーを浴びてクローゼットを開けた。
何となく今日は全身黒でいきたい気分だが、モード過ぎない軽めの格好がしたい。ボトムは腰周りのぶかっとした、ジョッパーズ風のチャコールグレーのパンツと黒いワークブーツ。裾はブーツに入れるようにしてたわませる。
それから暫く考えて黒いギンガムチェックのコットン・シャツを選び、それに黒いニット製のタイを結んでグレーのパーカを羽織る。パーカのファスナーを上げてVゾーンを作り、コートは黒いウールのチェスターフィールドを羽織った。
最後に黒縁のウェリントン*をかけ、クリスティーズ・ロンドンの黒いダービー・ハット*を被って崩す。
これであとはステッキがあれば、現代風のカジュアルなチャーリー・チャップリンの出来上がりだ。
今日は日曜日だが彼にはその日も仕事が待ち受けていた。ベティは毎週日曜日には休みを取っていたので(もっとも、彼女はハリーに合わせてそうしていたので、今後は日曜日にも仕事を入れることになるだろう)、彼だけがブルックリンから急いでマンハッタンに戻ってきた、というわけだ。
空腹で目が回りそうだったので、彼は遅めの朝食を買うためにチェルシー・マーケット内のエイミーズ・ブレッドへ寄ろうと駅とは反対の方向へと歩き出した。少し遠回りにはなるが、あそこのブリーチーズ・サンドが食べたい。
日曜日は10時開店の店だったのだが、10時を5分と過ぎていないのに、店内は既に沢山の人で賑わっていた。目当てのサンドウィッチとコーヒーを買い、マーケットを出て通りを歩きながらサンドウィッチをぱくついていると、近くの建物から寄り添うようにして男がふたり出てくるところに遭遇した。
――キース!?
ふたりの男はミシェルに気付かずに笑いながら先を歩いて行く。彼は眉根を歪めてその後姿をただ見送った。彼らが出てきた建物を見上げる。ここが新しい恋人の住むところなのだろうか。
酷いよ、キース。そのマフラーは僕が君にプレゼントしたものなのに。それなのに彼と一緒の時にそれを身に着けて、それを僕に見せ付けるだなんて。後ろからキースの肩を叩き、そのマフラーを取り上げてしまいたい心境に駆られ、彼は溜め息を吐いて項垂れた。本当はそんなことなんて出来やしない。I missed you , Keith――そう言ってしまうに決まっている。
まだこんなに彼を愛していたなんて、と実感するのが辛い。わざわざエイミーズになんか行かずに近所のル・ガマンに食べに行けば良かった。マンハッタンは狭い。今後も色んな場所でこうやって彼らに遭遇し、その度にこんな惨めな思いを味わうのだろうか。
一日も早く彼を忘れて新しい恋をすればいいのだ、そう頭では解っているけれど、なかなかそうもいかない。
ああ、キース、こんなふうに無意識に僕を最後の最後まで傷付けてしまえるだなんて、君は本当に、何て残酷な男なんだろう。悔しいけれど、そうされることすらも彼との繋がりが残されているみたいで、何となくホッとする自分もいる。やっぱり彼を忘れられない。彼のような恋人にはきっともう出会えない。そう諦めに似た気持ちが邪魔をして、新しい出会いに期待なんか持てそうもなかった。
昨日という日は、ベティとラムカ、ふたりを慰めることに尽力した一日だったが、彼自身の苦しみや痛みは誰が癒してくれるのだろう。
もちろん彼女達も彼をケアすることに心を砕いてくれはするけれど、彼自身はどちらかと言うと、余りこういうことで他人に頼る人間ではなかった。子供の頃から独りで決断し、解決してきたから。そして孤独には慣れている。
ただ、今は温もりが欲しかった。傷を舐め、肌を温めてくれる誰かが今の彼には必要なのだ。
……久しぶりに「彼」に電話をしてみようかな。ふとそう思い立ち、そうすることの罪悪感に、いや駄目だ、と首を振る。
けれど今の彼を温かく包んでくれるのは、きっと「彼」しかいない。
いつの間にかキースとザックの姿は消え失せていた。彼は短く息を吐くと、気を取り直したように、辿り着いた地下鉄の駅の階段を下り始めた。









ミッドタウン・ノース 1:45 p.m.

彼女がそこに居ないと解っていながらついつい向かいの窓に目を向けてしまうから、彼はいつも日曜日にはなるだけ休むようにしている。でも毎回そういうわけにもいかないのでこうして日曜に仕事をしているわけだが、案の定、彼女は今日は休みなんだ、仕事に集中しろ、と何度も言い聞かせなくてはならない。癖というものは恐ろしいものだ。
それを何度か繰り返した頃、またうっかり通りの向こうへ目をやってしまったが、そこに見えるのはこちらへ歩いてくるミシェルの姿だった。
「Hi , ポール」
「Hi , ミシェル。 今からランチかい?」
「うん、やっと手が空いたからね」
うーん何にしよう、朝食もサンドウィッチだったんだけど……と悩んでいる彼を観察するように見つめる。 彼は本当にお洒落だなあ、と会うたびに毎回そう思う。黒いギンガムチェックのシャツなら僕も持っているけど、こんなありふれたカジュアル・アイテムを彼みたいに着こなすなんて考えもつかない。仕事柄、流行には常に敏感なんだろうけど、最新の流行を追っているふうでもないのに、とにかくさりげなくてユニークで格好良いと思う。ベティはきっと、彼みたいなお洒落な男がタイプなのに違いない。彼がストレートじゃなくて良かった。そう言ったら失礼かな……
「……を頼むよ」
「……」
「? ポール?」
「あ?」
「しっかりしてよ。大丈夫?」
「あー、ごめんよ、ミシェル。悪いけど、もう一度いい?」
ま、日曜だし、解らなくもないけどね――最後にぼそっと呟いてミシェルが眉をくい、と上げたが、ポールはそれに気付かなかった。コーヒーを淹れる時の彼はまるで別人のようだ。とても良い顔をしてる。
「Thanks Paul 」
ベーグルサンドとコーヒーを買ってサロンに戻って行く彼の後姿をまじまじと見送っていると、くすくすっと笑い声がしたのでその声に振り返った。同僚のジェシカとフレディだ。彼が振り返ると同時に何事もなかったかのような顔をして離れたが、彼を馬鹿にして笑っていたのは明らかだった。またか、と思ったが、それには慣れていたので、ポールはいっぱいになったゴミ袋を取り替えたり、紙ナプキンや砂糖の補充をしたり、黙々と仕事を続けることで気を紛らわせた。
その仕事の延長で奥の事務所の横にある倉庫に紙カップや蓋やなんかの補充分を取りに行き、倉庫から出てきたところで、同僚のジェニーと鉢合わせた。
「Hi 」
「あ、今それを取りに行こうとしたところだったの」
「そう」
「……ねえ、ポール」
「うん?」
「気にしちゃ駄目よ、あんな連中なんか」
「? う、うん、ありがとう」
「仕事もろくにしないでお喋りばっかりしてるんだから。あ、これじゃ私も人のこと言えないわね」
軽く笑いながら店内に戻ると、ほんの2、3分の間に混雑し始めていた。ジェシカとフレディがバタバタと客の対応をしている。ポールも急いでコーヒーを淹れる仕事に戻った。多少の間断はあったものの、結果、午前中とは比べ物にならないくらいに忙しい一日となった。

7:40 p.m.
閉店作業を終え、着替えを済ませて事務所を出ると、ジェニーが店の方からこちらに向ってくるのに遭遇した。
「Bye , ジェニー。また明日」
「あ!待って、ポール」
「うん?」
「あの……お願いがあるんだけど」
「? なんだい?」
「実は最近コンピュータを買ったんだけど、その……まだよく解らないくせに、何か設定を弄っちゃったみたいで色々うまくいかないの。助けてくれない?」
「どんな症状になるの?」
用語もよく解っていないジェニーの説明は要領を得ていなくて、実物を見なくては何とも判断がつかない感じだったので、イーストヴィレッジの彼女の家に行って診断することになった。
結局、セキュリティの問題でインターネットに支障が出ているだけだと解り、設定を変え、彼女に解りやすく説明をして作業を終えた。気付けば9時を回っている。二人とも空腹だったので、近くのダイナーで一緒に遅めの夕食をとろう、ということになった。
ジェニーのくるくるとよく動く大きな瞳を見ていると、何だかベティがそこに居るみたいで少しだけ居た堪れない気持ちになる。彼女はとても気の付く女の子だ。誰かが助けを必要としている時に、何も言わなくてもすっと現れて手助けをしてくれるような、そんな子だった。だから今日の昼間みたいに、誰かがくすくすと彼を笑うような瑣末な出来事にも気付いて、彼にああいう言葉をかけてくれる。
彼女が相手だとベティの時と違い、少しも緊張することなく自然に会話が出来るのに。彼は普段ならやり過ごしてしまうことを、何となく彼女に訊いてみたくなった。
「ねえジェニー、昼間のことなんだけど」
「Yeah ?」
「僕はその……彼らに笑われるのは別に構わないんだ。子供の頃からそういうのには慣れてるし、笑いたいやつには笑わせておけばいいって思ってるから。ただ……どうしてあの時笑われたのか、その理由が解らなくて」
「……あー」
ジェニーが口ごもったので、大丈夫、何を言われても傷付かないから、と笑いかけると、ジェニーが小さく息を吐いて彼を見た。
「本当に大丈夫?」
「うん」
「……じゃあ言うね。実は……あなたが向かいのサロンのミシェルのことを好きだ、って噂が立ってて」
ぶはっ! ポールは思わずコーヒーを噴き出しそうになった。
「ぼっ、僕が彼を!?何で!?」
「彼が来るとあなたがいつも彼に見とれてて、何だか様子がおかしい、ってジェシカが言い出して、それで……」
「み、見とれるって……」
……ああ、彼の格好に毎回感嘆しながら見とれているのは確かかもしれないけど、そんな意味じゃないのに!だって僕が好きなのは……
「私は信じてないわよ。そもそも、もし仮にそれが本当だとして、どうして笑ったりするのか全く理解出来ないわ」
「あー……サンクス、ジェニー。 ああ……何だか頭痛がしてきたよ」
変な汗まで出てきて寒気がする。そう言えば今日ジェームズは休みだったけど、彼もそう噂してる人間の一人なんだろうか。ベティの耳に入らなきゃいいけど。
言いたいやつには言わせておけば良い、と常々思っているポールだったが、流石にこの件に関してだけは身の潔白を証明しなくては、と頭を掻き毟った。
その後ジェニーに別れを告げ、モーニングサイド・ハイツまでヴェスパを走らせている間中、くしゃみが止まらなかった。どうやら寒気がしたのは迷惑な噂話のせいばかりじゃなさそうだ。
結局その日のうちに高熱が出て、翌日仕事を休む羽目になってしまった。運悪くミシェルも休みだったので、またジェシカが勝手に妙な妄想をして、それを面白おかしく吹聴した。それを耳にしたジェニーがジェシカを非難し、スタッフの間でちょっとした騒ぎとなってしまったのだが、彼がそれを知るのは一週間後のことだった。









クィーンズ  2:20 p.m.

廊下の隅でパーカのフードを深く被り、隠れるようにしてベティがこちらの様子を窺っている。そんな彼女を見やり、ラムカは溜め息を吐くと、覚悟を決めてその部屋のブザーを鳴らした。だが何度鳴らしても反応はないようだった。良かった、どうやらハリーは居ないみたい。
Come on ! そう手で合図してベティを呼び寄せる。恐る恐る中に入ると、昨日ベティがバットを振り回して暴れた、そのままの状態にされていた。うわ、随分派手にやっちゃったみたいだね。他人事みたいに言うベティに呆れ、割れた鏡やガラスの破片をスニーカーで蹴散らしながら、ラムカもきょろきょろと惨状を目の当たりにして目を丸くしていた。殺人事件現場ってこんな感じかも?
「彼、本当は今頃モルグ*(遺体安置所)じゃないの?」
「マジそう願うよ」
鼻にしわを寄せて憎々しげにそう言いながらも、ベティは寝室のドアを開けるのを躊躇い、お願い、開けて、と瞳でラムカに懇願した。仕方ない。そう息を吐いてラムカがドアノブに手をかける。
「F.B.I. !!」――そう叫んでラムカがドアを蹴破った(いや、実際には恐る恐る足で軽くドアを蹴っただけだったが)。指でピストルを作ったベティがベッドに向けて「Bang ! 」と撃つ真似をしながら寝室に踏み込む。
やり過ぎだよ、と呆れつつ、よしやるか!と声を上げ、彼女達は作業に取り掛かった。
クローゼットから大きなボストンバッグやスーツケースを取り出し、あれやこれやと荷物を詰める。一度にたくさん運び出せるように、とラムカのものまで持参するという周到さだ。
「Take ?」
「No」
「Take ? 」
「Yes」
「あれ?こんな服持ってたっけ?」
Oh ! it's so cute ! ――鏡の前で服を当ててはしゃぐラムカからそれを取り上げ、ボストンバッグに放り入れる。
「早く!あいつが帰って来たらどうすんのよ!」
「ゾンビになって?」
全くもう!滅多にない経験に浮かれているのか、嬉々とした様子のラムカに呆れつつ、ゾンビになったハリーの間抜けな姿を想像して彼女は噴き出した。ちょっと!それ、かなり笑える!二人してゲラゲラ笑いながら作業を続け、服や靴以外にも、シャンプーや化粧品などの日用品から愛用のマグカップ、ネイルグッズ、大事な本や小さなランプシェード(それはお気に入りだったので壊さずにおいた)、ありとあらゆるものを詰め込めるだけ詰め込んだ。
" 彼女と片付け頑張って。せいぜい手を怪我しないように気をつけるのね " ――最後にハリーへの手紙を書いてテーブルの上に置いた。仕上げに彼と二人でマイアミに旅行した時の写真を真っ二つに破り、手紙の上に彼の写真だけを乗せ、ぺティナイフをそこに突き立て(ベティはついでに中指も立てたが)、彼女達はその忌々しい部屋を後にした。







チェルシー 4:15 p.m.

キャブがチェルシーに到着した。歴史保存区にあるミシェルの家の前だ。スーツケース2つに大きなボストンバッグ3つを抱え、ブザーを鳴らして管理人を呼び出す。
フレンチ訛りでミシェルの従妹だと名乗ると、管理人らしいロシア人の婆さんは、ミシェルと一緒に写った写真を数枚見せただけで彼女を信用して、彼の部屋の鍵を開けてくれた。こんな管理人で大丈夫なの?そんな顔でラムカがベティに目配せしている。
久々に訪れたミシェルの部屋は相変わらずきちんと片付いていた。ちゃんと花を絶やさず、良い匂いが部屋中に漂っている。
最後に部屋に花を飾ったのっていつだった? さあ……半世紀前? そんな会話を交わしながらどっこいしょ、とラウンジチェアにそれぞれ腰を下ろして一息吐いた。
元々この部屋は、彼の母親がモデル時代に稼いだ財産で購入したもので、彼は子供の頃からずっとここに住んでいた。今は独りで暮らしているから部屋が空いている筈なのだ。NYで気に入った部屋に出会えるのは、宝くじに当選するのに等しいくらい難しい。ラムカが、とりあえず部屋が見つかるまで家に住めば?と言ってくれたのだけど、彼女の家は狭いし、ソファーで寝るしかない。使ってない部屋があるんなら、やっぱミシェルのとこでしょう!とラムカの反対を押し切って勝手にこうして押し掛けてきたのだった。
じゃあ夕食の準備をして彼を迎えようよ――ラムカがそう提案した。勝手なことをした、せめてもの償いとして。


「何にしようか……」
「あんたのカレーが食べたい」
「……それって私に作れってことだよね」
「もちろん手伝うよ」
「でもスパイスだったらうちの近くのサハディーズなんだけどなあ。焼き立てのナンもここらじゃ手に入らないだろうし……イーストヴィレッジまで買いに行く?」
「Umm……Nah」
彼女達は夕食の材料を求めて近くのホール・フーズ・マーケットをぶらついていた。日曜日ということもあってか結構な人出だ。
「走っちゃ駄目よ、ショーン」――店内を走り回る子供を叱る母親の声が彼女達の直ぐ傍の通路から聞こえる。
ショーン?――昨日の彼の顔を思い出し、ラムカは思わず視線を泳がせた。彼がここにいる筈もないのに。
そうだった、昨日あのカフェで帰り際に彼の名前を尋ねたら「ショーン」だと教えてくれたんだっけ。
「お嬢さん、悪いこたあ言わねえ。あんな女たらし、やめときな。それより俺にしときなよ」――ついでにどうでもいいことまで教えてくれたけど。
「何怒ってんの?」
「え?」
「ショーンって名前、禁句だったとか? ……って言うか、そもそもショーンって誰よ?」
「What !? 」
「昨日、そう叫んでた」
「……そうだっけ」
彼のことを思い出した時にベティにその名前を出されたので、彼女はベティに心を読まれたのかと一瞬焦った。何しろ昨日は不思議なことが立て続けに起こったのだ、そう思うのも無理はない。
Come on ! そう言ってベティが答えを待ち構えている。どうしても聞き出したいらしい。ラムカは抵抗を諦めて、昨日ベティのサロンからの帰り道に起こった出来事を説明してみせた。
「Oh my Gosh ! 何で黙ってたのよ?」
「……あのね、あんな状態のあんたに何言える?」
「ね、いい男だった?」
「……憶えてない」
「Why !? 」
「そんなことより、どうして彼が私の名前を知ってたか、ってことよ!まさか知らないところで私の個人情報が漏れてるのかな」
「げ、まじ?」
「誰かが勝手にSNSに私の顔写真を使ってるとか。じゃなきゃどうしてあの子や彼が私の名前を知ってたの?」
「ちょっと待って!じゃあ……あたしもってこと?」
お喋りばかりに夢中になってちっとも買い物かごに食材が入っていかない。結局1時間近くもかかってようやく買い物が終わり、ミシェルの家でのカレー作りが始まった。
彼が戻って来たのはそれから更に2時間後。そして彼は思いも寄らない展開に混乱しながら、またも不本意な出来事続きだった一日を終えたのだった