Magnet 7 「 Phillip 」







すべての不幸は未来への踏み台にすぎない

――― ヘンリー・D・ソロー ―――






7. 「Phillip」 ― フィリップ ― 



キスの途中でこの髪を掻き乱す彼女の指の感触に堪らなく欲情する。たったそれだけのことでもう、自分が自分でいられない。一刻も早く彼女の中に入りたくて気が狂いそうだ。だからそうする。
下着を剥ぎ取り、壁に押し付けるように彼女を抱え上げ、爆発してしまいそうな情熱を押し込んで彼女を思い切り犯す。ある時は床の上で。ある時はテーブルの上で。ベッドまで待てないからいつもそうなる。
だから毎回彼女は罵る言葉を吐き、絶頂を迎える。恍惚とした表情を浮かべて。
あっけなく情熱が去った後はお決まりのあの感情だ。鏡に映る自分を殺してしまいたくなる。一度だけ、気付けば拳をそこにめり込ませていたこともある。
幸い大した怪我にはならなかったが、お陰で未だに2本の指が完全には曲がらない状態のままだ。
感情を殺し、何の躊躇もなく冷徹な決断をも下すことが出来る、そう、それが己という男ではなかったか。
何故彼女を前にすると自分をコントロール出来なくなってしまうのか。彼女の瞳に捕らえられた瞬間、自分が自分でいられなくなるのは何故なのか。
その答えを知りたくて彼女に会い、結局はまた彼女の中で暴れることを繰り返すだけ。何の意味もない。どうしようもないほどの大きなリスクが蓄積されていくだけだ。
まるでジャンキー*だ。何とかしなければ、そのうちオーヴァー・ドーズ*で命を落とすことになるだろう。
つまりそれは家庭の崩壊と社会的信用の失墜を意味する。この情事にそれほどの価値があるのか?命を懸けるほどに?
答えは判りきっている。今すぐ止めなければ何もかもが破滅に向うだけだ。
……いや、既に破滅へ向っているのかもしれない。少なくとも妻との関係は悪化の一途を辿っている。







「ジェネラル・リーン社の買収は見事だった。お前には確かな先見の明がある。だが3年前の純資産減少を補える起爆剤になれるのか、些か疑問は残る」
前CEOである継父の大きな声がまだ耳の中でじんじんと鳴っているようで苛々する。受話器を耳から離しても、鼓膜がびりびりと振動するのが判るほどの大声だ。
時折オフィスまで顔を出し、こうして電話をかけてきてまであれやこれやと口出しする継父に内心うんざりしながら、父の体を気遣う言葉をかけ、実母の声を聞き、穏やかに別れを告げて受話器を置く。
わざわざ旅行先のフランスから電話をかけてきてまで伝えたいことなのだろうか。母の呆れる顔が思い浮かぶようだ。

たまにはレイを連れて帰ってらっしゃい――ふた言目にはそれだ。母にとってはたった一人の血の繋がった孫なのだから仕方ないが、あの父と長時間共に過ごすなど、想像しただけでうんざりだ。
キャサリンが気を利かせて時折レイを連れコネティカットまで行ってくれるが、多忙を理由に自分は実家帰りを避けるようになった。感謝祭の時ですら帰ろうとしないのだから、その時期が近付くとキャサリンは間に挟まれてナーバスになっている。
感謝祭に帰りたくない理由の筆頭はもちろん継父だ。だがそれだけが理由ではなかった。会いたくない相手は他にもいる。思い出したくないことも。つまり彼は、あの地にはもう近寄りたくもないのだ。
息を吐いて受話器から視線を上げる。以前はそこに見えていた筈の、双子のように並んでそびえ立つ2つの高層ビルがある日突然姿を消してから、気付けばもう長い年月が経とうとしている。
だが、その年月の間に起きたさまざまなことに思いを馳せている時間は、彼には無かった。
父との電話に費やした時間のせいで、あと3分のうちに迎えの車に乗り込まなくてはならないのだ。
ビジネスランチをとった後はまた会社に戻り、彼の決断を待つさまざまな案件に没頭する。こんなことの繰り返しの日々。
仕事に人生の全てを注ぎ、それに喜びを見出すほどの思い入れも無いが、決して虚しい毎日だとも思わない。用意された人生に素直に従うまでだ。母が父の後妻となった、あの日から。



夕方、西の彼方へ沈んでいく夕陽が彼のオフィス内を柔らかい色合いに変える。書類に目を通しながら、ふと、今晩のメニューは何だろうか、と思いつき、知らず知らずのうちにそれを楽しみにしている自分を自覚して苦笑した。
最近雇った幼馴染の料理人の顔が浮かび、彼はまた苦笑を浮かべた。そこへ現れた第二秘書のヴァレリーが怪訝そうな顔をして彼の目の前に書類を置いた。
「笑うような内容の報告書ですの?」
「ああ、いや、何でもない」
そうですか、という顔をしてヴァレリーが部屋を出ていこうとするのを目で追い、彼は彼女が置いて行った書類に目を走らせた。
「どういうことだ?」
「……どういう、とは?」
振り返りもしない部下の無礼を目にしながら、彼はゆっくりと立ち上がって彼女の傍へ近付く。彼女の背中から手を伸ばしてドアに鍵をかけると、ようやくヴァレリーが彼を振り返った。不敵な笑みを浮かべて。
「この俺を脅すのか?」
「とんでもないですわ、ミスター・クリフォード。心からご心配申し上げているんです」
「……心配だと?」
「――ミスター・クリフォード、考えてもみてください。あんな無能な男が未だに第一秘書の座に納まってるだなんて、社外的にも風聞が悪すぎやしませんか?」
「無能かどうかは俺が決めることだ」
「では何故、彼は息子さんのボディガードなんか?つまり今の私の立場は子供のボディガード以下ってことになります。それは到底納得出来ませんわ」
「いつ君がボディガード以下だなんて―――」
「―――奥様がお知りになられたらどんなお気持ちかしら」
「……」
「これは正当な『交渉』ですわ、ミスター・クリフォード。あなたは彼女との関係を誰にも知られたくない。私はキャリアをもっと良いものにしたい。彼は今や子供のボディガードに、いいえ、ただの子守に成り下がっている。答えはひとつしかないとお思いにならない?」
「……考えておこう」
「それでは」
いつもと同じクールな笑みを浮かべ、がちゃり、と音を立ててヴァレリーが部屋を後にした。






幼馴染である料理人の男とはしゃぐ息子の会話に、どこか作り笑いで応じる妻。視界に彼らが入ってはいるのだが、何も会話が聞こえてこない。口からは楽しみにしていたはずの、彼の作る食事が機械的に入っていくのだが、何も味を感じられない。
じりじりと首を絞められていく感覚。生きた心地がしなかった。気が付けば彼はベッドに横たわっていて、あの男の料理が口に合わないだとかあの男をやめさせろだとか、妻が不満を申し立てている。今すぐ逃げ出したい。彼女の元に。何も考えず、欲望のままにただ彼女の温度を味わい、彼女の中で果てたかった。そんなことをすれば一瞬でこの世界から抹殺されると判っているのに。
妻に言い放った言葉に己で傷付き、眠りの中に逃げ込むようにして背中を向けた。
目を覚ましてみれば、妻はすやすやと静かな寝息を立てていた。あの頃と何一つ変わらない、穏やかで天使のような寝顔で。この妻を傷付けている。その自覚が彼を苦しめている。だが頭と心と体との折り合いが付かない。せめて少しでも長くその穏やかな寝顔でいられるようにと願いを込め、彼は妻のキャサリンの金色の髪を一房手に取り、唇を寄せた。

いつもならアパートメントの地下にあるプールでひと泳ぎし、ジムで汗を流すのが彼の毎朝の日課だったのだが、久しぶりに外を走ってみたくなり、彼はスウェットに着替えてセントラルパークへと向った。
それで問題が解決するわけでは決してないが、少なくとも朝ヴァレリーの顔を見るまでの間くらい、無心でいられる場所で一人になりたかった。
犬と一緒に散歩する連中や、彼と同じように朝からワークアウトに励む連中で既にそこはいっぱいだ。パーカのフードを深く被り無心に走っていると、次第に汗が噴き出してくる。一緒に心の闇まで噴き出していってくれる気がして、むきになって何周もしてしまったが、腕時計のアラームが無情にもタイムアウトを知らせる。
それでもまだ家に帰りたくなかった。普段読むことのない新聞と普段決して飲むことのないソーダ水を通りで買い、再び公園に戻ってベンチに腰掛け、気分転換をそのまま続けた。
大体の大まかなニュースに目を通し、新聞を折り畳んだところで、紙面の端っこが目に飛び込んできた。
" すべての不幸は未来への踏み台にすぎない "
『世界の名言 ― 今日の言葉 ―』 ――見出しにはそう書かれてある。
今自分が全てを失い、全てを巻き込んで不幸になっても同じことが言えるだろうか。例えば倒産。例えば離婚。例えば…死。
自分ひとりの運命など取るに足らないものだし、今この瞬間どうなろうと構わない。だが彼は彼という個人であって決して個人ではない。その肩に背負ったものが大きすぎる。彼は失うものの大きさを想像し、改めて身震いした。
やはり答えは自ずと決まっている。彼女とはきっぱり縁を切るべきだ。彼は新聞をベンチに残し、立ち上がった。




それから数時間の後、職を失ったばかりの一人の若い女性が、絶望の淵に立ち、彼が残した新聞を手に取ることになる。
そして彼女が彼の息子とここで出会い、やがて彼ら家族と係ることになるのだが、今の彼がそれを知ることはない。