Magnet 8−U 「 The next day 2 」












8−U. 「The next day 2」 後日談 1 ― 運命の日の翌日 2― 








 ミッドタウン・ノース 1:45 p.m.

 彼女がそこに居ないと解っていながらついつい向かいの窓に目を向けてしまうから、彼はいつも日曜日にはなるだけ休むようにしている。でも毎回そういうわけにもいかないのでこうして日曜に仕事をしているわけだが、案の定、彼女は今日は休みなんだ、仕事に集中しろ、と何度も言い聞かせなくてはならない。癖というものは恐ろしいものだ。
 それを何度か繰り返した頃、またうっかり通りの向こうへ目をやってしまったが、そこに見えるのはこちらへ歩いてくるミシェルの姿だった。

「Hi , ポール」
「Hi , ミシェル。今からランチかい?」
「うん、やっと手が空いたからね」

 うーん何にしよう、朝食もサンドウィッチだったんだけど……と悩んでいる彼を観察するように見つめる。
 彼は本当にお洒落だなあ、と会うたびに毎回そう思う。黒いギンガムチェックのシャツなら僕も持っているけど、こんなありふれたカジュアル・アイテムを彼みたいに着こなすなんて考えもつかない。仕事柄、流行には常に敏感なんだろうけど、最新の流行を追っているふうでもないのに、とにかくさりげなくてユニークで格好良いと思う。ベティはきっと、彼みたいなお洒落な男がタイプなのに違いない。彼がストレートじゃなくて良かった。そう言ったら失礼かな……

「……を頼むよ」
「……」
「? ポール?」
「あ?」
「しっかりしてよ。大丈夫?」
「あー、ごめんよ、ミシェル。悪いけど、もう一度いい?」

 ま、日曜だし、解らなくもないけどね――最後にぼそっと呟いてミシェルが眉をくい、と上げたが、ポールはそれに気付かなかった。コーヒーを淹れる時の彼はまるで別人のようだ。とても良い顔をしてる。

「Thanks Paul 」

 ベーグルサンドとコーヒーを買ってサロンに戻って行く彼の後姿をまじまじと見送っていると、くすくすっと笑い声がしたのでその声に振り返った。同僚のジェシカとフレディだ。彼が振り返ると同時に何事もなかったかのような顔をして離れたが、彼を馬鹿にして笑っていたのは明らかだった。
 またか、と思ったが、それには慣れていたので、ポールはいっぱいになったゴミ袋を取り替えたり、紙ナプキンや砂糖の補充をしたり、黙々と仕事を続けることで気を紛らわせた。
 その仕事の延長で奥の事務所の横にある倉庫に紙カップや蓋やなんかの補充分を取りに行き、倉庫から出てきたところで、同僚のジェニーと鉢合わせた。

「Hi 」
「あ、今それを取りに行こうとしたところだったの」
「そう」
「……ねえ、ポール」
「うん?」
「気にしちゃ駄目よ、あんな連中なんか」
「? う、うん、ありがとう」
「仕事もろくにしないでお喋りばっかりしてるんだから。あ、これじゃ私も人のこと言えないわね」

 軽く笑いながら店内に戻ると、ほんの2、3分の間に混雑し始めていた。ジェシカとフレディがバタバタと客の対応をしている。ポールも急いでコーヒーを淹れる仕事に戻った。多少の間断はあったものの、結果、午前中とは比べ物にならないくらいに忙しい一日となった。



 7:40 p.m.
 閉店作業を終え、着替えを済ませて事務所を出ると、ジェニーが店の方からこちらに向ってくるのに遭遇した。

「Bye , ジェニー。また明日」
「あ! 待って、ポール」
「うん?」
「あの……お願いがあるんだけど」
「? なんだい?」
「実は最近コンピュータを買ったんだけど、その……まだよく解らないくせに、何か設定を弄っちゃったみたいで色々うまくいかないの。助けてくれない?」
「どんな症状になるの?」

 用語もよく解っていないジェニーの説明は要領を得ていなくて、実物を見なくては何とも判断がつかない感じだったので、イーストヴィレッジの彼女の家に行って診断することになった。
 結局、セキュリティの問題でインターネットに支障が出ているだけだと解り、設定を変え、彼女に解りやすく説明をして作業を終えた。気付けば9時を回っている。二人とも空腹だったので、近くのダイナーで一緒に遅めの夕食をとろう、ということになった。
 ジェニーのくるくるとよく動く大きな瞳を見ていると、何だかベティがそこに居るみたいで少しだけ居た堪れない気持ちになる。彼女はとても気の付く女の子だ。誰かが助けを必要としている時に、何も言わなくてもすっと現れて手助けをしてくれるような、そんな子だった。だから今日の昼間みたいに、誰かがくすくすと彼を笑うような瑣末な出来事にも気付いて、彼にああいう言葉をかけてくれる。
 彼女が相手だとベティの時と違い、少しも緊張することなく自然に会話が出来るのに。彼は普段ならやり過ごしてしまうことを、何となく彼女に訊いてみたくなった。

「ねえジェニー、昼間のことなんだけど」
「Yeah ?」
「僕はその……彼らに笑われるのは別に構わないんだ。子供の頃からそういうのには慣れてるし、笑いたいやつには笑わせておけばいいって思ってるから。ただ……どうしてあの時笑われたのか、その理由が解らなくて」
「……あー」

 ジェニーが口ごもったので、大丈夫、何を言われても傷付かないから、と笑いかけると、ジェニーが小さく息を吐いて彼を見た。

「本当に大丈夫?」
「うん」
「……じゃあ言うね。実は……あなたが向かいのサロンのミシェルのことを好きだ、って噂が立ってて」

 ぶはっ! ポールは思わずコーヒーを噴き出しそうになった。

「ぼっ、僕が彼を!? 何で!?」
「彼が来るとあなたがいつも彼に見とれてて、何だか様子がおかしい、ってジェシカが言い出して、それで……」
「み、見とれるって……」

 ……ああ、彼の格好に毎回感嘆しながら見とれているのは確かかもしれないけど、そんな意味じゃないのに! だって僕が好きなのは……

「私は信じてないわよ。そもそも、もし仮にそれが本当だとして、どうして笑ったりするのか全く理解出来ないわ」
「あー……サンクス、ジェニー。 ああ……何だか頭痛がしてきたよ」

 変な汗まで出てきて寒気がする。そう言えば今日ジェームズは休みだったけど、彼もそう噂してる人間の一人なんだろうか。ベティの耳に入らなきゃいいけど。
 言いたいやつには言わせておけば良い、と常々思っているポールだったが、流石にこの件に関してだけは身の潔白を証明しなくては、と頭を掻き毟った。
 その後ジェニーに別れを告げ、モーニングサイド・ハイツまでヴェスパを走らせている間中、くしゃみが止まらなかった。どうやら寒気がしたのは迷惑な噂話のせいばかりじゃなさそうだ。
 結局その日のうちに高熱が出て、翌日仕事を休む羽目になってしまった。運悪くミシェルも休みだったので、またジェシカが勝手に妙な妄想をして、それを面白おかしく吹聴した。それを耳にしたジェニーがジェシカを非難し、スタッフの間でちょっとした騒ぎとなってしまったのだが、彼がそれを知るのは一週間後のことだった。









 クィーンズ  2:20 p.m.

 廊下の隅でパーカのフードを深く被り、隠れるようにしてベティがこちらの様子を窺っている。そんな彼女を見やり、ラムカは溜め息を吐くと、覚悟を決めてその部屋のブザーを鳴らした。だが何度鳴らしても反応はないようだった。良かった、どうやらハリーは居ないみたい。
 Come on ! そう手で合図してベティを呼び寄せる。
 恐る恐る中に入ると、昨日ベティがバットを振り回して暴れた、そのままの状態にされていた。うわ、随分派手にやっちゃったみたいだね。他人事みたいに言うベティに呆れ、割れた鏡やガラスの破片をスニーカーで蹴散らしながら、ラムカもきょろきょろと惨状を目の当たりにして目を丸くしていた。殺人事件現場ってこんな感じかも?

「彼、本当は今頃モルグ*(遺体安置所)じゃないの?」
「マジそう願うよ」

 鼻にしわを寄せて憎々しげにそう言いながらも、ベティは寝室のドアを開けるのを躊躇い、お願い、開けて、と瞳でラムカに懇願した。仕方ない。そう息を吐いてラムカがドアノブに手をかける。
「F.B.I. !!」――そう叫んでラムカがドアを蹴破った(いや、実際には恐る恐る足で軽くドアを蹴っただけだったが)。指でピストルを作ったベティがベッドに向けて「Bang ! 」と撃つ真似をしながら寝室に踏み込む。
 やり過ぎだよ、と呆れつつ、よしやるか!と声を上げ、彼女達は作業に取り掛かった。
 クローゼットから大きなボストンバッグやスーツケースを取り出し、あれやこれやと荷物を詰める。一度にたくさん運び出せるように、とラムカのものまで持参するという周到さだ。

「Take ?(持ってく?)」
「No」
「Take ? 」
「Yes」
「あれ? こんな服持ってたっけ?」

 Oh ! it's so cute ! ――鏡の前で服を当ててはしゃぐラムカからそれを取り上げ、ボストンバッグに放り入れる。

「早く! あいつが帰って来たらどうすんのよ!」
「ゾンビになって?」

 全くもう! 滅多にない経験に浮かれているのか、嬉々とした様子のラムカに呆れつつ、ゾンビになったハリーの間抜けな姿を想像して彼女は噴き出した。
 ちょっと! それ、かなり笑える! 二人してゲラゲラ笑いながら作業を続け、服や靴以外にも、シャンプーや化粧品などの日用品から愛用のマグカップ、ネイルグッズ、大事な本や小さなランプシェード(それはお気に入りだったので壊さずにおいた)、ありとあらゆるものを詰め込めるだけ詰め込んだ。

 " 彼女と片付け頑張って。せいぜい手を怪我しないように気をつけるのね " ――最後にハリーへの手紙を書いてテーブルの上に置いた。仕上げに彼と二人でマイアミに旅行した時の写真を真っ二つに破り、手紙の上に彼の写真だけを乗せ、ぺティナイフをそこに突き立て(ベティはついでに中指も立てたが)、彼女達はその忌々しい部屋を後にした。







 チェルシー 4:15 p.m.

 キャブがチェルシーに到着した。歴史保存区にあるミシェルの家の前だ。スーツケース2つに大きなボストンバッグ3つを抱え、ブザーを鳴らして管理人を呼び出す。
 フレンチ訛りでミシェルの従妹だと名乗ると、管理人らしいロシア人の婆さんは、ミシェルと一緒に写った写真を数枚見せただけで彼女を信用して、彼の部屋の鍵を開けてくれた。こんな管理人で大丈夫なの?そんな顔でラムカがベティに目配せしている。

 久々に訪れたミシェルの部屋は相変わらずきちんと片付いていた。ちゃんと花を絶やさず、良い匂いが部屋中に漂っている。
 最後に部屋に花を飾ったのっていつだった? さあ……半世紀前? そんな会話を交わしながらどっこいしょ、とラウンジチェアにそれぞれ腰を下ろして一息吐いた。
 元々この部屋は、彼の母親がモデル時代に稼いだ財産で購入したもので、彼は子供の頃からずっとここに住んでいた。今は独りで暮らしているから部屋が空いている筈なのだ。
 NYで気に入った部屋に出会えるのは、宝くじに当選するのに等しいくらい難しい。ラムカが、とりあえず部屋が見つかるまで家に住めば?と言ってくれたのだけど、彼女の家は狭いし、ソファーで寝るしかない。使ってない部屋があるんなら、やっぱミシェルのとこでしょう!とラムカの反対を押し切って勝手にこうして押し掛けてきたのだった。
 じゃあ夕食の準備をして彼を迎えようよ――ラムカがそう提案した。勝手なことをした、せめてもの償いとして。



「何にしようか……」
「あんたのカレーが食べたい」
「……それって私に作れってことだよね」
「もちろん手伝うよ」
「でもスパイスだったらうちの近くのサハディーズなんだけどなあ。焼き立てのナンもここらじゃ手に入らないだろうし……イーストヴィレッジまで買いに行く?」
「Umm……Nah」

 彼女達は夕食の材料を求めて近くのホール・フーズ・マーケットをぶらついていた。日曜日ということもあってか結構な人出だ。

「走っちゃ駄目よ、ショーン」――店内を走り回る子供を叱る母親の声が彼女達の直ぐ傍の通路から聞こえる。
 ショーン?――昨日の彼の顔を思い出し、ラムカは思わず視線を泳がせた。彼がここにいる筈もないのに。
 そうだった、昨日あのカフェで帰り際に彼の名前を尋ねたら「ショーン」だと教えてくれたんだっけ。
「お嬢さん、悪いこたあ言わねえ。あんな女たらし、やめときな。それより俺にしときなよ」――ついでにどうでもいいことまで教えてくれたけど。

「何怒ってんの?」
「え?」
「ショーンって名前、禁句だったとか? ……って言うか、そもそもショーンって誰よ?」
「What !? 」
「昨日、そう叫んでた」
「……そうだっけ」

 彼のことを思い出した時にベティにその名前を出されたので、彼女はベティに心を読まれたのかと一瞬焦った。何しろ昨日は不思議なことが立て続けに起こったのだ、そう思うのも無理はない。
 Come on !  そう言ってベティが答えを待ち構えている。どうしても聞き出したいらしい。ラムカは抵抗を諦めて、昨日ベティのサロンからの帰り道に起こった出来事を説明してみせた。

「Oh my Gosh !  何で黙ってたのよ?」
「……あのね、あんな状態のあんたに何言える?」
「ね、いい男だった?」
「……憶えてない」
「Why !? 」
「そんなことより、どうして彼が私の名前を知ってたか、ってことよ! まさか知らないところで私の個人情報が漏れてるのかな」
「げ、まじ?」
「誰かが勝手にSNSに私の顔写真を使ってるとか。じゃなきゃどうしてあの子や彼が私の名前を知ってたの?」
「ちょっと待って! じゃあ……あたしもってこと?」

 お喋りばかりに夢中になってちっとも買い物かごに食材が入っていかない。結局1時間近くもかかってようやく買い物が終わり、ミシェルの家でのカレー作りが始まった。
 彼が戻って来たのはそれから更に2時間後。そして彼は思いも寄らない展開に混乱しながら、またも不本意な出来事続きだった一日を終えたのだった。