Magnet 5 「 Michel 」







僕は二十歳だった。それが人生で一番美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい。

――― ポール・二ザン (『 アデン・アラビア 』) ―――






5. 「Michel」 ― ミシェル ― 



「――ともかくママン、お願いだから朝から電話してきてジョルジュの話をするのは止めて。気がおかしくなりそうだよ」

 あんたって時々気難しすぎて、ほんと嫌になっちゃうわ。そういう気取ったとこ、父親そっくりよ!――最後はフランス語でいつもの捨て台詞を決め、母親が漸く電話を切った。
 ああ、と溜息を吐いて天井を見上げると、赤黒く気味の悪い色をした亀裂の染みが、いつものように彼の瞳に映りこむ。どうしていつまで経ってもこうなんだろう。いい加減良い男を見つけて、落ち着いた穏やかな暮らしをしてくれればいいのに。
 Talking to a brick-wall* ――言うだけ無駄か。幾ら言い聞かせたところで、奔放な母には全く通じないってことを忘れていた。

 今度こそきっと、ママンは幸せになれる――今度の恋人は久しぶりに母よりも歳上だった。それで変に期待してしまったみたいだ。
 フランス語で愛を語り合えるから――それだけの理由で男を選んだ、としか思えないほど、彼は " ろくでなし " の男だった。ひとつ前の若い恋人のほうが、よっぽど母を大事にしてくれていた。とすると、男の甲斐性に年齢は関係ないということなのだろうか。
 気取り屋ミシェル――母はよくそう言って彼をからかった。時折、さっきみたいに癇癪を起こしては、あんたはそういうところが父親に似ている、と彼を責めるのだが、実際彼には悪く言えば少し気難しいとも取れる繊細な部分が備わっている。
 顔もろくに覚えていない父親に似たのは、この縮れた髪と肌の色だけだと思いたかった。
 どんなにうんざりすることが多くても、僕は決して父のように母を見捨てたりはしない。多分、この先も。

 だからと言って、朝っぱらから電話してきて、恋人への不満や悪口を、のべつ幕無しぶちまけるのは勘弁して欲しかった。どこの誰が朝の8時に自分の母親とその恋人とのベッドの話なんて聞きたがるだろう? 
 ねえママン、そういう話はソフィーか友達にしてよ。 そう言うと決まって母はこう言うのだ。" あんたにしか話せないのよ " と。
 やめてよ、僕がヘテロ*じゃないって知ってるでしょ? 相談になんか乗ってあげられない。
 解ってないのね、mon chou(モン・シュー)!*  そんなことは問題じゃないのよ。あんたには才能があるの。人を慰めて癒してくれる才能が。
 ソフィーが相手にしてくれないだけでしょ?都合のいいこと言わないでよ――毎回こんな会話の繰り返しだ。
 彼はふうーっと息を吐いて電話をベッドの中からナイトテーブルの上に戻し、再びごろんと横たわった。聞きたくもないベッドの話を聞かされるのはもううんざりだった。子供の頃何度も目にした、母とその時々の恋人たちとの淫らな姿を思い出して、気が狂いそうになる。


 彼の母親は20歳になるかならないかの若さで彼を産んだ。恋人を追いかけてやって来た、この遠い異国の地、アメリカで。
 写真家やファッション・デザイナーにとってのミューズ*でもあった早熟で魅惑的なパリの不良娘は、虚構の世界を捨て愛に生きた。恋人を追いかけて、パリからロンドンへ、そしてアメリカへ。
 結局ミシェルの父親とは上手くいかなかったが、国に帰るお金も無かった彼女はそのまま、この地で暮らすことを選んだ。いや、直ぐに新しい男との新しい生活が始まったせいでそうなったと言うべきだろうか。
 以来、母は二ザンの『アデン・アラビア』の有名な一説を、まるで自分の言葉のように繰り返し呟いて生きている。若さを保つ秘訣は恋をすること――そう公言して憚らない。

 そしてここ10年程は恋人が変わる度に各地を転々としていて、今はカナダのケベック州に恋人のジョルジュと住んでいた。
 そんな母親だったから、彼はこの街で16歳からの殆どを一人きりで暮らしてきた。時折、まだ小さいソフィーを連れて思い出したように彼の元へ帰ってくる母親は、彼の膝の上で涙に暮れる日々を送ったかと思えば、また誰かと恋に落ちて何処かへふらっと行ってしまう。 何故か母は毎回、根無し草の旅人のような男とばかり恋に落ちてしまうのだ。
 最長記録は3年。最短では3日。そしてジョルジュとはそろそろ3ヶ月。 ――何だか嫌な予感がする。


 電話が鳴る度に、キースからの電話でありますように!――そう願いながら受話器を取り上げ、そして瞬時に失望することを一体何度繰り返してきただろう。大概、相手は母親のアンヌか妹のソフィーか、或いはベティかラムカか――つまり、そのほとんどが " 女たち " だった。
 たまに聞く低い声の持ち主と言えば、数少ない男友達の一人であるラッセルか、誰がこの番号を教えるのかは知らないが、胡散臭い男からの誘いの電話か、しつこいモデル依頼の電話か――つまり、ラッセル以外、ろくでもない電話ばかりだ。
 僕は彼女達にとって一体何なんだろう? 他の女友達と僕とは一体何が違うと言うんだろう? 何故みんなが自分に話を聞いてもらいたがるのかがさっぱり解らない。
 あんたには才能があるの。人を慰めて癒してくれる才能が――母親の言葉が蘇り、彼に溜め息をつかせる。
 ママン、本当にそんな才能が僕にあると言うのなら、どうして自分の傷は癒せないの?
 僕自身はまだこんなにもボロボロのままなのに。


 不本意な役回りを憂いながら、彼はそれ以上考えることを止め、ベッドを抜け出してバスルームへと向かった。
 こんな気分の滅入った朝には…そう、レニーだ! 彼は気晴らしにレニー・クラヴィッツ*を大音量で流した。
 そして、その日も女たちを慰める役回りが巡って来る運命にあるとも知らず、身体を揺らして歌いながら熱いシャワーを浴びた。







 1:45 p.m.
 まずはラムカが店に飛び込んで来た。
 仕事仲間のJ.C.が(彼は " ジェシー " の名を周りにそう呼ばせていた)、「どうしちゃったっての? あんたのスパイス・ガール?」と大げさにラムカを指差して小首を傾げたので、大事な商売道具であるその指先をぎゅっと捻り潰さんばかりに懲らしめてやった。
 普段温厚なミシェルだったが、意外にも彼は時折、こういった相手の不意を衝く反撃に出たりもする。不敵な笑みを浮かべながら。
 インド系のラムカを揶揄し、いつもどこか小馬鹿にしたような物言いをする尊大なJ.C.にいい加減我慢ならなかったからだ。(もっともJ.C.は、誰に対してもそういう尊大な態度を取る人物だったのだが。)
「何すんのよ! このビッチ!」というJ.C.の罵声が彼の背に届いたが、彼はひらひらと手を振りながらそれを無視して、ベティの目の前でうな垂れるラムカの肩を抱き、髪にキスをして、「ああ、何て酷い髪だい?」と嘆いた。
 そして届く筈のカプチーノを待たずして客に指名を受けた彼は、ラムカの出会った不思議な少年の話に後ろ髪をひかれる思いで仕事に戻り、今度はそちらに神経を集中させた。



 3:30 p.m.
 気付けばラムカは店を後にしており、ベティの目の前にはどういうわけか小さい男の子が座っている。
 彼は困ったような顔をしたベティにくすっと笑い、再び目の前の顧客の仕上げに集中し始めた。
 そして彼はその後、彼女と出会った。






 彼女がサロンにやって来たのは4時を少し回ったくらいの時間だった。
 ちょうど指名を受けた顧客を店の外まで見送った時に、偶然彼女がそこへ飛び込んで来たのだ。
「時間がないの! 誰でもいいわ、ヘア・メイクをお願い!」――たまたま居合わせたミシェルにそう懇願する彼女に、「あなたはとてもラッキーだ。何しろ僕の手が偶然にも、たった今空いたんだから」――彼はそう豪語して自分の椅子に彼女を案内した。
 彼女の名は、キャサリン・クリフォード、といった。
 聞けば新人アシスタントの手違いと運の悪さが重なり、いつものサロンで予約が取れなかったのだという。
 困っているところへもう一人のアシスタントが別人のようになって姿を現したので、どこで変身して来たのか聞いたところ、このサロンだったのだと言う。彼女の言う、別人になったアシスタントとはミス・ベネットなのだった。
 ミス・ベネットを担当したランディーがそれを聞いてミシェルに抗議の視線を送ったが、ミシェルは「Excuse me 」と片目を瞑っただけで彼の抗議を撥ねつけた。何故なら彼女は「誰でもいい」と言っていたのだし、たまたま彼が直接それを請け負ったのだから、この場合、ルール違反だと責められる筋合いはない。
 今日このサロンは二人の新客を手に入れたわけだが、それを仲良く一人ずつ分け合えば良いのだ。


 ミシェルが得意なのはヘア・アレンジはもちろんのこと、その人の魅力を最大限に引き出すメイクアップだ。
 キャサリンは見事なまでに美しい素肌の持ち主だったので、ベースは余り作りこまずに本来の肌の美しさを大切にした。
 まるでマイアミの空と海のように美しい彼女の青い瞳をぐるりとラインで囲み、くるくるとよく動くその大きな青い瞳が引き立つように、余り色味を使わずにブロンズ系のグラデーションでシックに仕上げた。
 クラシック映画の女優のように、レトロな付け睫毛を忘れずに。
 緩くウェーブのかかった長いブロンドの髪は後ろでふわっとひとつにまとめ、彼女の可愛らしいドーリーな雰囲気を残しつつ、少し大人っぽい印象へと変えさせた。彼がイメージしたのは大昔のブリジット・バルドー*だ。
 ここのところ、唇に色が戻ってきたとされているのだが、あえて彼は彼女にヌードカラーのルージュを選んだ。
 薄めの唇に濃い色のルージュは老けて見えることがある。逆に言えば、幼く見えるタイプの彼女にはそれが大人っぽく見えるという利点もあるのだが、カラーレスにすることで、彼女の青い瞳と豊かな表情がとてもクールでセクシーに見えると思ったからだ。
 自分でメイクするとどうしてもピンク系のグロスで終わっちゃうの――そう言って彼女は刻々とクールに変わってゆく自分の姿に目を丸くして驚いていた。


 ミシェルが慎重に仕上げのチェックをしていると、名刺、ある?と彼女にそう問われたので、勿論!と片目を瞑り、彼は人差し指と中指に挟んだそれを彼女に差し出した。

「ミシェル……ピノトー? フランス系なの? それともハイチ出身?」
「よくピノトーと読めたね。フランス語解るの?」
「実は主人もフランス系なの。ミシェルか。ふふ、何だかジャン=ミシェル・バスキア*みたい」
「ああそれ、たまに言われるよ。残念ながら余り絵は得意じゃないんだ。その代わり、女性の顔に色を塗ってるってわけ」

 そう苦笑いして肩を竦めると、つられて笑いながらキャサリンが再び彼の名刺に視線を落として首を傾げる仕草をみせた。

「……ピノトーって……そう言えば昔、何とかピノトーって名前のモデルがいたわよね? アン・ピノトーだったかしら? 活動期間がたったの3年くらいの伝説のモデル」
「――それ! 彼の母親よ!」

 すかさず横からパチンと指を鳴らし、J.C.が口を挟んだ。それは母親の話題を振られるのが嫌いなミシェルへの、彼からのささやかな仕返しだった。
 Shit ! ――普段決してfour-letter-word を口にしないように心を砕いているミシェルだったが、流石にそれにはうっかり禁忌を破ってしまった。
 だが、キャサリンには彼の悪態など全く聞こえていないようだった。
 と言うのも、J.C.の言葉にOh my God ! と繰り返して興奮していたからだ。
 そうなるともう対処法は一つしかない。母と自分のプライバシーを守るため、人違いだと言い張ることだ。
 納得いかない風情のキャサリンだったが、辛抱強く肌の色の違いを強調してそれは人違いだと言い続けたので、何とかその場はそれで収まった。J.C.の奴、今度また同じことをしたら今度こそ指をへし折ってやる!
 ――彼は心でそう息巻いたが、それを隠してキャサリンを店の外まで丁寧に見送った。







 7:20 p.m.
 閉店より一足先に店を出た彼は、チェルシーのアパートメントへ帰る途中、ラムカが気になり電話をかけた。
「緊急事態発生よ! すぐにうちに来て!」――昼間の力ない声とは打って変わったラムカの切羽詰った声。
 彼女やベティの言う「緊急事態発生」による召集は長い夜になるということであり、その為に必ず必要なものが幾つかある。
 それで彼は途中、ソーホーにあるDEAN & DELUCA*に飛び込んで、ワインやリキュール、数種類の食べ物を買い込み、キャブを拾ってブルックリンのラムカの家まで駆け付けた。
 そして荒れ狂うベティの面倒を見る羽目になってしまったのである。
 つまり彼はその日、突然どん底に陥った二人の女友達を慰め、予約が取れず途方に暮れていた一人の女性を美しく変身させる為に尽力した、ということだ。他の顧客や地下鉄の駅の階段で転びそうになった女性、母親のアンヌも人数に含むとすれば、その日彼は8人もの女性を何らかの形で手助けした、ということになる。
 それを自覚する間もなく、彼は酔い潰れたベティに圧し掛かられるようにしてその夜は力尽きた。




 翌朝、お気に入りのジバンシーのヴィンテージ・シャツの襟元や胸元のあちこちに付けられた、ベティの口紅や涎の染み。
 彼は溜息を吐きながらこう思った。ベティやラムカのことは心から愛してはいるけれど、やっぱり女は嫌いだと。その嫌いな筈の女性を美しくすることを仕事にしてしまったのは何とも皮肉なことではある。勿論客は女性に限っていないが。
 でも実際、女性の髪に触れ、肌に触れ、そのしなやかで柔らかな手触りに生まれて初めて恍惚を憶えた相手は、紛れも無く母だった。
 指先に摘んで上に持ち上げ手を放すと、さらさらさらっと柔らかく零れ落ちる母の蜂蜜色の髪。
 黒く縮れてごわごわな自分の髪とはまるで違う、その柔らかな手触り、しなやかな動き、その度にふわりと漂うシャンプーの香り。心地良くて楽しくて、そうやっていつまでも母の髪で遊んでいた。

 そう、本当のことを言ってしまえば、うんざりする存在でもある母に対して、反対に強烈な憧れを抱いているのも確かなのだ。母は本当に美しい。美しいが奔放で自堕落で、どうしようもなく欠点だらけの弱い人間でもある。
 でもその欠点さえも魅力的に映ってしまうほど、彼には母が眩しく見えることもまた事実だった。だからこの仕事を選んだのかもしれないと最近になってそう思う。やはり原点は間違いなく、あの欠点だらけの美しい母にあると。
 つまり彼は、その手で数多の女性を美しく変貌させることに、この上ない喜びを感じているのだろう。
 彼の母親のような、美しい女性にと。

 それはここのところ、母親に向って素直に、愛してるよ、ママン、と言えない彼の、遠回しの愛情表現のひとつなのかもしれなかった。
 本人の望む望まないにかかわらず、やはり彼は女性たちにとって無くてはならない存在であり、母親であるアンヌの言葉通り、彼には確かな才能があった。人を癒す才能と、そして、美しくする才能とが。
 そして母親のアンヌもまた、彼にとってのミューズだったのだ。



 数日後、そんな彼の才能により、眠っていた違う魅力を引き出されたことに感銘を受けたキャサリンから、後日サロンへミシェル宛の花束が届けられた。
 その花束にはキャサリンからの丁寧な礼状と、とあるパーティーへの招待状が添えられていた。