Magnet 4 「 Paul 」







世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方でどうにでもなるのだ。

――― シェイクスピア ―――






4. 「Paul」 ― ポール ― 



 今朝のウェブ・ニュースで届いた「世界の名言」は、彼が幼い頃から父親に言い聞かされていた馴染み深い言葉だった。「It's my favorite !(僕のお気に入り)」――彼は思わずそう小さく呟いて、苦虫を噛み潰したような顔でコーヒーを啜った。
 お気に入りの言葉なのにそんな表情を浮かべたのには訳がある。毎日他人の為に美味いコーヒーを淹れ続ける彼が毎朝自分の為に淹れるコーヒーは、比べ物に、いや、話にならないほど酷い味のものだったからだ。時にはコーヒーというよりも木の粉のような匂いがする。もはやそれはコーヒーとは呼べない。木の粉のジュースだ。
 それは何故かと言えば、旬を過ぎて酸化してしまい売り物にならなくなってしまったコーヒーを、捨てるくらいならと引き取ってくるからなのだ。そんなことをしなくても一般客の3割引きで商品のコーヒー豆を買うことだって出来る身なのに、彼にはコーヒー豆を捨てる、ということがどうしても出来ない。
 販売期限近くなると店頭でセール品として売りに出され、それでも誰にも振り向いても貰えなかった " 行き遅れ " のコーヒーたちをワゴンの中に見つけると、はあ、と溜息が出てしまう。
 そしてそれらをひょいと拾い上げては「うちに来るかい?」と声を掛け、それを買って帰るのだ。

 この頃はマダムが「いいから持ってお帰り」とそれを無料(ただ)にしてくれるようになった。
 そんな彼を「コーヒー馬鹿」だの「可哀想な奴」だのと職場の仲間たちは馬鹿にして笑うが、彼は少しも気に留めない。美味いコーヒーなら職場で幾らでも飲むことが出来るのだし、それより何より、貧しい国のコーヒー農家の人々が、それこそコーヒー豆の如く身を粉にして栽培しているものを、売れ残ったからと言って簡単に捨てるなんて彼には出来ないのだ。
 いや、本当ならば古いものは容赦なく廃棄して、どんどん新しいものを買ってあげたほうがコーヒー農家の収入のためには良いのかもしれない、とは思う。
 でも、もしも自分が生産農家なら、出来れば捨てて欲しくない、と思うことだろう。
 そんな訳で、今朝も酷い味のコーヒーを飲みながらコンピューターの画面に目を通しているのだった。
 そして届いた馴染み深い言葉。父の深く優しい声が耳元で甦るような気がして、彼の口元に笑みが浮かぶ。
 きっと今日も良い一日になるだろう。根拠のない希望ではあったが、そう願いながら彼はコンピューターの電源を落とした。




 そして早めの出勤のためにアパートメントの外へ出た彼は、伸びをしながら土曜の朝の空気を思い切り吸い込んだ。快晴でとても気持ちの良い朝だ。やはり良い一日に違いない。彼は自分にそう言い聞かせ、見上げた空から視線を戻した。
 すると、まだまだコートが必要な季節だと言うのに、薄着の、というより、寝巻きのままの老女が彼の目の前を通り過ぎた。まるで想像した通りの幽霊みたいな、青白く虚ろな表情でとぼとぼと歩くその老女に思わず目が釘付けになった。

「ミセス・バレット!?」
「……」

 気付かずに相変わらずとぼとぼと歩き続ける老女を追いかけ、その肩を掴む。

「ミセス・バレット!」
「はあ? おや、" ジョン " じゃないか。もう学校に行く時間かい? 気を付けて行っておいで」
「Oh ! No , no no ! " マム "、どこへ行くの? 家はこっちだよ。帰ろう、さあ」
「……家?」

 怪訝な顔をして辺りをきょろきょろと見回し、混乱したように頭に手を当てるミセス・バレットの肩を優しく抱き寄せて手を取り、ポールはアパートメントの方へとミセス・バレットを誘(いざな)うようにゆっくりと歩き出した。

「Oh my Goodness ! こんなに冷え切って風邪をひくよ? そうだ、温かいスープを作ってあげるよ。足元に気をつけて。そう、ゆっくり、ゆっくり……」

 朝から『徘徊』中のミセス・バレットを彼女の部屋まで送り、急いで自室の戸棚から取ってきたインスタントのポタージュを作ってミセス・バレットに飲ませ、学校に行くね、と言って彼女に別れを告げた。
 道路から見上げると、2階の窓からミセス・バレットが手を振っている。彼はいつものように、そして当たり前のように「バイ、マム」と手を振り返して、愛車であるヴェスパのエンジンをかけた。
 ポールが彼女の亡くなった息子 、" ジョン " になってからどれくらい経つだろう。ミセス・バレットの朝の 『徘徊』 が始まってからだから、かれこれ4、5ヶ月になろうというところだろうか。
 始めは時々だった " ジョン " の振りも、ここ最近ぐっと回数が増えた。時々面倒を見に来ていた筈の彼女の娘も最近は余り見かけないようだ。また警察に保護でもされたら大変だ。今度こそ何処かの施設に強制的に入れられてしまうだろう。
 本当なら、その方が彼女にとっても家族にとっても、安心出来るのに違いないとは思う。でも以前、まともな意識のある時に、そんな処へ行ったらきっと、今以上に誰も会いに来てくれやしない、と泣いていた彼女の顔を思い出すと胸が詰まる。
 大家に言ってまた娘に様子を見に来てもらわなければ。今朝のところは見つけたのが自分で良かった、とホッとしながら、彼はミッド・ノースのカフェまでヴェスパ*を走らせた。





 仕事中、彼はカフェの窓から向かいのサロンへ、一日に何度も暇さえあれば視線を向けている。赤毛のボブカットの彼女が髪を揺らしてこちらを向いてくれるのを待っている時もあれば、彼女の方が彼が気付いてくれるのを待っている時もある。
 と言っても、残念ながら恋に落ちている恋人同士の、仕事中のふたりだけの秘密、という訳では決してない。
 つまり、こういうことだ。ベティが天に向けて右手の人差し指を一本立てればカプチーノ一杯、ピースサインなら二杯、右手で一本、左手で一本ならカプチーノとブラック・コーヒーを一杯ずつ。
 ――と言っても、それ以上の複雑な組み合わせの際、彼女は電話をくれるのだが、彼はこうして窓ガラス越しに彼女とコーヒーの注文を巡ってやり取りするのが、ほぼ毎日の楽しみになっている。電話で注文されると、何だか一日の楽しみを奪われたような気になって、少しだけガッカリする。電話で聞く彼女の声も会話自体も、それはそれで心が浮き立つのだが。

 そしてその日、彼女が立てたのは、右手の指三本だった。



「Hey , Paul ! 」――配達から戻るなり、彼は仕事仲間のジェームズにシャツの裾を引っ張られた。

「彼女、何があったんだって?」
「……彼女?」
「とぼけるなって。インド系のあの子だよ。ネイリストの友達のさ」
「あー……」

 彼が答えに困っていると、客が入って来たので話が中断された。ポールはひとまずホッとして自ら進んで注文を受けた。どうやらジェームズはラムカのことが気になっている様子なのだが、はっきり言ってラムカに紹介したくないタイプの男なので、とてもラムカが今落ち込んでいるだなどと教えたくなかったのだ。
 彼女はベティの親友だ。彼をラムカに紹介してベティに失望されるのだけは御免だった。顔見知りのベティの事でさえ、本人の居ない所では名前ではなく「あのネイリスト」などと呼ぶような失礼な男なのだし、店のオーナーであるマダム・デュボアのことも、陰では「あの婆さん」だなどと言いながら、本人には笑顔で媚を売るような裏表の激しい男でもあった。とにかく、彼にとってジェームズとは苦手なタイプの人間なのだ。




 そのジェームズがカウンターの下にしゃがみ込んでこっそりとドーナッツを頬張っている時に、奇妙な組み合わせの三人連れが来店した。着飾った30代半ばくらいの女と、サングラスをかけた背の高い男、そして5、6歳の男の子の三人だ。
 着飾った女は自分の分は注文せず、二人の支払いだけ済ませると、向かいのベティのサロンへと入って行った。残された男二人はどう見ても親子には見えないし、男と女も夫婦には見えない。
 少年はオレンジジュースを飲みながらゲーム機で遊んでいて、男のほうは辛抱強くその様子を見守りながら、時折きょろきょろと辺りを見回している。そのうちに男は席を立つと、つかつか、とポールの方へ寄ってきて、レストルームへ行きたいのだが、その間自分の代わりにあの席へ座り、あの少年を見ていてくれないか――そう言ってポールのシャツの胸ポケットに、カフェの店員へのチップとしては法外とも言える20ドル札を忍ばせた。
 こんなに沢山、困ります、ミスター! そう言って追いかけるポールを無視して行ってしまった男の背を見送り、仕方なく言われた通りに席に座ると、目の前の少年が顔を上げた。

「Hi !」
「Hi 」

 見知らぬ男が突然目の前に座ったのに、特に驚いた顔も見せない少年にポールの方が目を丸くした。
 こういうこと、よくあるのかい?  こういうことって?  誰かがチップを貰ってあの彼の代わりに君の前に座ってお守りを引き受けることさ。  うん、まあね。
 そんな会話を繰り返した後、突然少年がゲーム機をテーブルに置いて、恐る恐る、といった顔でポールを見上げた。

「――間違っていたらごめんなさい。もしかして、君がポール?」
「え!?」

 彼は思わずシャツの胸元を確認した。確かネームプレートは付けていない筈なのに。

「やっぱりそうだ! 僕はレイだよ。よろしくね。えっと――」
「――僕を知ってるの!?」
「うーん……知ってる、って言うより、今知ったの。たった今、" バディ " が教えてくれたんだよ」
「バディ? さっきの彼?」
「あー、ミスター・アンダーソンのことじゃないんだ。まあ " バディ " のことは気にしないで。それより」
「???」

 この子が何を言っているのかさっぱり訳が解らなかったが、彼は辛抱強く少年の言葉に耳を傾け続けた。

「いい知らせだよ。君の夢はいつか『かなう』んだってさ」
「What ?」
「それと」
「???」
「その気持ちはいつか『つうじる』からあきらめるな、だって」
「!?」
「つまり、君の『みらい』は明るいってことだよ! おめでとう、ポール」
「……Oh……wow……驚いたな……いや、その、ありがとうって言うべきなのかな……」
「あ、ミスター・アンダーソンが戻って来たよ」

 彼はホッとしたようにすぐさま席を立ち、アンダーソンという男に席を譲った。
 もう一度、ミスター、こんなに沢山頂き過ぎです、とチップの件を蒸し返してはみたのだが、強面なサングラス姿の男にいいから取っておけ、と言われてはその通りにするしかなかった。


 それから暫くの後、何を思ったか向かいのサロンに連れ立って入っていく二人を見送り、テーブルを拭きながら彼らの相手をするベティをこっそりと窓から眺めた。
『その気持ちはいつか通じるから諦めるな』――その時、あのレイという少年の言葉が瞬時に甦り、ポールは焦った。
 まさか、あの子が彼女にそれを言いにサロンへ行ったのでは!?―― そう思い付いてしまい、彼は気が気ではなくなったのだ。それで珍しく仕事のミスも犯した。彼は明らかに普段の冷静さを欠いており、様子がおかしい。考えてみれば彼の気持ちなどあの子供が知っていよう筈もないのだが、軽いパニック症状に陥った彼にそんな冷静な判断はつかなかったようだ。

 そして数十分後、バッグを肩に掛け、珍しく早い時間に帰る様子のベティが酷い顔色でコーヒーカップを返しにカフェに入って来たのを見て、彼は確信した。
 ああ、やっぱりそうだ、あの少年が余計なことをしてくれたのだ。どうしよう……ベティに会わせる顔がない。
 咄嗟に彼は逃げようかと思ったのだが、瞳はベティに釘付けで、どういうわけだか身体が硬直して動かない。
 彼の意志に反し、まるで誰かが動けないように魔法をかけたみたいに、指一本動かすことすら出来ないのだ。

「Hi , ポール。コーヒー美味しかったよ」
「あ……」

 気付けば彼はコーヒーカップが三つ載ったトレイをベティに手渡されていた。

「? どうかした?ポール」
「あ……」
「?」
「い、いつもカップを綺麗に洗ってくれて……本当にありがとう、ベティ」
「What ? どうしちゃったの? ポール。あんた様子が変よ?」
「――20ドルものチップ貰ったせいで舞い上がってさ、さっきからこの調子さ。20ドルっぽっちでだぜ? ガキじゃあるまいし」

 横からジェームズが嫌味っぽく口を挟んだ。明らかにチップをやっかんでいる口調だったが、ポールはそれを無視した。
 と言うより、ジェームズの言葉など、はなっから耳に入っていなかった。

「本当!? 凄いじゃない! じゃあ今度それで一杯おごってよ、ポール」
「!?」

 ベティがそう笑って彼の胸ポケットをぽん、と軽く叩いた。

「じゃあ、また明日」
「あ……」

 おどおどとした様子でByeと小さく呟きながら、ポールは再びの衝撃に眩暈がしそうになった。
 Oh my Goodness ! この二つの耳が聞き違えていなければ、の話だが、彼女は今さっき、まさか、信じられないことに、「おごって、ポール」と言った? 一杯おごってと?
 ただの社交辞令だ、うぬぼれちゃいけない!――咄嗟にそう自分に言い聞かせてはみたのだが、違う考えが浮かび、彼は思わず呼吸困難に陥りそうになった。
 つまり、彼女は少年から妙な話を聞かされても自分を拒否しなかった、もっと言うならば、「おごって」と言う言葉の裏には「誘ってくれてもOKよ」、という意思表示が隠されていたのでは?という突飛した考えに至り、ますます混乱したのだ。

 確かに幸福も不幸も、ものごとというものは全て、考え方次第で " どうにでもなる " ものだ。
 でも彼は、混乱してしまうと、考えすぎてものごとを " どうにかしてしまう " 悪い癖の持ち主だった。いわゆる、思い込み、というやつだ。

 やれやれ、といった顔で彼の手からトレイを取り上げたジェームズは、ラムカの事をベティに訊きそびれた事を思い出してShit ! と独り悔しがった。
 ポール自身が独り善がりの思い込みを知ることになるのは、それからもう少し、先の話である。