Magnet 45 「Pavane pour une Reine défunte」












45. 「Pavane pour une Reine défunte」 ― “泣き”女王のためのパヴァーヌ ― 






 アッパー・イースト〈セントラル・パーク〉 1:20 p.m.


「ええ……それについては別途詳しく資料をお送りするわ。先日と同じアドレスで大丈夫かしら? ――そう。ええ、了解したわ。それじゃ」

 仕事の電話を切り、ふーっと息を吐いて再び電話を耳に当てる。アシスタントのティナに連絡をするためだ。
 先ほど電話で話した取引先へ件の資料を送付するよう指示し、夕方までにはオフィスへ戻る旨を伝えた。
 再び電話を切り、ベンチに深く腰掛け直し、何気なく時間を確認する。そろそろ昼の1時半を迎えようとしていた。
 レストランへランチに出かけると言ってオフィスを抜け出した彼女だったが、結局はベンダー(屋台)でホット・サンドウィッチとコーヒーを買い、セントラル・パークで独り、時を過ごしている。
 すっかりぬるくなってしまった残りのコーヒーを啜り、何をするでもなく、ベンチに座ったままぼうっとあたりを眺めた。
 彼女のすぐ近くで、2歳くらいの小さい子供を連れた若い女性が、芝生の上でその子供と追いかけっこをしている。恐らく母親ではなく、ナニー(子守り)だろう。
 レイもあのくらいの歳の頃には、ここセントラル・パークによく連れて来たものだった。
 あの頃は母から受け継いだ「Louise」(ルイーズ)をリニューアルさせることに忙殺されていて、ナニー(子守り)やナディアに今以上に頼りっきりだったけれど、なるべく時間を割いてレイをここへ連れて来ては、彼女自身もちゃんと気分転換をしていたように記憶している。
 息子と一緒に鳥やリスを追いかけたり、雪を丸めて遊んだり、懐かしい出来事のあれこれに思いを馳せる。心がふわり、と温かいものに包まれて彼女の頬に柔らかな笑みを浮かべさせた。
 と同時に、あの日以来、しょんぼりと元気のない顔をすることが増えた息子を思い、急速に心がしぼんでいくのを感じて溜息が零れた。
 一度眠ってしまえばそうそう起きることのないレイが、どうしてあの時に限って起き出してしまったのだろう。いったいどうして。考えても仕方のないことを、あの日以来ずっと心の中で繰り返してばかりだ。

 そしてここ数日は夫とも寝室を別にして距離を置いている。彼はあの夜以来、ゲストルームで寝ているのだった。
 今夜からゲストルームで寝るわ――諍いの後、そう息まく彼女を彼が宥めた。君がそうする必要はない。自分がゲストルームで寝るから君はいつものベッドでゆっくり寝れば良いと。
 なおさらに腹が立った。そんな気遣いをしてくれる優しさがあるのなら、そもそもどうして浮気なんかしたのだろうか。しかも『彼女』と似たタイプの女性と。
 結局はまた、そこに考えが戻る。彼女は再び息を吐いて瞳を閉じた。


 あの夜。夫の視線がその場の誰かに移動するたび、彼女はさり気なくその視線を追った。
 彼としてはただ、発言している人間の方へ注目しているだけで、それは疑う余地などなかった。ただ観察したかった。夫が他の女に向ける瞳の色を。
 もちろんそこに『あの女』がいるわけではなかった。夫の友人たちとその妻やパートナーが集まり、他愛ないお喋りと食事を楽しんでいるだけだったのだから。
 もっとも、彼女自身は心からその場を楽しめてはいるわけではなかったが。
 何故なら、そこにも『あの女』と似たタイプの女がいたから。黒く長い髪とよく焼けたブロンズ色の肌を持つ女だ。
 途中、キッチンに足を踏み入れた時に、夫とその女が笑顔でお喋りをしていた。ただの世間話だったのはわかっている。でもそれが不快で仕方がなかった。それでつい苛々とした気分のまま、帰りの車の中で夫に対し悪態をついてしまった。
 いや、息子のナニー(子守り)のシェリーを始めとして、周りを見渡せば、そういう外見の女たちなど数え切れないほどいるというのに。
 本当に私ったら――

「――隣、空いてますか?」
「?」

 突然降って来た声に顔を上げる。栗色をした巻き毛の若い男だった。英国人と思しきアクセントと人懐っこそうな瞳の組み合わせには覚えがある。
 彼女は本屋での出来事を瞬時に思い出した。

「あなた、あの時の――」
「憶えててくれたんですね。あなたは確か、キャサリン、でしたよね?」
「ええ。あなたは……えっと、確か……」
「ルークです」
「ああ、そうだったわ」

 どうぞ座って、ルーク――置いていた荷物を反対側に移し、男に笑みを向ける。ありがとう、と言いながら男は彼女の隣に腰を下ろした。

「先日はどうも。息子に親切にしてくださって」
「とんでもない。本を取ってあげただけですから。レイ、でしたっけ?」
「ええ」
「とても可愛い子ですね。賢いし。まるで子供の頃の僕みたいだ」
「ふふっ」

 おどけた表情で瞳を丸くして笑う彼につられて彼女も笑う。

「そう言えば……あれって児童書のエリアだったわよね? お子さんへの本を探していたの?」

 とても子供がいる年齢には見えないけど?――そう言いたげな視線を彼に向ける。

「ああ、あれは姪へのプレゼントを探してたんです。姉の子なんですけど、来月4歳になるので」
「まあ、そうなのね。それはおめでとう。それで? 何かいい絵本は見つかった?」
「それが……あまりにも数が多すぎて選びきれずに、結局あの日は退散してしまって」
「あら」
「絵本よりおもちゃのほうがいいのかな、それともぬいぐるみとか、フリルのついたドレスのほうがいいのかな、なんて考えがまとまらなくて。4歳の女の子が喜ぶものなんて想像もつかないから」
「ふふ、その子をとっても可愛がってるのが伝わって来るわね。そんなに真剣に考えて悩むなんて」
「ええ。彼女は今のところ、僕にとって一番の宝物ですから」
「そう……素敵ね」

 その姪っ子の誕生日パーティーのために、彼は来月イギリスに一時帰国する予定らしい。
 彼本人はロンドンの出身だが、姉の家族は今、西側のブリストルという都市に住んでいるのだと言う。
 イギリスへは何度か行ったが、その都市へは行ったことがない、そう言う彼女に、彼が『いつでも案内しますよ』と笑顔を向ける。
 今すぐにでも逃げ出したい。ロンドンでもそのブリストルでも、どこでもいいから。ふっとそんな思いが湧いた。

「――そうだ! ねえ、今からプレゼントを探しに行かない?」
「えっ」
「うちは男の子だし、女の子へのプレゼント選びなんて考えただけでわくわくしちゃう! ね、手伝わせて」
「え、でも――」
「いいから!」

 彼女は、ぽかんと驚いた顔をしたルークの腕を掴むと、勢いよくベンチから立ち上がった。


 それから数件の店を巡った彼らだったが、最終的に五番街にある子供服の店をチョイスした。
 選んだのは、ベルベット素材のトップにチュール素材のスカート、スカートとお揃いの生地で出来たヘッドドレス、星の形をした『魔法のステッキ』、彼の姪・ルーシーが大好きだと言うウサギのマスクなどがセットになったもので、くすんだピンク色が子供っぽさを消し去っているような、とても洗練されたものだった。
 それを買い、喜びに満たされつつ店を出たところで、キャサリンが何かを思い出したような、何かを思いついたような顔をして立ち止まる。
 ちょっと待ってて!――彼女は、不思議そうな顔をするルークを残して再びその店へと入り、店のスタッフと何やら話したかと思うと、紙袋を手に彼のもとへと戻った。

「はい、これ。大事なものを忘れてたわ」
「? 大事なもの?」
「そう。ティアラよ」
「!」
「お姫様になくてはならないものだから」
「えっ、でも、そんなわけには――」
「――いいから。本物のジュエリーじゃないし、高価なものでもないから気にしないで」

 でもね、お洋服は今しか着られないかもしれないけど、大好きな叔父さんからもらったティアラなら、ずっと大切に持っていてくれるはずよ――彼女のその言葉に、彼は感慨深げな顔で首をゆっくりと振った。

「ああ……本当に何てお礼を言えばいいのか……」
「いいのよ、息子に親切にしていただいたし、私のほうこそとっても楽しい時間を過ごさせてもらったから」

 その代わり、美味しいコーヒーでもごちそうしてくれる?――いたずらっぽく笑う彼女に、OKと彼が笑顔を返し、二人は再び人混みの中を歩き始めた。








 ミッドタウン・ノース『Bruno Bianchi NY』(ブルーノ・ビアンキ・ニューヨーク) 3:50 p.m.


「――ええ……ええ、ぜひやらせてください! 必ず期待に応えてみせます。ええ……了解しました。それじゃ――」

 Yeeesss ! (っしゃーーー!)――電話を切り、天を仰いでガッツポーズを決めると、ミシェルは嬉しそうにガラスの扉を開いてサロンに戻った。すぐに近くのネイルブースへ行き、暇そうなベティの目の前の椅子にどかっと腰かける。

「――聞いて! B!」
「ううぅぅぅ……」
「? 何やってんの」

 携帯電話を握りしめたまま、怪しいうなり声をあげるベティに怪訝な顔を向ける。

「さっきからずっとこれよ。いい加減『彼』に電話するようにあなたからも言って』

 ベティの隣で同僚のエミが呆れ顔を見せるのを横目に、ベティの顔の前でミシェルが『Hey !』と指を鳴らす。

「Hey hey , 赤毛のカワイコちゃん! ビッグニュースがあるんだけど、聞きたくない? 聞きたいよね?」
「ぅぅぅ……」
「ビッグニュース?」

 全く反応しないベティに代わり、エミがその先を知りたそうに身を乗り出す。ミシェルは待ってましたとばかりに両手を広げた。

「Ta-dah!(じゃじゃーん!) ピノトー君、何と今年のMETガラ*に呼ばれましたー!」
「うっそ! マジで!?」
「もちろん仕事でだけどね。タティアナ・グリーソンのヘアメイク担当になるかも」
「Wow ! すごいじゃない! おめでとうミシェル!」
「ぅぅぅ……」
「ありがとう、エミ。――ちょっとベティ! いつまでやってんのさ!」
「――あっ!」

 ミシェルはベティの手からiPhoneを奪うと、画面を見て『Uh-oh !』(あらら)と声を上げた。

「返しなさいよ!」
「ねえまさか、電話する・しないでまだ悩んでんの!? もうタイムリミットだよ?」
「返しなさいってば!」
「おっと!」

 電話を取り返そうとするベティの右腕をかわし、ミシェルが今度は『Oopsies』(あらやだ)と言ってニヤリと笑った。

「うっかり発信ボタン触っちゃった!」
「Whaaattt !!?」(何だとォォオ!?)

 ごめんなさぁい――ミシェルがオネエ口調でわざとらしく肩をすくめる。

「ああ……終わりだ……終わりだよ……」

 そうぶつぶつ言いながらベティが頭を抱えた。

「――Oh , Hi ! 驚かせてごめんなさい、あたしミシェル。実はベティの代わりに電話してるの。彼女喉が痛くて今話せないみたいで――」

 ミシェルが勝手に例の男と話し始めたかと思ったら、エミまで『早く会いたーい!』と電話の向こうの彼に聞こえるように声をあげる始末だ。
 てめえら、憶えてろよ……心の中でそう息まいて二人を力なく睨みつけると、ベティは『Ugh(ぐはっ)』と恨めしそうな息を吐いて机に突っ伏した。

「Hey , Queen B ! 彼、今まだ仕事中だからまた今度ゆっくり電話するってさ」
「Well done !」(よくやった!)
「Yaaaaay !」(イエーーイ!)

 ぅぅぅ……誰か殺してくれ……!
 ミシェルとエミがハイタッチをしてはしゃぐその横で、ベティは机に伏せたまま、いつまでもうめき声を上げ続けるのだった。