Magnet 46 「A witch and a wizard」












46. 「A witch and a wizard」 ― 魔女と魔法使い ― 






 トライベッカ 1:30 p.m.


 イタリアン・レストランでのビジネス・ランチを終えた彼は、こちらが用意した車に乗り込む相手方を丁寧に見送った。それから他の役員二名と専属の車に乗り込もうとしたところで、数台後ろに停車していた別の車からクラクションが鳴った。
 そちらのほうへと目を向ける。彼は、あとの二人を乗せた車を先に会社へ戻らせ、待っていた別の車に乗り込んだ。運転席で彼を待っていたのは、ミゲルだ。
「ん? 臭うな。ニンニク食ったのか?」
「まさか」
 金融街界隈のこのイタリアン・レストランでは、ランチタイムにニンニクはあまり使われない。ニンニクを敬遠するビジネスマン客が多いため、いつからか使われなくなったのだ。それは周知の事実だった。
 つまりこれは、昼食も食べずに車で待っていたミゲルの、いわばやっかみ半分の冗談だ。
 会社のトップである彼にこんな軽口を叩けるのはおそらく、数名の役員とミゲルだけだろう。もっとも、他の社員の前ではミゲルも決してそんなことは口にしないが。
 そしてここでミゲルが待っていた、ということは、会社では話せない事例の報告ということだ。

「それで? 何か進展が?」
「これを――」
「?」
 ミゲルが手渡した封筒を開ける。何かが書かれた紙と写真が数枚ずつ。とりあえずそれらに目を通す。金髪に青い瞳をした、少しふっくらとした体形の色白の少女の写真だった。
「まるで別人だな……ハンナ……エリオット? 名前も違ってる。本当に『彼女』なのか?」
「ああ、間違いない」
「! スペンサー高だって!?」
「卒業した年を見てくれ」
「! まさか……」

 妻のキャサリンと同じ年に同じ高校を卒業している。つまり二人は同級生ということになるのだろうか。
 一学年70名にも満たない少数制の進学校のはずだから、お互いのことは憶えているだろうが、果たして?――驚いた顔のまま、フィリップが考えを巡らせ始める。
 写真の少女と現在の『彼女』の風貌があまりにも違いすぎている。本当にこの写真の少女が過去の『彼女』なのだとしたら、髪を黒く染め、顔を弄り、瞳の色も肌の色も変えた、そういうことになる。まるで「別人」として生まれ変わったように。
 だが整形手術やカラーコンタクトレンズでのイメージチェンジそのものは、特別驚くようなことではない。
 肝心なのは、『彼女』が『とある人物』と似ているのが偶然ではないのかもしれない、という可能性が浮上したということだ。
 二人が似ているのは偶然だとずっと思ってきた。似た風貌の女など他にも街のあちらこちらで見かけるからだ。
 それが偶然ではなく、故意に『似せた』のだとしたら? だが、いったい何を目的に?
「フィル、これは……」
「……わかってる」
 想像した以上の厄介ごとだぞ――ミゲルの言いたいことを察し、フィリップは瞼を指で押さえるようにして大きく息を吐いた。そんな彼にミゲルが気遣うような瞳を向ける。
「大丈夫か? ここのとこ眠れてないんだろ? しばらくはこのことから離れたほうがいい」
「……」
 フィリップは無言で肩をすくめた。自分自身が悪いのだから仕方がない、とでも言いたそうな表情を浮かべている。
「……キャサリンとちゃんと話したいんだ。正直に全てを話したいと思ってる。でも……彼女は話を聞こうともせずに俺を避けてる。今まではレイの手前、何とか取り繕ってこれたけど、レイの目の前で彼女と言い争ってしまって、レイともちょっとぎくしゃくしてる。最悪だよ」
「Oh Jeez」
 レイの名を出すと、ミゲルは辛そうな顔をして首を小さく振った。

 その時、ミゲルの携帯電話が鳴った。母親のナディアからだ。こんな時間に電話をかけてくることはほとんどないので出てみれば、古い知り合いの訃報を知らせるものだった。
 わかったよ、またあとで電話する――そう言って電話を切り、フィリップに向き直る。
「いいのか?」
「ああ。すまん、話の途中だったな」
「いや、いい……とりあえず、もう少し調べてみてくれないか? いずれにしろ、キャサリンと話し合うためにもあの女のことをもう少し知っておく必要がある」
「わかった」
「悪いな、個人的なことまで頼んでしまって」
「何を今さら」
 そう言ってミゲルが軽く笑う。それにつられたように笑い、そう言えば、とフィリップが思い出したような顔をミゲルに向けた。
「話は変わるが、お前とヴァレリー、いったいどうなってるんだ?」
「は?」
「付き合ってたのか? 俺に隠れて?」
「付き合ってない」
「なるほど……やっただけか」
「言葉を選べ」
「Whoe(ウォゥ)」
 吹き出したように笑い、車を出せよとばかりにフィリップが前方を指さす。笑って横のボスを軽くにらむと、ミゲルはエンジンをかけ、車を発信させた。











 アッパー・イースト 5:40 p.m.


「――よいしょっ、うんしょっ」
「あと少し!」
「えいっ! ちっちゃくなーれ!」
「ふふ、それくらいでOKよ」
「はあい」
 ラムカは、レイに熟したバナナを潰す係を任せた後、それを小麦粉や他の材料と混ぜ合わせ始めた。レイがその作業もやりたがったので、途中からはその作業をレイに引き継いだ。
 混ぜ終えた生地をマフィン型に流し入れ、軽くトントンとテーブルに叩きつけるようにして空気を抜くと、あらかじめ予熱しておいたオーヴンの中にそれを入れた。
 バナナブレッドのレシピなのにパウンド型を使わずにマフィン型を使ったのは、あとで切り分ける手間がいらないからだ。作りすぎて残ったとしても、ドアマンや階下の住人など、他人に気軽に手渡しやすい。
 階下の住人からも喜ばれているようなので、むしろ最近では、あえて多めに作るようになった。
 レイと二人でわくわくしながらオーヴンを覗き込む。クッキーでもマフィンでも、最後にオーヴンに入れた後でそうやって中を覗き込むのが彼女たちの儀式なのだった。
 そんな彼らを見て、クスリ、とショーンが笑うのも儀式の中の一つとなっている。
 オーヴンにマフィン型を放り込んだあと、レイはキッチンのカウンターテーブルの上に広げた本を読み始め、ラムカはボウルやらウィスク(泡だて器)やらの道具をざっと洗い始める。彼女がそれらをディッシュ・ウォッシャーに入れてスウィッチを押したところで、彼女の携帯電話が鳴った。どうやらベティからのようだ。

「What’s up , buttercup(カワイコちゃん)」
 “無駄に韻踏んでる場合じゃないよラムカ!”
「はいはい、今日は何でございましょうか、Your Majesty(女王陛下)」
 ベティと電話をしながらラムカがキッチンを出て行く。昨日ベティからミシェルとエミへの恨み言を散々聞かされたので、恐らくまた長電話になるだろうと思ったのだ。
 “聞いて驚けよォ!? 『エマとコリンのおノロケスピーチに耐えるガマン大会』の日程がいよいよ決まったそうだ! 場所は何と! マンダリン・オリエンタル!”
「………ワーオ、ソレハビックリダー」
 “いつもながら期待の基準値の半分も満たさない微妙なリアクションをありがとう。――でだ! その日エマに贈るちょっとしたお祝いを買おうかと思っているのだがテイラー君、何がいいと思うかね?”
「え、急に言われても思いつかない。――ってか『いつもながら微妙』って言った? 微妙って?」
 “認識の違いだ、気にするな”
「何よそれ」

 ベイビー(赤ちゃん)のものにする?  でもベイビー・シャワー*はまだうんと先だよ? その時までとっておかないと。  そっか。
 あれやこれやと贈り物の候補を挙げては『それいいかも』『いや、それは予算オーバー』などと繰り返し、挙句、話が脱線したり戻ったりを繰り返す。女同士の(一見無駄としか思えない)会話というのは、古代からこんこんと湧き続ける泉のように尽きることはないのだ。その事実を知らぬ者など、この地球上に誰ひとりとして存在しない。
 さすがに仕事中はなるべく用件だけで会話を終わらせることにしている彼女たちだったが、『仲間内から初めて結婚する友人への贈り物を探す』という未経験のタスクにヒートアップしてしまい、30分以上も話し込んでいることにすら気付かない。
 そのうちにショーンが廊下へ姿を現し、無言で親指を背後のキッチンの方へと向けた。レイが呼んでいる、そういうサインなのだろう。
 それで彼女はいよいよベティとの会話を終わらせ、キッチンへと戻った。
 
 戻ってみれば、レイがカウンターテーブルに頭を伏せていた。どうやら眠ってしまったようだ。
「――レイ!? 寝ちゃったの?」
 声をかけるとレイはぼんやりとまぶたを開いたが、またすぐにそれを閉じてしまった。
「どうしよう……こんな時間に寝ちゃうなんて」
「とりあえずベッドに運ぼう」
「あ、私が連れてく」
「だいじょうぶ?」
「ええ」

 よいしょっとレイを抱きあげてキッチンを出る。
 初めて彼女が彼のナニー(子守)としてこの家に来た頃よりも、レイの体は少しばかり重さを増した。
 それを実感しながら廊下を歩いていると、そこへキャサリンが帰宅したので笑顔を向けた。
「おかえりなさい」
「あら! レイったら寝ちゃったの? こんな時間に?」
「ええ、そうみたいです」
 レイが再びうっすらと瞳を開いた。やはりとても眠たそうにしている。
 夜にぐっすり眠れていないのだ。ラムカにもそれは判っていたが、キャサリンを思うとそのことを口には出せない。
 キャサリン自身も判っていたのだろう、表情を少し曇らせ、そっとレイの髪を指で梳くように撫でた。
 その感触に再びレイが少し瞳を開いたが、レイはイヤイヤするように顔を反対側に背けてまた瞳を閉じてしまった。
 ベッドに寝かせて来ますね、そう言い残し、ラムカはレイを連れてその場を離れた。
「――ナディア」
 キャサリンがナディアを呼ぶ声に、ハッとした顔でラムカが振り返る。
「言い忘れるところでした! ナディアはいま出かけてます。何でも郊外に住む知り合いが亡くなったとかで」
「Oh , じゃあその方のヴューイング*へ行ったのね?」
「ええ。ミゲルも一緒みたいです」
「そう……それなら遅くなっても安心ね」
 キャサリンの言葉に笑みを返し、レイの部屋へと歩き出す。
 例の夜以来、キャサリンがさっきみたいな悲しそうな顔をしたり不機嫌になったり、かなり不安定な様子なので、どう対処したらいいのか戸惑うことが増えた。
 こんな時ナディアがいてくれたら、きっと上手いことを言ってフォローしてくれただろうに。こんな時に限って彼女は留守なのだ。
 小さく息を吐き、ラムカはレイの部屋の扉を開けた。







「――いい匂いね」
 彼がその声に振り返ると、キャサリンがキッチンの入り口の壁にもたれて立っていた。袖のずり落ちた、肩が剥き出しになったデザインの服を着ている。いつになく、親しみを込めた笑みを口元に貼り付けていた。
「Hi , 今日は早いね」
「お邪魔だったかしら?」
「まさか!」
 キャサリンは冷蔵庫を開けると、ビールを取り出して栓を捻り、ひと口飲み込んでゆっくりとショーンの傍へと行った。
 妻に酒を勧めないでくれ、と以前フィリップから言われたことを思い出したが、この場合彼に責任はないだろう。
 そんなショーンの視線がビールに注がれたが、彼女は全く気にも留めず、横から覗き込むようにしながら準備中の彼の仕事を眺め続けた。
「そのトマト、全部使うの?」
「もちろん」
「ふふ」
「?」
「あの子が野菜を食べてくれるようになったなんて、まだ夢を見てるみたい。トマトなんて絶対に見向きもしなかったのよ?」
「ああ、そうだった。苦労したよ」
「ねえ、あなた一体、あの子にどんな魔法をかけたの?」
「魔法?」
「そう。あれは魔法よ――」