Magnet 44 「 Awkward moment 」












44. 「Awkward moment」 ― 気まずい瞬間(とき)をあなたと ― 





 アッパー・イースト 7:40 p.m.

 いつの間にか静かな寝息をたて始めたレイの顔をしばらく見つめたあと、ラムカは手元の絵本をブックシェルフに戻すため、椅子から立ち上がった。
 絵本を戻し、再び椅子へ腰を下ろす。ベッド脇の小さなテーブルの上に置かれたレイのスケッチブックを目に留め、彼女はそれを手に取った。
 レイが描いたという、彼のバディの絵。それを囲むように描かれたヒエログリフのようなもの。一体どういうことが書かれてあるのだろう。
 古代エジプト学を学ぶ弟のアイシュならば、スラスラとはいかないにしても、ある程度解読することが出来るだろうか。
 そんなことを思いながら、それを改めてじっと見つめていると、実に不思議なことが起こった。
 横を向いているように描かれたバディの目が、一瞬、こちらを見るように動いたのだ。いや、動いたように思えたのだ。
 そんなバカなことがあるはずはない。彼女は慌てて指先でまぶたを抑え、心を落ち着かせるように深呼吸した。
 しばらくの後、レイのスケッチブックをテーブルに戻し、彼女は立ち上がってキッチンへと向かった。
 私ったら、ちょっと疲れてるみたい。コーヒーでも飲んで落ち着かなきゃ。
 そう思いながらキッチンへ戻ると、ショーンが独り、そこにいた。
 アマンダはもう帰ってしまったのか、荷物と共に姿が消えていた。正直、ホッとする思いだった。アマンダには申し訳ないが。
 
「Hi」
「――Oh」

 手元の紙に集中していたショーンが、少し驚いたように顔を上げた。彼が見ていたのは、アマンダとの打ち合わせで決めたメニュー表なのだろう。
 彼は疲れた様子のラムカに気付いたように、怪訝な顔を向けた。

「大丈夫?」
「あ……ううん、何でもない。えっと……そう、コーヒーでも飲もうかと……」
「ああ、いいね。じゃあちょっと待ってて」
「え?」
「俺も飲みたいから」
「あ……ありがとう」

 素直に礼を言い、椅子に腰を下ろす。彼女としては少し落ち着かない気分だ。
 キッチンで、彼と二人きりでコーヒーを飲むのは、まるであの朝の続きのようで、居たたまれない気持ちになってしまうから。
 ……考え過ぎよね。あれから何度もここで一緒にコーヒーを飲んでいるのに、私ったらいつまであの日のことを―――
 
 その時、携帯電話の音が彼女の思考を止めた。ディスプレイを見ると、またしてもベティからだった。やれやれ、今度は何?

「―――What’s up , Queen B* ?」
『緊急事態発生!』
「は?」
『だから! 緊急事態なんだって!』
「どうしたの?」
『ここでは言えないよ!』
「何? ごめんよく聞こえない」
『あんた今どこよ?』
「アッパー・イースト。まだレイの子守り中って言ったじゃない」
『今からそっち行っていい?』
「は?」
『もー無理無理ムリ、無理! 独りでいるなんて絶対無理!』
「分かった、分かったから」

 ベティとの会話を終え、彼女は息を吐いて携帯電話をカウンター・テーブルの上に置いた。

「――悪いんだけど、コーヒー、もうひとり分淹れてもらえない?」







 ―――で、言ってやったのよ、『あんた誰よ』って。こっちはそいつを知らないのにさ、そいつがあたしのこと知ってるなんて気持ち悪いったらありゃしないもの。あたしはセレブリティでも何でもないんだし、えっ、ストーカー?って思っちゃっても無理はないわよね?
 あれ? そう言えばレイと初めて会った時もそうだったっけ。ううん、レイはいいの。可愛いしいい子だし、不思議ちゃんだし。そう言えばレイはどこ? えっ、もう寝ちゃったの!? 
 Wow ! 子供ってこんな早い時間に寝るもんだったっけ。うーん、ほっぺにチューしたかったのに残念。
 まあいいや。えっとどこまで話したっけ。ああ、そう、そうよ。そこであたしは『WHO ARE YOU !?(あんた誰?)』って訊いてやったのよ! 字で書いたら全て大文字になるバージョンでよ? そしたらあいつ、『マジかよ、寝た男の顔忘れるとか、あり?』ですって!
 いちいち憶えてられるかってのよ! 酒飲んだ勢いなんだからさ! よりによってLOVE STATUE*(ラブ・スタチュー)の前でミシェルとミゲルの写真にキュンとしてる時にニヤニヤした顔で話しかけんなっつーの! 周り観光客だらけで恥ずかしいっつーの!
 ああもう、コーヒーおかわりちょうだい!


「……はーっ!」

 ベティがやっとマシンガン・トークを止めてくれたので、ラムカは大きく息を吸った。どうやらのべつ幕なし喋り続けるベティにつられ、息をするのを忘れていたらしい。

「……まあ、よくある話だよ。俺は少しも驚かないけどね」

 ベティのマグカップにコーヒーを注ぎ入れながら、ショーンが首を軽く傾げる。ガールズ・トークに何故か彼も参戦させられているのだった。

「やだ、経験者? ってか、よくあることなの?」
「んー、よくあった、が正しいかな」
「ほほう、過去形だね。それは興味深い」

 ベティが意味ありげな目線をラムカに向けたが、彼女はベティを無視してマグカップのコーヒーを口に運んだ。
 こういう話を彼とはしたくないのに。ラムカは内心そう思っていた。彼の女関係の話を聞きたくはないのだ。
 遊び人、軽い男、女性に対して不誠実―――そんな彼の中身が透けて見えるようで、不快だった。
 いや、不快なのは彼に対してと言うよりも、彼のそういう部分を知るたびに、何故だか自分自身が傷付くような気がしてしまうから。
 どうしてそんな気持ちになってしまうのか。それはまだ彼女自身、はっきりと自覚してはいないのだったが。
 そんな彼女の胸の内も知らず、彼がベティに言葉を返す。

「まあ、少なくとも俺のほうから声をかけることはないな。顔を憶えてたとしてもさ。相手も気まずいだろうし」
「また会いたいって思った相手でも?」
「うーん……」

 そんなふうに思った相手なんかいたっけな、とでも言いたそうに彼が考えを巡らせるのを横目に、ラムカがベティの腕にそっと手を置いた。

「ね、そう言われたの?」
「ん?」
「また会いたいって?」
「……」

 むりやり電話番号交換させられた―――ぼそりと呟くベティに、ラムカが瞳を見開いた。

「何でそれ言わないの!」
「今言ったじゃん」
「チャンスじゃない! かけてみなさいよ」
「やーよ! 何のチャンスよ」
「運命の出会いだったのかもしれないじゃない」
「運命の出会いー!? Hah ! だとしたらさ、酔ってても憶えてるもんじゃないの?」
「No no no ,『また会えた』って事実こそがよ!」
「……ふーん、君たち二人もばったり再会したんじゃなかった? ん?」

 ベティが、ラムカとショーンを交互に指差して言う。二人は顔を見合わせ、互いに気まずそうに視線を逸らした。

「See ? (ほらね?) この狭いマンハッタンで、たまたま再会したからって運命の相手だなんて言える? そんなの信じないよね?」
「そっ……」

 よく言うわよ。私と彼のことも『運命の相手だ』とか何とかさんざん煽ったくせに。
 そうラムカは反論したかったのだが、本人(ショーン)の手前、それを口には出すわけにはいかない。思わず彼女は言葉に詰まってしまった。

「……それとこれとは別。だってあんたは彼と……その―――」
「―――わーわーわー! うるさいうるさい、うるさーーーーい!」

『彼と寝た』という言葉を言わせないように、ベティは耳を塞ぎ、わーわーとまくし立てた。
 あんたこそうるさいんだけど。ラムカが呆れ顔で言うのを気にも留めず、はぁ、と息を吐き、ベティはテーブルに突っ伏した。

「もうやだぁ……この件は終わったと思ってたのにー」
「Oh……」

 Hey , と小さく指を鳴らすショーンの小声に気付き、ラムカが顔を上げる。
 どうしたらいいんだ? そう仕草で訴える彼に、私にだってわかんないわよ、という表情を返し、ラムカはそうっとベティの背中を撫でた。

「そう落ち込まないでHoney , 嫌なら忘れちゃえばいいのよ?」
「……お腹空いた……」
「え?」

 ベティの言葉にぷっと吹き出し、やれやれというふうにショーンが首を振った。

「何か作ろうか。何が食べたい?」
「まじ!? んーとね……美味しいもの!」
「はは……それは任せて。そうだ、何かアレルギーとか苦手なものは?」
「ない! 大丈夫!」
「OK , ちょっと待ってて」

 うえーん、ショーンったら優しいよぉぉ!―――子供の泣きべそみたいな声を上げ、ベティが上体を起こす。
 そして、彼女のために冷蔵庫の食材をあれこれ選び始めた彼を、後ろから眺めるようにして頬杖をついた。

「……料理上手ないい男かあ……あたし『も』そんな男探そうかなあ」
「は?」
「ミゲルも料理得意みたいだしさ―――あっ、そうそう、ミシェルのインスタグラム見た?」
「見てない」
「見て! 超可愛いから!」

 ショーンが「ベティのためのひと皿」を作り始めたその後ろで、彼女たちはミシェルとミゲルの写真を見ながら黄色い声を上げたり、例のエマの婚約について話したり、今さっき見てきたルブタンのネイル・エナメルについて話したりして、「ガールズ・トーク」を続けた。
 そのうちにキッチンじゅうがいい匂いに包まれて、ベティの目の前にそのひと皿が提供される。
 ひと口食べるごとに「美味しい!」と声を上げるベティに、ショーンが「Thanks」と、いつものように小さく首をかしげる仕草を見せた。

 そんな彼らのやり取りを前に、実のところラムカは内心穏やかではなかった。ショーンを褒めるベティの言葉に、「ね? そうでしょ?」と前のめりで同意したくなるような、何故だか彼を誇らしく思うような気持ちが湧いてしまったからだ。
 と同時に、ショーンとは数回しか会っていないはずなのに、すでに数年来の友人のように接しているベティを見ていると、どうして自分は彼女のように素直になれないんだろう、とでもいうような妙な気持ちにもなってしまう。
 そんな複雑な彼女の胸の内を知るはずもなく、彼ら(主にベティと彼の二人だが)は時間を忘れたようにあれやこれやと楽しそうに話を続けたのだった。





「――よし! そろそろ帰るかー」
「えっ!?」

 どれくらいの時間が過ぎた頃だったのだろうか。ベティがそう言って椅子から立ち上がった。
 ベティがここに来たのは、ほんのちょっと前の時間のような気がするのに、時計を見ると10時をとうに過ぎている。

「ありがとうショーン、ほんと美味しかった!」
「Oh , thanks ! またいつでもどうぞ」

 ショーンを一人キッチンに残し、ラムカはベティを見送るために共に玄関ホールへと向かった。
 ここへ来た時の落ち込んだ様子から一変し、ベティときたら随分とご機嫌に見えるのに呆れるやら、ホッとするやら。

「本当に帰っちゃうの?」
「うん。何だか疲れたし、もう寝るわ。また明日連絡するよ」
「OK , 気を付けて」
「Bye ! Love ya !」

 ラムカと別れのハグをして、ベティは到着したエレヴェイターに乗り込んだ。

「L !」
「うん?」
「あたしの代わりに彼に感謝のキスしといて!」
「Wha ?」

 恐ろしいことを言ってにやりと笑うベティを見送り、ラムカは再びキッチンのほうへと踵を返した。
 キッチンに戻ると、ショーンが冷蔵庫を開けて探し物をしながら紙に何やらメモをしている。いつものように在庫のチェックだろう。
 戻って来た彼女に気付いて、彼が「Hi」と声をかける。彼と目が合い、何故だか胸がどきりと音を立てた。
 彼女はそれを誤魔化すように、マグカップに残していたコーヒーを飲み干し、それをシンクまで運んだ。
 ベティの使った食器も一緒に洗うつもりでいたのに、どうやら彼が全部片付けてくれたらしい。
 ありがとう、そう言おうと思ったのだが、マグカップを洗いながら『水が冷たい』だなんて、どうでもいいことを口走ってしまった。
『あたしの代わりに彼に感謝のキスしといて』というベティの言葉を思い出してしまったからだ。

「はー……何だか……いろいろあった一日だったな。そう思わない?」
「?」

 言いながら冷蔵庫を閉める彼へと視線を向ける。

「驚くべきことにナディアはデートに出かけるし、君の友達は押しかけて来るしさ。おかげで食材がいい感じに片付いたけど」
「『彼女』もやって来たしね」
「『彼女』? アマンダのこと?」
「そう。どうして『彼女』と一緒に帰らなかったの?」

 何故そんな言葉が口をついて出てしまったのだろう。言ってしまった後からそうぼんやりと頭の隅で思う彼女を、彼が少し驚いたような顔で見返した。

「一緒に帰る理由なんてないけど?」
「そう? 誰かさんに邪魔されたデートの続き、とかあるんじゃない?」
「あれはデートじゃない」
「ああ、そうか。ただのナンパだものね」
「Oh , そう思いたければどうぞ」
「……Whatever(どうでもいいけど) 」

 吐き捨てるように呟いて、彼女が瞳を逸らす。

「What’s wrong with you !?(どうしたんだよ?) 」

 一体何なんだ? そう言いたげな顔で、彼が彼女を振り返った。

「どうもしないわよ。どうもしないけど……」
「Wha ?」
「I just……(ただ……)」
「? Just ?」
「……ごめんなさい、何でもない」
「Hey」

 彼が呼び止めるのも聞かず、彼女がキッチンを出て行く。
 あなたといるのが、ただ落ち着かないだけなの――そう言いそうになるのを堪え、彼から逃げ出した。
 どうしよう。何だか気まずい雰囲気になってしまった。
 私ったらほんと、何やってるんだろう。どうしていつも彼に対して頑なな態度をとってしまうんだろう。
 はあ、と溜息を吐き、彼女は廊下の壁にもたれて天井を見上げた。


 その時、がちゃり、と玄関のドアの鍵を開ける音がした。
 そちらのほうへ目を向ける。ナディアだった。

「Oh !」

 そこにいるとは思わなかったのだろう。ラムカに気付いたナディアが、驚いて声を上げた。

「ごめんなさい、遅くなってしまって」
「No no no , とんでもない」
「ありがとうシェリー。おかげでいい夜になったわ」
「Oh , 楽しいデートで良かった」
「デート?」
「違うの?」
「まさか! 違うわよ」
「ええ? 何だ、てっきりそうかと思っちゃった」
「まあ、デートと言えばデートだわねえ、ふふっ」
「ナディア、もしかして酔ってる?」
「Yeah , yeah , 少しだけね」

 そうそう。あなたのお友達、ミシェル、いい子ね。   えっ? まさか、ミシェルとデート!?
 いいわねえ、今度そうしようかしら――そんな話をしながら、彼女たちが玄関ホールを後にした、その時だ。


「――そう! 全部私が悪いのね!? いつも通りに!」
「そんなこと言ってないだろ? 聞けよキャス――」
「――No! 何も聞きたくない! 話して楽になろうなんて許さない!」

 キャサリンとフィリップが大きな声で言い争っていた。
 ハッとしてナディアと一緒に玄関のほうを振り返る。

「――No !」

 思わずラムカは声を上げた。
 ぐっすりと眠っていたはずのレイが、廊下の向こうで、呆然と立ち尽くしていた。