Magnet 42 「 Hello , Goodbye 」












42. 「Hello , Goodbye」 ― こんにちは、さようなら ― 





 ミッド・ノース『Bruno Bianchi NY(ブルーノ・ビアンキ・ニューヨーク)』 6:30 p.m.


 共通の友人であるエマが婚約した。その衝撃的なニュースをまず最初に伝えた相手はラムカだ。
 興奮する自分と対照的に、ラムカは割かし冷静な反応だった。いや、もちろん驚いてはいたが。
 同年代の友人達の中で結婚した人間は、まだ、誰もいない。必然的にエマが仲間内では初めての花嫁になるのだろう。
 ラムカとその話をしつつも、特別驚くことでもないのかもしれない、そう彼女は頭の隅で小さく思い直す。何しろエマは、別れたリアムとも『絶対に結婚する』と付き合い始めた頃から何度もそう口にしていた。つまり、エマは結婚願望の強い女の子だったのだ。
 仲間内から花嫁が誕生する。そのニュースに素直に高揚する反面、恋人すらいない自分は何をしてるんだろう、と焦る気持ちが生まれるのを感じてしまい、うんざりとした。
 結婚式には当然ながら招待されるだろうが、それまでに同伴者、つまりパートナーが見つかるのだろうか。

「取り合えず、報告会という名目の『おノロケスピーチに耐えるガマン大会』やるみたいよ。行く?」
『そりゃ誘われたら行かなきゃ』
「あー、大人数の女子会嫌い。メンドクサイ」
『だけどブライズメイド*やるの夢なんでしょ? 行かなきゃ声かからないかもよ?』
「あんたやミシェルのブライズメイドだったら喜んでやるけどさ」
『私もミシェルのブライズメイドやりたい』
「ちょっと! あたしのは!?」
『――ちょ、緊急事態発生!』
「は?」
『アマンダが来た!』
「えっ、そこに? 何しに?」
『知らないわよ』
「これから彼とデートだったりして?どうすんのよ?」
『知らないったら!』
「あははははー、こりゃ面白い展開になっ――」
『――Oh ! あとでかけ直す!』
「Wha―――」
『――Sorry !』


 強制終了されてしまった電話を渋々ポケットに仕舞い、ベティは仕事の後片付けの続きを始めた。その日は暇で、まだ閉店時間にもならないのに終業せざるを得ない。
 早く帰れるのは嬉しいことかもしれないが、今の彼女にとってはそう嬉しいことでもない。
 家に帰ったところで、今日休みのミシェルはどうせミゲルのところに行っているだろうし。
 ラムカの仕事が終わるまで待って、一緒に食事でも行こうかな――そう思っていたのに、ラムカから『残業になっちゃった』とメッセージが入った。
 同僚のエミに声を掛けてみたが、彼女はその日、デートの予定なのだと言う。ああ、最近出会ったというアイルランド人の彼か。
 全く……みんなしてデートばっかりしちゃってさ。ふん、とばかりに、彼女は大きな音を立ててロッカーの扉を閉めた。

 まだ仕事をしている仲間を残し、一足先にサロンを出た彼女は、向かいのカフェへと入った。いつものように、マグカップを返すためだ。
 もうそろそろ閉店だというのに、レジ前には結構な人の列が出来ている。大げさでなく、食器類の返却用カウンターに行くのですら、命懸けのように思えた。
 ちら、とカウンターの奥を見ると、ポールが忙しそうに働いていた。コーヒーありがとう、美味しかった、そう伝えたかったのに、話しかけることすらままならない感じだ。
 何とか辿り着いた返却用カウンターにマグカップを置き、もう一度ちらっとポールのほうを見ると、彼が彼女に気付いて笑みを向けた。
 ありがとう、と声に出さずに彼に告げる。どういたしまして、という顔を返し、ポールは慌ただしく仕事に戻った。

 カフェ・デュボアを出た彼女は、地下鉄の駅の方には向わずに、西の方角へと歩き始めた。五番街にある、お気に入りのコスメ店へ行くためだ。愛用のマスカラがそろそろ切れそうなので、予備を買って帰らなければ、と今朝家を出る前に今日の予定に入れたのだった。
 お目当てのマスカラをまずは手に取り、大好きなポール&ジョーのコスメ用品をチェックしたり、色んなブランドのリップを試してみたり。それは多くの人がそうであるのと同様に、メイク・アップの楽しみを十分に味わい尽くせる、大好きな時間だ。
 そして、ついつい真剣になってしまうのはやはり、ネイル用品のチェックだった。自分用のネイル用品は仕事柄、良いものを少し安価で手に入れることも出来るのだが、仕事場では扱わないブランドのものを逐一チェックすることもネイリストとして大切なことなので、チープなものから高級なものまで、気になったものは試すようにしている。

 ふと、ディスプレイ用の棚に置かれた、淡い上品なペール・ピンク色の箱が目に入った。フランスの高級シューズ・ブランドである、クリスチャン・ルブタンのベース・コートとトップ・コートのセットだ。
 流石はルブタン、ドラッグ・ストアで売っているような安価なコート剤の20倍以上はする価格だった。ネイル・エナメルも大体70ドルから80ドル前後。高価なシャネルやディオールの2倍以上はする。流石に手が出せない。
 ああでも憧れのルブタン! ハイヒール・シューズは無理でも、これなら手に入れることが出来るじゃない! それに、これほどの高価なコート剤を使ったら、どれくらいの違いが出るのか試してみたい。
 だけどやっぱりベースに80ドルも出せないや――手に取ったペール・ピンクの箱を見つめて溜息を吐く。
 ルブタンを諦めて棚に戻し、結局マスカラと幾つかのネイル用品を買って、店を出た。
 ポケットからiPhoneを取り出してホームボタンを押すと、Instagramにミシェルが投稿したとプッシュ通信が届いていた。
 早速見てみれば、ミゲルとの写真だった。ミゲルの目の横、こめかみの少し下のあたりに唇を寄せるミシェルのセルフィ―写真だ。
 ミゲルは鼻から上しか写っておらず、カメラを見てもいないが、少し照れたような笑みを浮かべていた。
 可愛い。何て可愛いカップルなの! 幸せそうなふたりに、素直にキュン、ときた彼女は砂糖菓子のように甘い笑顔を浮かべた。
『Go to hell , hot Angels ♥』――でもちょっとだけ癪に障るから、彼女はミシェルの投稿にこうコメントを残してやった。
 きっとミシェルは彼女の反応にげらげら笑いながら、それをミゲルに見せているんだろう。そんなことを思いながら、他の友人やフォローしているセレブリティの投稿もついでにチェックした。
 路上で立ち止まったまま、そうやってiPhoneの画面をいじっていると、突然目の前に誰かが立ちはだかった。

「Hi」

 声に顔を上げると、見知らぬ男が立っている。歳の頃は彼女と同世代、背はそう高くはなく、一見してモテそうな、ちょっと遊び人っぽい見た目の男だ。

「やっぱり君だ」
「は?」
「俺だよ、俺」
「は? あんた誰」
「マジかよ。寝た男の顔忘れるとか、あり?」
「!」
「朝だって俺が寝てる隙に帰っちゃうしさ」
「Oh……」
「思い出した? ベティ、だったっけ」

 彼女はその男から逃げるように早足で歩き出した。待てよ、と男の声が追ってくる。

「ベティ!」
「人違いよ」
「待ってくれよ!」

 あっさり追い付かれ、男に腕を掴まれた彼女は、大きな瞳を見開いて男の顔を睨みつけた。

「何で逃げるんだよ」
「逃げたいから逃げたの! わかんない?」
「わかんないね。逃げられるようなことした覚え、ないし」
「……うっそ何これ信じらんない……」

 男に聞こえるか聞こえないくらいの小さい声でそう言うと、ベティは男から視線を外して下を向いた。

「あのさ、自分が酷いことしてるって解ってる?」
「!」

 男はそう言うと、掴んでいたベティの腕を放し、少し気まずそうに指で頬を掻いた。

「いや、その……連絡先知りたかったのに消えちゃうしさ、偶然会えたと思ったら逃げられるし」
「……ごめんなさい」
「顔も忘れられてたなんてショックだよ。俺はさ、素敵な女の子と最高の夜を過ごせた、そう思ってたのに」
「だからゴメンって……えっ?」

 最後の言葉に、ベティが心底驚いた顔を見せた。
 男は、ベティが握りしめたままのiPhoneを奪い、キーパッドに何かの番号を打ち込んだ。すぐにその場で男のポケットから着信音が流れる。

「埋め合わせしたくなったらいつでも電話して」

 そう言って電話を彼女に返すと、男は笑みを浮かべて、じゃあ、と歩き出した。

「――電話なんかしないから!」
「待ってる」
「ちょ――」
「―― 一週間だけ待つ。ダメなら番号消すよ」
「あんた、名前はー!?」

 それには答えず、男は親指と小指を立てて作った電話を耳にあて、笑って彼女に背を向けた。電話をくれたら教えるよ、そういうことだろう。
 呆気にとられたように男の後ろ姿を見送り、彼女はすぐに手の中のiPhoneに数回タッチして、それを耳にあてた。


「――緊急事態発生!」











 ミッドタウン・ノース  Cafe Dubois(カフェ・デュボア) 6:50 p.m.


 今朝から一体どれだけの数のオーダーをこなしたのだろう。手の中の銀色のミルクジャグに視線を注ぎながら、ふと彼はそう思う。
 いや、正確にその数を知りたいわけではない。その日のオーダー総数ならば、最後に店仕舞いをする時にデータとして確認することは出来るのだ。そしてその数字を機械に打ち込む仕事も任されているわけなので、いずれにしろ、あとで分かることだった。
 ぼんやりとしている暇はないのだ、早く注文を捌いて、次の注文を受けなければならない。忙しさをぼやいたところで、人員不足の穴埋めにはなりはしないのだ。
 手の中のミルクジャグを揺らし、エスプレッソにミルクを注ぎ入れて、完成。
 それから次のオーダーに取り掛かるため、体の向きを変えたその時に、いつの間にか店内に来ていたベティと視線が合った。夕方届けたカプチーノのマグカップを返しに来たのだろう。
 ベティの口が、声を出さずに『ありがとう』と動いた。彼は『どういたしまして』と心の中で呟きながら彼女に笑みを返すことしか出来なかった。
 ありがとう、と言いたいのは僕のほうだ、と彼は思う。あまりの忙しさに、心が荒みかかっていた時に出会う彼女の笑顔に、どれだけ救われるか。
 それをベティ本人にも、他の誰にも伝えられないのはもどかしいけれど。

 忙しいというのはある意味、ジェニーとのことを考えなくて済むということなので、彼にとってはありがたい状況であるはずだった。
 ところが実際は、『お前のせいだからな』と言いたげに、仕事仲間からの非難を込めた目線を向けられるせいで、やはり彼女のことを考えずにはいられない、そんな状況だ。
 そして彼は改めて自分の思いに気付かされる。身勝手だけれど、ジェニーはやはり、彼にとって大切な仲間なのだ。仕事の能力だけを言っているのではない。彼女の存在そのものが、このカフェにおいて心の支えだったのだと。
 あの日以来、ジェニーは無断欠勤が続いている。彼らが付き合っていた、ということは、スタッフ全員が知っていたから(仕事がやりにくくなるからとポールは隠しておきたがったが、それを言う前にもうジェニーが仲の良いスタッフに話していた)、当然ながら『別れた』ということまですぐに知られてしまった。
 彼らについての話をする際、仲間たちは『別れた』という言葉を選択せず、ポールが彼女を『捨てた』という言葉を選択した。そのほうが面白おかしく、ドラマティックに感じるからだ。まさに、他人の不幸は蜜の味とばかりに。
 まさかあのポールが!? 優しそうな顔して酷いことするのね――そして彼らは、驚くふりをしてこう付け加えるのだった。


 それをポールが知ったのは、店のオーナーであるマダム・デュボアから事務所に呼び出されたからだった。
 マダム・デュボアはもちろん、2人の仲に関しては中立の立場だ。男女のいざこざなど、どちらか一方だけが悪いわけではない。そんなことはどうでもいいのだ。
 ただ、仕事に支障をきたす、となると話は別だ。ただでさえ現在人員不足で多忙な中、痴話喧嘩のせいで無断欠勤などされていてはたまったものではない。
 本来ならそんな非常識なことをしたジェニーは、即刻解雇されてもおかしくはなかった。
 だが、マダム・デュボアはジェニーの能力や仕事に対する熱意などを評価していて、こんなことがあったからと言って、すぐクビにすることはしたくないのだ、と言う。
 そして彼を呼び出した訳は、ジェニーを説得して連れて来い、というものだった。
 辞めるなら辞める、続けるなら続ける、それをきちんとあたしに言いに来させなさい――つまりそれがマダム・デュボアからのミッションだった。
 それで彼は今、その日何度目かのため息を吐きながら、ジェニーの部屋の前に立っているという訳だ。
 ため息ばかり吐いていても仕方がない、と意を決し、彼はジェニーの部屋のドアを数回ノックした。

「……誰?」

 暫くしてドアの向こうから弱々しい声が返された。僕だよジェニー、そう彼が返すと、しばらく間を置いてドアがそっと開かれた。

「……Hi , Jenny」

 それに返事もせず、ジェニーは彼の目をじっと睨むように見て、バタン、と扉を閉めてしまった。
 想定し得る反応だ。彼はもう一度小さく息を吐き、ジェニーお願いだ、開けてくれよ、と扉を叩いた。
 しばらく待っても反応がない。仕方ない、日を変えて出直そう。そう思い、背を向けて歩き出した時に、ガチャリとドアが開く音がした。
 振り返るとジェニーがドアを開けて立っている。彼女は彼に入室を許すように、ドアを開けたまま部屋の中に入って行った。
 覚悟を決めたように唇を結び、ポールは彼女の部屋へと足を踏み入れた。
 狭いながらもいつも綺麗に整えられていた部屋は、見たこともないくらいに散らかっている。
 彼女は、ソファーに置かれた雑誌や服をさっとどかしてそこへ腰を下ろすと、何しに来たの、とでも言いたそうな目を彼に向けた。
 数日間、家の中に籠っているのだろうか。いつもばら色だったはずの彼女の頬はすっかり色あせ、とても青白く見える。
 自分のせいなのだ。そう思えて、チクリと刺すような痛みが胸に広がった。

「……どうしてるか、気になって」

 ポールの言葉に彼女は、ふん、と鼻を鳴らして瞳を逸らした。

「ねえ、ジェニー……戻っておいでよ。マダム・デュボアもみんなも、とても心配してるよ」
「……マダムに言われて来たのなら帰って」
「ジェニー」
「もう私のことなんかほっといて」
「ほっとけないよ」
「どうして? 私を振ったんだから、ほっとけばいいじゃない」
「ジェニー!」
「仕事になんて行けるわけないじゃない。あなたの顔見るのは辛いし、向かいのサロンには彼女がいるし、アニーに話しちゃったから、私たちのことみんな知ってるし」

 ポールは溜息を吐くと、彼女のソファーからそう離れていない椅子に腰を下ろした。

「……僕だって辛いよ。こんなことになって、本当に悪かったって思ってる。僕のせいで君をこんなに傷付けてしまったなんて……自分で自分が嫌になるよ」

 ジェニーの瞳が潤み始めたのが判る。泣かれてしまうと、冷静に話せる自信がない。でも、もう逃げちゃいけない。それがまた彼女を傷つけてしまうのだから。彼はそう自分に言い聞かせた。

「正直言うと、僕もあの日から仕事場に行くのは気が重いんだ。毎日『今日は休みたい』って思うよ。君の顔を見るのが辛いから。だけど――」
「――振られたのは私のほうじゃない。どうしてあなたが辛いのよ。私が来なくて本当はせいせいしてるんでしょ?」
「……ジェニー、聞いて」

 投げやりな態度の彼女を前に、彼は静かな声色で彼女の名を呼んだ。

「僕は今まで振られてばかりいたから、君の言いたいことは痛いくらいわかるよ。おかしな話だけど。でも、君が来なくてせいせいしてるだなんて、そんなふうに思うわけがない」
「……」
「そりゃあ君の顔を見るのは辛いし、気まずくて居心地は悪いと思う。でも、僕たちの個人的な関係以前に、君は大切な仲間なんだ。あの店で僕が一番信頼してるのは、ジェシカでもフレディでも他の誰でもない。ジェニー、君なんだよ」
「……人手が足りなくて困ってるだけ。そう正直に言えばいいじゃない」
「違うよ。それなら人を雇えば済む話だ」
「マダムに言われて嫌々来たんでしょ? いいよ、無理しなくても」
「ジェニー!」

 いつになくポールが大きな声を出した。彼は椅子から立ち上がると、ジェニーの足元に腰を下ろし、下から覗き込むようにして彼女の手を取った。

「本当だよ、信じてよ。あんなことがあったけど、それでも君は僕にとって大切な仲間なんだよ。それに僕なんかより、君のほうがずっとあの店に必要とされてるんだ」
「どうせクビになるのに……」
「それは違うよ。マダムは君をこんなことでクビにしたくないって言ってくれてる。ねえジェニー、みんな君を失いたくないんだ。戻って来てよ」
「……あなたに嫌われちゃったもの。もう戻れないよ」
「嫌いになったんじゃないよ。悪いのは僕なんだから。だけど……」

 そこまで言って彼は言葉を飲み込んだ。一瞬躊躇ったあと、覚悟を決めたように顔を上げた。

「僕が惹かれた君は、こんな君じゃなかった」
「!」
「誰よりも仕事熱心で、誰よりもみんなのことを気遣って、責任感に溢れてて……何度も君に元気付けられたし、何度も僕を助けてくれたよね? 本当に素敵な子だなって、そう思った」
「じゃあどうして? どうして私じゃダメなの?」
「……それは……」

 とうとうジェニーの瞳から、はらはらと涙が零れ落ちた。それを見ているのは、心の底から辛かった。彼女を傷付けている、そう自覚することは、自分も傷付けてしまうことだ。でも、これ以上目を逸らしてはいけないのだ。

「……ベティが好き。そうなのね?」

 絞り出すような小さな声で、ジェニーが呟いた。そうだ、と言ってしまうのは、またジェニーを傷付けてしまうに違いない。けれど、この瞳にもう嘘はつけない。ついてはいけない。
 だから彼は、うん、と素直に頷いた。彼女の瞳から、また新しい涙が零れ落ちる。彼は、ごめん、と言って彼女の涙を指で拭った。

「……本当は解ってた。ずっとあなたはベティのことばかりを目で追ってたから」

 そう言って、彼女は彼の手を握り返し、はーっと息を吐き出した。

「私のほうを向いてくれた、そう思ってたけど、力ずくで無理やりこっちを向かせただけだったのかな」
「ううん、僕が悪いんだ。君にちゃんと向き合っていなかった。自分自身にも」
「……もうやめようよ。あなたは悪くない」

 涙を零しながらも、ジェニーは懸命に笑顔を浮かべようとしていた。さっきの泣き顔よりも、別れのあの日の泣き顔よりも、その笑顔が何よりも辛かった。
 まぶたの端っこがキュン、と縮むような痛みを生んだような気がして、それをこらえたら、彼女の顔が滲んで見えた。
 気が付いたら、抱き付く彼女を受け止めていて、彼女の背中を何度も撫でていた。
 ごめんね、ポール、ごめんね……そう何度も繰り返して、彼女は彼に、最後のキスをした。
 そして、以前の彼女のような笑顔で、こう告げた。

 ――明日から仕事に行くね――