Magnet 41 「 (Un)Happy hump day ! 」
41. 「(Un)Happy hump day !」 ― 楽しい(でもない?)水曜日 ―
共通の友人であるエマが婚約した。その衝撃的なニュースを興奮と共に伝えてきたのはベティだった。
ベティが興奮するのも無理はない。エマはリアムという男に失恋した時、二度と英国の男とは付き合わない、そう固く宣言していたのに、リアムの後、コリンという英国男と性懲りもなく付き合い始め、挙句、電撃的に婚約してしまったのだ。
しかも、電光石火の早業で子供までこさえたのだという。何度もエマの自棄酒に付き合い、昼夜を問わずかかってくる電話に出、その度に散々リアムの愚痴を聞かされたベティとしては、嬉しい反面、『何だったのよ!もう!』と少々ご立腹気味なのだった。
ラムカも何度か同じようにエマからの愚痴を聞かされて、その都度彼女を慰めてきたから、ベティの気持ちが解らないわけではなかったが、彼女の幸せを祝福してあげなきゃ、そうベティに返した。
が、『どうでもいい惚気話を散々聞かされるくらいなら、彼の愚痴を聞かされるほうがまだマシよ』――その意見には同調した。
エマは、他人の慰めの言葉にも毎回『でも』『でも』『でも』しか返さないネガティブな面のある子だったから、一度電話がかかってくると収めるのが大変なのだが、新しい男が出来るとコロっと豹変して、どうでもいい惚気話や自慢話ばかりを聞かされる羽目になるのだ。
要するに、自分も恋人がいて幸せな状態なら、いくらでも惚気話も聞いてやれる余裕もあるのだが、彼女たちは二人とも今『恋人』と呼べる男はなく、その兆しさえも、ない。友人の幸せは喜ばしいことであり、心から祝福したいのは山々なのだが、取りあえずはまだそんな気にはなれないらしい。女心とは、実に複雑で面倒なものなのだ。
パントリーの中でベティと電話で話しているところで、玄関のほうからドアベルの鳴る音がかすかに聞こえたが、それにはナディアが対処するところなので、彼女はベティとの話を続けている。
キッチンでは、ショーンがレイのための夕食を作っていて、レイのほうは、と言えば、幼稚園で習った歌を歌いながらお絵かきの真っ最中だった。
ベティと話しながら、こそっとパントリーから顔を出して彼らの様子を窺うと、キッチンの入り口に人影が現れた。
「!」
アマンダだった。
「Hi guys !」
「Hi , Amanda」
「こんにちは、えっと…」
「レイだよ」
ラムカは咄嗟にパントリーに身を隠し、小声でベティに『緊急事態発生!』と告げた。初対面のアマンダにあんな醜態を見せてしまった後だったので、どうにも気まずくて、つい隠れてしまったのだ。
「アマンダが来た!」
『えっ、そこに? 何しに?』
「知らないわよ」
『これから彼とデートだったりして? どうすんのよ?』
「知らないったら!」
「――シェリー?」
「Oh !」
突然パントリーのドアをノックされた。ナディアの声だ。
あとでかけ直す!――ベティに告げて、ラムカはパントリーの扉を静かに開いた。
「ごめんなさい、友達と電話してて」
「ちょっといい?」
「え? ええ」
再びパントリーの扉が閉まる。ナディアはラムカの背中を軽く押すようにして、少し奥の方へと移動した。
「あなた、今夜何か予定はある?」
「予定?」
「ほら、デートだとか、お友達と会うだとか」
「えーっと……何も予定はない……かな」
「そう、良かった」
『全く何の予定もない』と即答してもよかったのだが、それも何となく悲しいことのように思えたら、妙な返事になってしまった。
「お願いがあるのよ」
「お願い?」
「急用で今夜ちょっと出かけたいんだけど、その間、代わりに坊ちゃまの子守りをしていて欲しいの」
「ええ、それは構わないけど……」
「お風呂は私が入れてから出かけるから、その後出来るだけ早めに、そうね、遅くとも8時までには寝かせてね。旦那様と奥様は今夜お帰りが遅い予定だけど、それまでには戻るつもりだから」
「Ok」
「突然こんなことをお願いして悪いわね。その代わり、帰りのタクシー代と子守りの時間給を私が払うから」
「Oh , いいの? それはありがたいけど――」
「商談成立ね」
足りない分は後で払うから遠慮なく言ってちょうだい――ポケットから幾らか紙幣を出してラムカに手渡し、彼女の肩をぽんぽん、と軽く叩いて、ナディアはパントリーを出て行った。
手の中の紙幣へと視線を移す。10ドル札が数枚重ねられたものが半分に折りたたまれていた。80ドルから100ドルくらいはありそうだ。
思わぬところで臨時収入が入ったのは嬉しいけど、ちょっともらい過ぎじゃないかしら。
彼女は取りあえずそれをジーンズのポケットに入れて、覚悟を決めたように、ふう、と軽く息を吐き、パントリーの扉を開いてキッチンに戻った。
「Hi」
「?」
ラムカに気付いて顔を上げたアマンダが、あら、という顔を見せて片手を上げた。
「先日はみっともないところを見せちゃってごめんなさい。と言っても、実は途中から覚えてないんだけど」
ショーンが何かを言いたそうに、笑いをこらえるような顔をしているのを軽く睨む。
「No no no , 楽しい夜だったわ。気にしないで。そうだ、ミシェルは? 元気にしてるの?」
「ええ、元気よ。新しい恋に浮かれてるから、当分風邪すらもひかないと思う」
「まあ」
「――ねえシェリー、見て見て」
「うん?」
「これ、なーんだ?」
「どれどれ?」
レイが描いた絵をラムカに見せたがったので、救われた、とばかりにレイの横に腰かける。
ショーンが興味深そうにレイの絵をちら、と覗き込む気配が伝わったが、彼女は気付かないふりをして、レイの絵に集中する素振りを見せた。
あの泥酔してしまった夜のことや、その翌朝のことを思い出してしまったから、ショーンの顔をまともに見れなかったのだ。
彼女の胸の内を知ってか知らずか、彼はアマンダとの会話を再開させて、もうレイの絵のことなんて忘れてしまったかのように見える。
アマンダは、どうやら例の取材の打ち合わせにやって来たらしい。ただその日に作ったものを撮影して終わるのかと思いきや、あらかじめ編集者とメニューを決めておくのだそうだ。
レイの夕食と共に彼女の分も用意されていたので、レイと一緒にそれを食べながら、彼女は目の前のショーンとアマンダの2人をちら、と見遣る。
彼と彼女の間でイタリア語と思しき用語が飛び交っていたが、それが料理名なのか調理用語なのかすらラムカにはよくわからない。
その後、レイはナディアに連れられてバスルームへと行ってしまったので、ラムカは所在なさげに独りキッチンの椅子に座って、レイを待ちながらベティとメッセージのやり取りをしている。
相変わらず、ショーンとアマンダは、顔を突き合わせてあれやこれやと話を続けていた。
何となく疎外感が押し寄せて来て、いたたまれなかった。先日アマンダに見せてしまった醜態のせいが大きいのだったが。
レイの部屋にでも引っ込もうかしら、そう思っているところに、お風呂を終えたレイが戻ってきて、ラムカの膝の上に座った。
レイの髪の毛からいい香りがして、彼女の臭覚と心を癒してくれる。思わず彼女はレイを後ろからぎゅっと抱きしめるようにして、彼の頭の上から髪に唇を押し当てた。
「それじゃ、あとは頼んだわね、シェリー」
そのうちにナディアがやって来て、ラムカに声をかけて出て行った。
「彼女、どうしたんだろ? まさか、デート?」
「さあ……」
「お洒落しちゃってさ。へえ、ありゃデートだな」
ショーンの言葉に、さあ、知らない、というふうに肩をすくめたラムカだったが、彼女も本心では「そうかもしれない」と思っていた。
なぜならここのところ、ナディアが以前よりも綺麗に化粧を施したり、爪を塗ったり、ぼうっと考え事をしていたり、つまり、「恋でもしているのでは?」と思う瞬間が増えたように感じるのだった。
こんなふうに思うのはいけないことかもしれないけど、ナディアくらいの歳でも恋が出来るというのに。私もベティも何やってるんだか。
「――シェリーは? だれとデートに行くの?」
「え?」
「ナディアはデートに行ったんでしょ? ママとダディもデートでしょ? つまり、おとなはみんなデートに行くんだよね?」
ラムカを見上げてそう言うレイに、ショーンがぷっと吹き出した。
「アマンダもショーンとデートしにきたんでしょ? だけどそしたらシェリーはだれとデートするの?って、僕そう思ったの」
「Umm……そうね、あなたの知らない人、かなあ?」
「だあれ?」
「ナイショ」
「えー」
彼女は答えをはぐらかそうと、冗談のつもりでそう言ったのだが、ショーンと視線がぶつかり、レイへの返事を後悔してしまった。
彼がネヴィルのことを思い出したような、何かを言いたそうな色を瞳に浮かべたからだ。
ネヴィルを恋人だと思ってるとしたら、とんだ誤解だ。彼にそんなふうに思われたくなかったのに。
「――あら、私たち、デートに見える?」
アマンダがショーンのほうに身を寄せて、彼の肩に頬を乗せる。
「うーん……」
「残念ながらデートじゃないのよね。私たち、真面目にお仕事のお話をしてるところなの」
「おしごと?」
「そうよ」
「レイ、デートがどういうものか分かってないだろ」
「わかってるよ。夜おでかけすることでしょ?」
「ぷっ、ほらね?」
『私たち』――アマンダの言葉に、胸がきゅっとしぼむような痛みを覚え、ラムカは思わずレイを抱き直し、椅子から立ち上がった。
「お仕事の邪魔になるといけないわよ、レイ。そろそろ寝る準備をしましょうか。好きな本を読んであげるわね」
「うん、わかったー」
おやすみなさい、ショーン、アマンダ。
おやすみ、レイ、またね。
またな、レイ。おやすみ。
廊下の時計で時間を確認する。まだ7時半にもなっていなかった。
ショーンとアマンダ。とても似合いの2人だ。『食』というものを扱う同じ世界に生きているし、きっと話題にも事欠かない。
共通の友人も多いだろうし、彼らを取り巻くもの全てがきっと、最初からそう定められていたかのように上手く進んで行くことだろう。
私なんて『サルティン・ボッカ*』という言葉が何なのかさえ知らないし、イタリア料理とフランス料理の違いも良く解らない。
今夜の彼女のように、プライベートな時間を割いてまで打ち込めるような、一流の人たちと互角に渡り合える仕事を持っている訳でもない。
もちろん、レイのことは大好きだし、家庭教師も兼ねている分、どうやらよそのお宅のナニーよりも待遇は良いみたいだし、この仕事やクリフォード家に決して不満があるわけではないけど。
ただ――
「――リー、シェリー」
「――え?」
ハッとしてベッドの中のレイに視線を向ける。
「どうしたの? さっき僕がへんなこと言ったから?」
「? どういうこと?」
「はじめて公園で会ったときみたいな、かなしそうな顔してた」
「!」
彼女は思わず自分の頬に手を当てた。私ったら一体どんな顔してたんだろう。悲しそうな顔? どうして?
「でもね、バディがだいじょうぶだよってそう言ってる」
「バディが? 本当に?」
「うん。そうだ、さっきの僕のスケッチブックをもういっぺん見てくれる? さっきの『え』じゃないよ、その前のやつ」
ラムカは言われるままに、レイの机の上に置かれていた彼のスケッチブックを開いた。
「これ?」
白いミニスカートを着たような子供が描かれた絵を見つけ、それをベッドのレイに見せる。
「うん。それね、バディの『え』なんだ」
「そうなの? とても上手に描けてるじゃない、レイ」
でも、これって――
「ヒエログリフ!?」
「なに? それ」
「ほら、これよ」
彼女は描かれたものを指差して、それをレイに見せた。
「しらない。バディがかいたのかな?」
「まさか……」
レイの描いたというバディの絵の周りに、古代エジプトのヒエログリフのようなものが幾つか描かれてあるのに気付き、驚いた彼女は声を上げた。
レイがヒエログリフを知っているとは到底思えないのだ。幾らレイが賢い子だと言っても、5歳でこんなものを描けるだろうか。
大学でエジプト学を学んでいる彼女の弟ですら、スラスラと解読できるわけではないというのに。
でも――
「そういえばエジプトが舞台の絵本を持ってたわね?レイ。そこに描いてあるものを写したのね、きっと」
「うーん……そうかもー」
「そうだ、その本を読んでみようか」
そう言って彼女は絵本や百科事典などが仕舞われているブックシェルフの前に立った。
確かあったはずなんだけど……とぶつぶつ言いながら、大量の絵本の中からそれを探す作業を始めたが、薄暗い照明のせいか、多すぎる本の数のせいか、なかなか探し出すことが出来ない。
子供用の本のタイトルはポップなフォントや色使いのものが多いから、目がチカチカして読みにくいせいもあっただろうし、いちいち取り出して表紙の絵を確認しなければ判らない本も多かっただろう。
やがて、彼女がやっとのことで目的の本を見つけた頃、レイはもう静かな寝息をたて、眠りに落ちていた。
「――大体こんなところかな」
「Ok , じゃあとりあえずこのメニュー案で持ち帰ってみるわね。もしかしたら変更をお願いすることになるかもしれないけど、いい?」
「Sure , もちろん」
「楽しみだわね」
「はは……」
そんなに楽しみでもないけど、とでも言いたそうに彼が軽く笑う。
彼女は広げていたiPadや資料のようなものをバッグに仕舞い、腕時計で時間を確認した。
「Oh , もうこんな時間! それじゃ、大人はデートに出かけなきゃならないみたいだから、行くわね」
「ふーん、俺とのデートはもう終わり? そいつは残念だ」
「ふふっ、本物のデートがしたいなら彼女を誘えば?」
「彼女?」
アマンダが、椅子の上に置かれたままのラムカの荷物を指さして、片方の眉をくい、と上げる。
冗談だろ?というふうに笑い、ショーンは玄関までアマンダを見送るため、彼女の背中を軽く押すように歩き出した。
「――ほんとあなたたちって焦れったいのね」
「What ?」
玄関ホールに辿り着いた頃、アマンダが彼を見上げてクスリ、と笑った。
「ねえ、まさか……彼女にデートの相手がいるってあれ、本気で信じたの?」
「!」
「……Ooops !」
図星みたいね、そう言いたげに肩をすくめ、彼女は玄関のドアを開けようとした。
その手を掴み、ショーンが彼女を引き寄せる。頬にかかる髪の毛を指ではらい、そのまま手のひらを彼女の頬に滑らせて薄く笑みを落とす。
だが、唇が近付いたその時、アマンダは彼の唇に指を置いて、彼のキスを阻止した。
「駄目よ」
「Why not ?」
「デートじゃないもの。それに、私は彼女の代わりじゃない」
「……」
「こんなことしなきゃ自分の本心も解らないような鈍い男はごめんよ」
だけど、彼女に振られたら、その時はデートしてあげる――唇にではなく、頬に挨拶のキスを重ね、彼女は今度こそ玄関を出て、エレヴェイターのボタンを押した。
「――アマンダ」
「なあに?」
「……悪かった」
「ふふっ、こういう時にはね、『ありがとう』と返すものよ」
そう悪戯っぽく笑い、彼女は到着したエレヴェイターに乗り込んで、やがて姿を消した。
『ありがとう』か――彼には彼女の言葉の真意がすぐには理解出来なかった。
だが、近い将来、彼女に本当にそう感謝する日がやってくることになるのだ。だが今この時は、それとは知らず、彼は玄関のドアを閉めると、レイの部屋のほうへと視線を向けて息を吐き出した。