Magnet 40 「 Make up your mind 」












40. 「Make up your mind」 ― 決 心 ― 





 ミッドタウン・ノース Café Dubois (カフェ・デュボア) 8:20 p.m.


 カフェがその日の営業を終えて数分が経っていた。
 彼は一足先に店から奥の事務所に引っ込み、ひとり、コンピューターの画面とにらめっこをしていた。
 手元の紙を見てコンピューターに何かを打ち込んでは、時々、うーん、と声をあげて考え込むことを繰り返している。
 オーナーであるデュボア夫人はもうすでに帰宅しており、あとは店の閉店作業を済ませた仲間から「終了した」という報告をもらい、今やっている仕事を済ませれば、彼自身も帰宅の途に就くことが出来るのだ。
 1分でも早くそう出来るよう、尽力しているつもりだった。彼女が事務所のドアを開ける、その時までは。

「終わったわよ、ポール」
「Oh , Thanks , ジェニー」
「……」

 ありがとう、とだけ言って、すぐに彼がコンピューターの画面に視線を戻す。そんな彼に何か言いたそうな顔を向け、ジェニーは入り口のドアを閉めた。

「……まだかかる?」
「うん……そうだね」
「ちょっと話せない?」
「今?」
「Oh , No no , 終わってからでいいの。続けて」
「……OK」

 彼女は近くの椅子に座ってiPhoneをいじり始めた。正直言って気が散るし、カフェでベティと過ごした夜以来、ジェニーと二人きりになるのは居心地が悪かった。
 けれど、1分でも早く仕事を片付けてしまいたかったし、『そこに居られると気が散るよ』だとか『帰ってくれない?』などと言うつもりもなかったから、黙ってそのまま仕事を続けた。
 今ここで、争いの火種をわざわざ蒔くことはない。そしてその判断は賢明だったと言えるだろう。思いの外サクサクと仕事が進み、あと30分はかかるだろうと思っていたのが、15分も経った頃には終えることが出来たのだから。
 コンピューターの画面から顔を上げてジェニーの方を見ると、彼女はiPhoneに何やら文字を打ち込んでいる。いつものように、友達とチャットでもしているのだろう。

「Uum……終わったけど……」
「――お腹空いちゃった! 何か食べに行こうよ」
「What ?」

 勢いよくジェニーに腕を引っ張られ、断るタイミングを逸した彼は、素直にジェニーに付いていくことにした。何しろ彼自身も空腹で目が回りそうだったし、断ることで起こる彼女との気まずい会話に費やすエネルギーも、もうない。
 ジェニーは彼をカフェから歩いて2分くらいの場所にあるレストランに連れて行った。何度か一緒に来たことがある店だ。
 彼自身は特にその店が好きなわけではなかったが、それと同じくらい、嫌いなわけでもなかった。カフェから歩いてすぐの場所にあるから、時たま利用する。そんな店だった。
 お気に入りの席があるわけでもなかったから、店員が案内した席に素直に腰を下ろした。
 メニューに目を通してグラスに注がれた水をひと口飲み、乾いた口の中を潤していると、目の前のジェニーが突然「Oh my God !」と声を上げた。
 見れば、近くのテーブルにいた、少し上の年代のカップルがジェニーに手を振っている。ジェニーはそのカップルの席へと行って2人とハグをすると、ポールの腕を引っ張って彼をそこへ連れて行った。

「ポール、兄のジェフと奥さんのルーシーよ。ジェフ、ルーシー、こちらポール」
「Oh ! Hi !」
「Hi !」
「はじめましてポール」
「はじめまして」

 ポールとジェニーの2人は、彼女の兄夫婦に誘われ、彼らのテーブルに移ることになった。
 ジェニーと2人きりで過ごすのは少し気が重かったから、それに救われたような思いもしたが、何の心の準備もないまま、彼女の家族と会って食事の席を共にするなど、今の彼にとっては負担でしかなかった。
 兄夫婦だから比較的気楽に過ごしていられるものの、これが彼女の両親だったとしたら、そう思いついて、彼は心の中で身震いした。
 ガールフレンドの両親に会うという経験が無いわけではなかったし、それで嫌な思いをしたこともなかったが、ジェニーに対して後ろめたい気持ちがあるからなのか、彼女の両親を前に堂々と振る舞える自信など、あるはずもなかった。
 いや、誰に対しても、堂々と振る舞える自信など持ち合わせていないのが彼なのだが。







 ミッドタウン・ノース 10:50 p.m.


 それから2時間ほどが過ぎ、ジェニーの兄夫婦と別れた後、ポールはジェニーと仕事場であるカフェに向かって歩き始めていた。店の前に停めてあるポールのヴェスパを取りに戻るためだ。
 ジェニーは大好きな兄夫婦のことを嬉しそうにあれこれと話している。それを聞きながら並んで歩いていると、ポールの停めたヴェスパが街灯に照らされているのが見え始めた。

「良かった。ジェフもルーシーもあなたのこと気に入ってくれたみたい」
「そう?」
「ええ、もちろんよ。きっとすぐにママに報告が行っちゃうわね。ルーシーったらお喋りさんなんだもの」
「Oh」
「ああでもママったら、どうして私も誘ってくれなかったの!なんて拗ねちゃうかもね。ふふっ、うちのママ、時々ちょっと子供みたいなところがあるから――」
「――Whoa whoa whoa , Wait a minute」
「Wha ?」

 ジェニーの言葉を聞き、ポールが歩みを止めた。

「誘う……ってどういうこと? まさか……偶然じゃなかったの?」
「何のこと?」
「今夜のことさ。もしかして、彼らに会うように仕組んでたの? 偶然のフリして?」
「……」

 ようやく納得がいった。ジェニーの兄夫婦と握手をした時に、違和感のようなものを感じた、その理由を。
 ジェフもルーシーも偶然に驚いたような顔をしていたが、どこか不自然な笑みを浮かべていたし、ルーシーとジェニーの、女同士のアイコンタクトが何となく心に引っかかっていたのだ。

「ジェニー?」
「偶然よ。決まってるじゃない」
「本当に?」
「なぜ私がそんなことする必要が?」

 ジェニーは彼から瞳を逸らし、少し気まずそうな顔で下を向いた。

「Come on Jenny , 嘘つかないで。本当のこと言ってくれよ」
「――嘘つかないで!? あなたがそれを言うわけ!?」
「!」
「あなたこそ本当のことを言ったらどう? 具合が悪いだなんて嘘ついて私を追い返して、ベティとコソコソ遊んでたって」
「……What ?」
「知らないとでも思った? 本当にびっくりよ。あなたでもあんなことするのね」
「……嘘はついてない。彼女とは偶然会っただけだよ」
「『偶然』ね。Hah」

 そんなの信じられない、とでも言いたそうに、ジェニーが軽く鼻を鳴らした。
 本当に嘘はついていない。しかし、そう口にしたことで、それが結局は『嘘』になってしまったと自覚してしまう感覚を覚え、彼は心の中で舌打ちしたい思いに苛まれた。
 あの時は、本当に具合が悪くて帰ろうとした。だからあの時ジェニーに嘘はついていない。
 けれど、自分の本当の気持ちに対しては?誰よりも自分自身に嘘をついているというのに。それはつまり、ジェニーに対しても嘘をついていることに他ならないではないか。

「――Ok , ポール。認めるわ。彼らがあの店にいるのを知っててあなたを連れて行った。だけど信じて。騙すつもりはなかったの」
「Oh , God……」
「だけど普通に誘ってオーケーした? しないわよね? あなたは最近忙しい、疲れてるって私を避けてばっかりで、ろくに話もしてくれない。私たち、最近デートらしいデートもしてないし、最後にセックスしたのだっていつだった?」
「……僕だけの問題? この前デートに友達を呼んだのは君だよね?」
「彼らがあなたに会いたがったからよ。今日だってそう」
「彼らを優先したってこと? 僕の気持ちはどうでもいいの? 疲れてるのに、初対面の人間とずっと笑って話してなきゃいけない、その時間が僕にとってどれだけ苦痛か解らない?」
「じゃあ私の気持ちは? 私に隠れて他の女の子と会ってた、それを知った私の気持ちが解る?」
「やましいことは何もしてないよ」
「そんな問題じゃない! 何も解ってない!」
「じゃあ何? 何が問題なの?」
「それは……」

 ジェニーは口ごもり、彼から視線を外して俯いた。

「……相手が彼女だったからよ」
「? ベティのこと?」

 ベティの名前を口にするだけで、心がひび割れてしまいそうになる。きっとそれは、ジェニーにとっても同じことだ。ただし、彼は、それを知らない。

「彼女は………ただの友達だよ」

 彼は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
 自分の言葉に自分で傷つくのは、これが初めてではなかった。けれど、『ただの友達』という言葉が、こんなにも胸を抉る言葉だったなんて。

「ただの友達? じゃあなぜいつも彼女を目で追うの?」
「!」
「私をあんな目で見てくれたこと、あった?」
「……」
「……私のこと、もう好きじゃないの?」
「……好きだよ」

 ――でも、愛してはいない。

「Oh my God……」

 彼の瞳の色から察したのか、ジェニーは口元を手で覆い、瞳から頬に流れ落ちる涙を彼に見せつけた。
『ねえジェニー、泣かないでくれよ。僕が悪かった。強く言い過ぎたよ』――いつものように、彼のこんな言葉を引き出すために、無意識に。
 それなのに。
 今夜の彼からは、その言葉を引き出すことは出来なかった。

「……I can’t do this anymore」
「……What ?」
「もうこれ以上、自分に嘘はつけないよ。もう君とは……やっていけない」
「! No , Noo ! Oh my God……oh my God ! 」

『もう無理だよ、ジェニー』――彼の言葉に彼女は泣き崩れた。

「きみのせいじゃない、ジェニー。僕が悪いんだ」

『It’s not you. It’s me』――過去に何度か言われて傷付いた言葉を、自分が口にしていることが信じられなかった。
 けれど他に何を言えば良かったのだろう。だって悪いのは、間違いなく僕のほうだ。
 ごめんよ、ジェニー。そう何度も言いながら、彼も泣いた。
 頬を伝うそれは、もしかしたら、いつの間にか降り出していた、雨の粒のせいだったのかもしれないけれど。











 チェルシー 9:45 p.m.


「で? まだミシェルと繋がんない?」
「わざと電源切ってるのよ。今日も彼の家に泊まってくるつもりだな、ありゃ」
「まあ、彼が幸せならそれでいいじゃない」
「だけどどうするのよ、これ」
「私はもう無理。あとコーヒーしか入んない」

 3人分、いや、それ以上のボリュームの料理やデザートが、テーブルの上に所狭しと並んでいる。
 その日の夜は、3人でゆっくり話しながら食事をしようと、前もって計画を立てていたのだ。
 昨夜のクリフォード家のパーティーの帰り道、ミゲルと並んでキャブまで歩くミシェルに『じゃあ明日ね』と声をかけていたのに、今日になってみれば、彼と一切連絡が取れないのだった。
 ああ、苦しい、と言いながら、ベティが椅子にもたれるようにしてお腹を突き出し、『ふーっ!』っと大きく息を吐き出す。
 もう動けないからコーヒーはあんたが淹れて。そういうアピールだ。
 仕方なくラムカがコーヒーを淹れるために立ち上がった。ミシェルはいつも比較的高価なコーヒー豆を買っているので、それを期待して、勝手知ったるピノトー家のキッチンキャビネットを開けたのだが、そこにあったのはどういうわけか、どこのマーケットにも置いてある廉価品のコーヒーの粉だった。

「これ補充したのあんたでしょ」
「へへ、バレた」
「目の前にもっと美味しいコーヒー売ってるカフェがあるのに」
「給料前だったんだもん。言っとくけど、あんたんちで飲むコーヒーよりはずっと美味しいから」
「それ言わないで」

 軽口を叩き合い、出来上がったコーヒーを飲みながら、彼女たちはたわいもない話を続けた。
 ふと、手元のコーヒーを見て、ラムカが思い出したように声を上げる。

「そう言えば――」
「――ん?」
「……ううん、何でもない」
「何よ」
「ほんとに何でもないの。そう言えばうちのコーヒー、あとどれくらい残ってたかなーって思っただけだから」
「うんっと残っててもさ、もっとマシなやつに買い替えなよ」
「うるさい」

 軽く笑いながら淹れたばかりのコーヒーを再び口にする。
 本当は、泊めてくれた朝に、ショーンが淹れてくれたコーヒーを思い出したのだ。
 彼もミシェルに負けないくらいに、質の良い、美味しいコーヒーを選ぶ人間だと知った。
 あれ以来、コーヒーを飲むたびに、彼の部屋で過ごしたあの朝を思い出して、何故だか胸のどこかがちくちくとしてしまう。
 もちろんそんなことはベティに言えなかったから、適当に言葉を濁して、たわいもない会話を続けたのだったが。



 そんなふうにとりとめもなく女同士の話に花を咲かせていると、がちゃり、と玄関のドアが開く音が聞こえた。
 ミシェルが帰宅したのだ。

「お、帰ってきた!」
「Hi , ミシェ――」
「――独りにして!」
「Wha ?」
「ちょ! ミシェル!」

 帰宅早々、挨拶もなしに、ミシェルは逃げるように自室へと姿を消した。まるで旋風のようだった。

「なに今の、Flash* ?」
「ね……まさかミゲルと何かあったんじゃ!?」
「うそ! 大変!」

 ベティとラムカは急いで立ち上がると、ミシェルの部屋へと走った。2人してドアに耳を当て、中の様子を窺ってみる。
 しかし、ため息のようなものしか聞こえてこない。これでは判断の仕様がない。ベティは恐る恐る彼の部屋のドアをノックした。

「Michel ? Are you alright ? 」
「……」
「開けるよ?」
「Non」

 ミシェルの返事を無視して扉を開く。彼はベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めている。泣いているようだった。

「Oh my god ! どうしたっていうの? あたしの天使ちゃん」
「ミシェル!」

 ベティとラムカは彼のベッドに腰を下ろし、彼を慰めようと、彼の髪を撫でたり、背中を撫でたりして様子を覗った。
 が、ミシェルからの反応はない。彼女たちは不安げにお互いの顔を見つめ、心配そうな顔で再びミシェルへと視線を落とした。

「ね、ミシェル。彼と何かあった?」
「……」
「Honey ? 何とか言って」
「………違うんだ」
「違う? 何が」
「For God’s sake (まったくもう), 余韻に浸ってるのに! 邪魔しないで」
「なんだ、そういうこと」
「何なに? 何の余韻? ちょっと! 詳しく話しなさいよ」
「聞くだけ野暮じゃない?」
「だって夕食の約束すっぽかしたんだからね。言わないと許さないよ」

 God――それすっかり忘れてた、というニュアンスの声を上げ、ミシェルはうつ伏せていた状態から、天井を見上げるようにと体勢を変えた。

「やだ! ホントに泣いてたの?」
「え? 悲しいの? どっちなの?」
「はぁ……彼のこと好きすぎて辛い。死にそう」
「Aww……」
「ねえやっぱり聞いて! 僕史上、最高に幸せな一日だったんだ。はぁぁ……まだ胸がきゅんきゅん痛いよ。きっとあちこち穴が開いてる。きっとこのまま死んじゃうんだよ」
「何? プロポーズでもされちゃった!?」
「Whoa !」
「まさか」

 はーっと大きく息を吐き、ミシェルは目じりの涙を拭ってベティの顔を見返した。

「やっと彼がはっきりと気持ちを示してくれたんだ。初めて彼が愛を与えてくれたんだよ! ねえ解る? これって大きな大きな一歩だよ。僕たち、やっと同じステージに立てたんだ」
「そうなの!? 良かったじゃない!」
「Ok , fine , でもそれがあんた史上いちばん幸せなこと?」
「なんで?」
「もーっと凄いことかと思っちゃったじゃん」
「解ってないなあ。いい? 彼はゲイじゃなかったんだよ? ずっと女と寝てたんだ。そんな彼が僕とのことを決心してくれたのに、これ以上幸せなことってある?」
「! 知ってたんだ……」
「Wha ?」
「いや、彼が女と……ほら……」
「知ってるよ、もちろん。女と一緒に帰ってきてセックスしてたし」
「えっ、見たの? それとも――」
「――まさかのスリーサム(3P)!?」
「Non !」

 もう! この素晴らしい一日をスリーサムなんて言葉で穢さないで!――そう言ってミシェルは両手で顔を覆った。

「ごめん、ごめん。でもさあんたも今言ったよ?」
「Shut up !」
「Hey ! そんなことより、幸せの分けっこよ!」
「Oh !」

 ラムカとベティは、ミシェルの両側にそれぞれ横たわると、げらげらと笑いながらぎゅっと彼に抱き付くのだった。

 3人のうちの誰かが幸せに溢れている時、或いは不幸で悲しんでいる時、彼らはいつもそうやって、3人で分け合うのだ。
 いずれ彼らは知ることになるだろう。この時分け合った幸せのかけらの、その行く末を。