Magnet 3 「 Betty 」







許すということの甘美さを知らぬ愛は、愛ではない。

――― ホイッチャー ―――






3. 「Betty」 ― ベティ ― 



「――― お待ちしておりました、ミス・ベネット。お荷物は此方へどうぞ ――― 」

予約きっかりにミス・ベネットが来店した。先にヘア・アレンジをし、その合間のネイル、という予定だ。
予め聞いてあった要望はシンプルで大人しめのベージュ系のフレンチで、という話だったが、ミス・ベネットのメイクや着ているドレスを見たイメージでは、 もう少し華やかな色の方が似合いそうな気がした。
取りあえず候補の色のネイルを数十本と幾つかのサンプルを用意し、頭の中で幾つかのイメージを膨らませる。それはベティが一番好きな時間だった。 あれやこれやと浮かぶアイデアをざっとスケッチし、客の要望を聞き入れながら浮かんだアイデアを提案し、それが形になる瞬間、至福の喜びを感じるのだ。
勿論、基本的に客の希望を叶えることが大前提であり、無理やりこちらの意見や提案を押し付けることはしない。それに客も急いでいたり、確固たる好みがあるなど、アイデアを全く聞き入れても貰えないことも多い。
だがこの街には冒険心に溢れた女性が多く、此方が驚くような注文をされることもある。思わず「それはご勘弁を」と断らざるを得ないセクシャルなモティーフの ネイル・アートを頼まれることもあったくらいだ。


そして目の前の、カーラーを巻いた姿のミス・ベネットはそのどちらでもない女性だった。
つまり、素直にやり甲斐を持たせてくれる客だ。 
聞けば夕方からパーティーなのだが、ホスト側のアシスタントをしているので奇抜なものは避けたいと言う。
だがどうしてもベージュ系のフレンチに拘っている訳でもないらしく、もう少し華やかな色を、と言うベティの提案を嬉しそうに受け入れてくれた。明らかに高揚している雰囲気が伝わり、ベティも何だか楽しくなった。
女性がお洒落や美しくなることを楽しもう、とウキウキとする様子は自分もパワーを貰える気がするのだ。
そしていよいよ何度もボスに訴えて漸く導入して貰えたLEDプレスト・ジェルの出番だ。
それを施すのは初めてだ、と言う客が、たった5秒で硬化することにびっくりする時の快感と言ったら!
ミス・ベネットもその期待を裏切らず、何度も指先を触っては「信じられない!」と感嘆の声を上げていた。
ミス・ベネットが再びヘア・アレンジに戻った後は、テーブルの上を片付け、椅子や床の清掃をして次の客を迎える準備をする。
やがて全てが整った頃、店の扉が開いたので目を向けると、其処には客ではなく5歳くらいの男の子が顔を覗かせていた。受付のモニカは席を外しており、 また入り口の扉はベティのネイル・コーナーの直ぐ傍にあったので、ベティが席を立った。

「こんにちは、坊や。ママを探しに来たのかな?」
「ううん、ミス・ベネットを迎えに来たの」
「あなたが?エスコートにはまだ早すぎるみたいだけど」
ベティは笑ってその子供を店に迎え入れた。
「お向かいのカフェで待ってたの。ミスター・アンダーソンと一緒にね」
ミスター・アンダーソンとは、子供の後ろに立っているサングラス姿の男のことらしい。ハンサムそうな男に見えるのだが、サングラスのせいで顔はわからず、結構な威圧感だ。ボディー・ガードか何かだろうか?
……とすると、この子はセレブリティの子供なのかもしれない。
「そう。待ちくたびれてお迎えに来たのね。でもね、ジェントルマンはレディがドレス・アップする様子を途中で覗いたりしちゃ駄目なのよ。だから此処に座っていい子にして待っていてね、ミスター――」
「――レイだよ」
「―――!?」

レイ、ですって――!?
まさか……さっきラムカが話してた子じゃないわよね?
レイという名前だけではない。さらさらのダークヘアー、歳の頃は5歳か6歳くらい、とても可愛い子よ――そうラムカが話していた少年の風貌と一致すると言えば一致するのだ。 そんな馬鹿な!
ベティは驚いて言葉を失い、あわあわとしながら笑顔を取り繕った。
そんな彼女を不思議そうに見上げる少年の瞳。その瞳に吸い込まれてしまいそうな気がして、ベティは思わず瞳を逸らし、逃げるようにして自分の持ち場へと戻った。
「ミスター・アンダーソン、君もすわりなよ。そんなところでつったっていたら、みんながこわがってしまうよ?」
男はサングラスを外して渋々ソファに腰を下ろし、居心地の悪そうな顔で店内を見回し始めた。
その時彼のポケットの携帯電話が鳴った。それに救われた、とばかりに電話に出るために店の外へ出て行く男を見送り、レイという少年はソファを降りると、ベティの目の前の椅子によっこいしょ、と登るようにして座った。
「なあに?坊やも爪、塗りたいのかな?」
「―― ねえ!まさか今日、君にも会えるなんて思いもしなかったよ、ミス・ベティ」
「え!?」
突然のことにベティは驚き、テーブル上に 『Betty』 と書かれたネームプレートなんか立ててたっけ?と咄嗟にそれを探した。やはりそんなものはテーブルに立ててなんかいない。不思議に思い、少年の顔を訝しげに見つめ返すと、少年はにっこりと笑って椅子の上に膝立ちするように座り直し、身を乗り出すようにして彼女のテーブルの上に両肘を付いた。
「きょうこれで3人目だよ!いっぺんに会えるなんてすごいことだよね?」
「?」
「あのね、君にも言っておかなければならないことがあるんだ」
「???」
「ほんとうにたいせつなひとは君のすぐそばにいるんだって」
「What ?」
「ざんねんながら、それがだれかってことまでは僕にはわからないんだけど。ごめんね」
「……はぁ……そう」
「あっ!ミス・ベネット!」
全ての「工程」を終え、すっかり別人のようになったミス・ベネットの傍へ駆け寄る少年を、ベティは唖然と見送ることしか出来なかった。
「じゃあまたね、ベティ!」
「また今度もあなたにお願いするわ、ベティ!」
ふたりの嬉しそうな笑顔に引きつるような笑みを浮かべて見送り、ベティは腰が抜けたようにふらふらとソファに座り込んでしまった。
信じられない……ラムカの話は本当だったってわけ!?
いや、違う、そんなことじゃなくて、えっと、なんであたしの名前とか、知ってるわけ!?
大切な人はすぐ傍にいる?どういうこと?何?何?あの子は一体、何者なの??
突如、目の前に現れ、訳の解らない予言めいたことを言い出した子供。
余りこういうことを信じないタイプの人間なだけに、彼女には衝撃が大きかったようだ。
ミシェルに報告しなくちゃ、とハッと思い出したように彼の姿を目で追ったが、彼はちょうど今、ヘアカットの仕上げの真っ最中だ。
彼女は頭が混乱して、だんだん気分が悪くなってきた。頭痛もするし、何だか吐き気までする。
この後は予約も入っていないし、第一、こんな混乱した頭で集中力のいる仕事なんてきっと出来っこない。

彼女は別のネイリスト仲間であるエミに後を任せ、その日はそこまでにして早い時間に帰ることにした。






その後マーケットで買い物をし、彼女がクィーンズのアパートメントに帰り着いたのは、夕方の5時を回った頃だった。そしてバッグから取り出した鍵を差し込もうとドアノブに触れると、まるで中から誰かが引っ張るように、すうっとドアが内側に動いた。
こんな時間にハリーが戻って来たのかしら、という考えが一瞬脳裏をよぎったが、彼女は直ぐにその考えを打ち消した。ここのところ、新しいプロジェクトにかかりっきりのハリーは、残業続きの毎日を送っていたからだ。
まさか!空き巣じゃないわよね!?―― そしてそういう飛躍した思考へと発展した彼女は恐る恐るドアの隙間から手を伸ばし 、玄関の扉を開いて直ぐの場所に立て掛けてあるハリーのバットを手に持ち、そろり、と家の中へ足を踏み入れて―― そして直ぐに鍵の外されていた理由を覚った。
まずはハリーのジャケットにシャツ、そして女物のジャケットにカットソー(どちらも決して彼女の趣味ではない)、そして彼のTシャツ。道標(しるべ)にお菓子を落としながら歩いたヘンゼルとグレーテルのように、彼女がそれらを順番通りに辿って行くまでも無かった。ベッドルームからの激しい声が、ここまで聞こえてきたからだ。
「Oh……God……」
目の前が真っ暗になり、彼女は頭を抱え、はぁーっと大きく息を吐いた。
そして次第に燃え盛る焚き火の炎のように、めらめらとこみ上げる怒り。
次の瞬間、彼女はバットを振り回してベッドルームへと突進して行った。


「―― Get the fuck out ! Bitch *!!!」   ―― 出ていきな!クソ女!!――









―――「ちょっと!ボトル隠してないでもっと飲ませなさいよ!ミシェル!」
「No ! もう駄目よ、ベティ!」
「あんたまでそんなこと言うの?もういい!誰もあたしのことなんか構ってくれなくていいよ!もう帰って!」
「……ここ、私んちなんだけど」
「いいから帰れー!」
「もうー、ほんっと酒癖悪いんだから」
口を尖らせるラムカにそれ以上言っちゃ駄目、というふうに首を振って、ミシェルはベティの手からグラスを取ってテーブルに置いた。
「おいで、ベティ」
「うぅ……」
泣き出したベティの肩を抱き寄せ、ミシェルは彼女の髪を優しく撫で始めた。
「Honey , 知っての通り、僕もキースに新しい男が出来たと知った時はそりゃあ絶望したよ。まだ彼を愛してるし、今でも辛いけど……でも、彼を憎んでやしないよ。とっても感謝してる。彼と過ごした日々は……本当に素晴らしかったから……」
「……あんたはキースの浮気現場を見たわけじゃないでしょ」
今の彼女には何の慰めにもならない、というふうにラムカが溜息を吐いた。
「……ミシェル」
「うん?」
「いつも意地悪言ってごめん」
「ベティ?」
「あんたが男ならよかったのに」
「男だよ?」
「男?男だったの!?初耳だよ!」
「……生物学上ね」
ああ、まただ……
ラムカはうんざりした顔でベティが飲んでいたグラスの酒を一気にあおった。
何度浮気されても結局はハリーを許してしまうくせに。
こうやってあの馬鹿男に浮気される度に、酒を浴びるように飲んでわめいて大騒ぎして。
ああ、ハリーの馬鹿!何故よりによって今日なの?今日は私が『悲しみの女王』の座を射止めた筈だったのに!
もう散々だ。朝から色んなことがありすぎて、こんなに身も心も疲れきっているのに、慰めてくれる筈の親友を反対に慰めなきゃならないなんて!それもこれもみんな、ハリーの馬鹿が悪い。いや、あいつらみんなが悪い!
「―― セント・ジョンの理事長もあんたたちのボスも、レイもハリーもキースもショーンも、男なんてみんな、この世から消えちまえーっ!」――― そう叫んでラムカはまた酒をあおった。
「ショーン? ショーンって誰よ?」
「あのさ、ラムカ、君まで酔い潰れると僕はとっても困るんだけど。ひとりでふたりの世話は無理だよ」
「何よ、スリー・サム*の経験あるくせに」
「Hey !!」
今ベティの前でセックスの話題を振るなんて!ミシェルがそう非難するような目を向けた。
当のベティはげらげらと笑ってるってのに。
「大体ね、あの子がいけないのよ!突然現れて訳わかんないこと言うから」
「そうだ!あのチビのせいだー!」
意見の一致を見て右手を叩き合った酔っ払い女ふたりを前に、はぁ、とミシェルが溜息を吐いて首を振った。
「……これだから女は」
「あはっ、女とやってみるー?」
「うわっ!やめてっ、ベティ!」
Go ahead !(やっちまえ!)―――そうラムカは仰け反るように笑い、そのままひっくり返るようにして床にぱたり、と力尽きた。







く、苦しい!
喉の上に乗った腕を引き剥がし、上体を起こして見てみれば、それはミシェルの腕だった。 
ぎょっとして服を確認すると、自分もミシェルもちゃんと服を着たままだ。ベティはホッとした顔で起き上がった。
テーブルの反対側の床にはラムカが死んだように眠っている。ずきん、と鳴った頭を抱え、取りあえずパンパンに張った膀胱に溜まっている、昨夜の酒の成れの果てを排出するためにバスルームへ向った。
それから勝手にバスルームの戸棚を漁り、ラムカがストックしてあった新しい歯ブラシを見つけ、それで歯を磨いた。
あ、そう言えばあたし用の歯ブラシがあったんだっけ、と思い出した時には既に歯磨きを終えていたのだが。

それから勝手にコーヒー・メイカーのスウィッチを入れ、お腹空いたよ、と足元に擦り寄るデーヴィーに、ラムカの代わりに餌をやった。それから狭いキッチンの椅子に膝を立てて座り、適当に向こうの部屋から持ってきた雑誌をぱらぱらとめくっていた時にその言葉を見つけたのだ。

『許すということの甘美さを知らぬ愛は、愛ではない』―――

God ! 冗談じゃない。それならあたしは愛を知り尽くしてることになるじゃない。
許すにも限度ってものがある。一体何度許せばいいのだろう?これでハリーがあたしを裏切ったのは何度目?
何故あたしは何度もあんな奴を許してしまうの?――― いいえ、今度こそNo ! よ。絶対に許さない!
よりによってあいつったら、あたし達ふたりのベッドの上で他の女とあんなことしてたんだから!
ハリーの間抜けな顔を思い出しただけで、情け無さにまた怒りがこみ上げた。
あんな早い時間に帰ったりしなければ、あんな場面に遭遇することもなかったのに。
そう後悔しては、いいえ、そのお陰で奴の浮気を知ることが出来たのよ、と思い直す。その繰り返しだった。
今にして思えば、何故あの時、「帰ろう」なんて思ったのか、自分でもよく解らないのだった。確かに急激に気分が悪くなってしまったけど、それ以前に「帰らなくちゃ」、という思いに突き動かされたと言えばいいだろうか。
あれは胸騒ぎだったのか、或いは予感めいたものだったのか、とにかく彼女は普段取らない行動を取った。
そして恋人の浮気現場に遭遇してしまったのだ。
やっぱり何度考えても、それが良かったのか悪かったのか、よく解らないでいる。
はぁ、と溜息を吐き、そこで漸く出来上がったコーヒーを口にしたのだったが――ラムカ、まずいよ、これ。
……ああ、ポールのカプチーノが恋しい。
「ちょっと、もう行っちゃうの?」―― 餌を食べ終え、横を素通りしようとするデーヴィーを捕まえて抱き上げた。
ふわふわしたものを抱き締めると、その瞬間だけは心が安らぐのを感じられる。
Umm……Devi ! まるで恋人にそうしていたみたいに、そのふわふわした体を揺らすようにぎゅうっと抱きしめてみる。
「ね、あんたは好きな男とか、いないの?教えなさいよ」――彼女はそう言ってデーヴィーの喉元をこちょこちょ、と撫でた。ところが、無理やり抱き上げられたデーヴィーはそれを嫌がり、ふぎゃん、と鳴くと、逃げるようにベティの胸から床に降りてしまった。
Damn ! お腹空いたと甘えてきたくせに、お腹いっぱいになった途端にこれだもの。
「何さ!あんたもあの馬鹿男と一緒ってわけ?」
都合のいい時ばっか甘えちゃってさ ―― 彼女はしゃなり、しゃなり、と優雅に歩くデーヴィーの背に向って悪態を吐いた。

『ほんとうに大切な人はすぐそばにいる』――あの不思議な子供の言った一言がその時ふいっと脳裏に浮かんだ。
大切な人?一体誰だって言うのよ?店のボンクラども?唯一まともなミシェル? それは有り得ないでしょ。
でもまさか、ゆうべミシェルとやっちゃったなんてこと……ないわよね?服、着てたし、彼、バイ*じゃないし。

え……? 

まさか ――― ラムカ!?


彼女は自分で自分の思いつきにコーヒーを噴いた。