Magnet 30 「 Breaking the rules 」












30. 「Breaking the rules」 ― ルールは破るためにある ― 





翌朝、日曜日

ウエストヴィレッジ 9:15 a.m.


リズミカルな音と、じゅっと何かが焼ける音、漂い始めた美味しそうな匂い。そう……これはきっと、ベーコンを焼く匂い。
今朝はアメリカ風の朝食にしたのね、マー(ママ)。コーヒーのいい匂いもする。やった!チャイじゃなくてコーヒーが飲める日だよ、アイシュ!
「……ん……」
やがて視界が明るくなり、目の前にいたはずの母親も弟も、忽然と消え失せてしまった。
「……ん?」
差し込む日差しの眩しさに目をこすり、反射的に寝返りをうつ。何度かまばたきをするうちに、瞳の中に映りこむ見知らぬものたちが、やがて彼女の意識を覚醒させていく。
壁の色、置かれた家具、毛布の感触、その全てが彼女の知るものではない。
彼女はそこでようやくはっと我に返り、慌てたように上体を起こした。
「Aw……」
起きた途端、額にずきんと走る痛み。額に手を当てたまま、彼女はこそっとベッドを抜け出し、恐る恐る良い匂いの漂う方へと足を進めた。
「!」
そこには、彼女の想像を絶する、あり得ない光景が用意されていた。
嘘でしょ!? ここって…彼の家!? まさか……!
ハッとしたように自分の衣服をチェックする。靴は脱いでいたが、服はちゃんと昨夜のままだ。当然、身体のどこにも、何の感覚も残っていない。
彼女は心底ホッとしたように、瞳を閉じて小さい息を吐いた。
それから足音を立てないようにベッドまで戻り、床に転がる靴とバッグを拾い上げ、再びゆっくりと足音を立てないように、玄関のドアまで向かおうとした。
だが、そのドアへ辿り着くには最大の難関が待ち受けている。そこへ到達するためには、オープンになったキッチンの横を通らなくてはならないのだ。
お願い、こっち向かないで!そのまま、そのまま……

「――Oh , mornin’」
「!」
「Hey !」
「あー……はは」
願い空しく、あっさり彼に見つかってしまった。彼の視線が、彼女の手の靴とバッグに注がれる。
「黙って帰るとか、あり?」
「……Sorry」
「……ま、いいけどさ。とりあえず顔洗ってきたほうがいいと思うけど?マリリン」
「は?」
「マンソンのほう」
「?」
「バスルームはそっち」
彼がターナーで壁の方を指している。
混乱した頭で言われた通りにキッチンの裏側に回ると、彼の言葉通り、そこにドアがあった。
ドアを開き、バスルームに入って鏡を覗く。彼女はそこでようやく彼の言葉の意味を理解した。
昨夜たっぷり塗ったマスカラとアイラインがにじんで、彼女の目の周りを真っ黒に縁どっていた。さっきごしごしと擦った右目が特にひどいことになっている。
慌てて目の周りを洗い、彼のタオルで拭き取ることを数回繰り返す。完璧にオフ出来たわけではなかったが、少しはまともになったのでそれで良しとした。
それから勝手に彼の歯磨き粉を借り、指をブラシにして応急的に歯磨きを済ませ、がらがら、とうがいをして、再び鏡を覗き、くしゃくしゃな髪の毛を手ぐしで整えた。
それにしても、マリリン・マンソン*だなんてひどい。これくらいのアイメイクならみんなやってるわよ! 全く……男ってすぐこうなんだから!
そう言い返してやりたかったが、ひとまず今は膀胱がはちきれそうだったので、不本意ながら彼のトイレットを拝借した。
何の気なしにふっと右の方へ目を向けると、入ってきたドアとは別に、もう一つドアがあるのが目に入った。
手を洗い、こそっとそのドアを開けてみると、そこはクローゼットになっていて、その向こうにはさっきまで彼女の寝ていたベッドが見える。
収納スペースの半分も埋まっていない、ガラガラに空いたクローゼットを通り抜けてベッドまでたどり着くと、彼の部屋をまるっと一周したことに気付き、思わず彼女は声を上げた。

「ずるい!クローゼットがうちの倍以上もあるのに半分も空いてる!フェアじゃないわ!」
「は?」
「……何でもない。えっと……泊めてくれてありがとう。でももう行かないと」
「2人分作ったのに?」
「Oh……じゃあ……昨日の彼女でも呼べば?」
「……何だって?」
彼が非難するような呆れたような顔を見せた。
「真面目に言ってるの。だってせっかく彼女といい感じだったのに、その……悪いことしちゃったもの」
「へえ、驚いた。ちゃんと自覚してるんだ」
「……」

「彼女といい感じだった」――それに否定も肯定もせず、皮肉のような嫌味のような笑みを浮かべる彼。
迷惑をかけた、その負い目さえなければ、彼女はいつものように喧嘩腰な態度で応戦しただろう。
彼女がいつになくしゅん、としてしまったので、彼の方もそれ以上意地悪な物言いをするのはやめて、とにかく座りなよ、と彼女にもう一度着席を促した。

「悪い、冷蔵庫にろくなもんがなくてね。コーヒーだけは買ったばかりの豆だから美味いはず」
「……Thanks」
彼女は仕方なくテーブルに着いて、彼がマグカップに注いでくれたコーヒーをまずは啜った。ほんとだ、すごく美味しいこのコーヒー。
彼の作ってくれた朝食は、あり合わせと言う割には、カフェで出てくるようなちゃんとしたひと皿に見え、さすがね、と心の中で呟いた。悔しいから口には出さなかったけど。
に、してもだ。彼の家で朝食を一緒に食べるなんて一体どうなってるの?これって、本当に現実に起こってること?どう考えても夢の続きに違いないんだけど。ううん、夢だとしか思いたくない。
だが、彼女の抵抗もそこまでだった。人は美味しいものを口にすると、幸せな気持ちになる脳内物質に思考を支配されてしまう。どうやら降参するしかない。素直に現実を受け入れるしかないのだ。
「……ん、卵にナツメグ大好き。私もよくやる」
「そう?」
「! キャベツとクミンシード?」
「嫌いだった?」
「No , no , まさか!すごく美味しい!この組み合わせが意外で」
「ああ、クミンってカレーの材料だっけ。ライスサラダに入れても美味しいよね」
そうね、と返事をした後、しばし彼女が押し黙った。
「……ねえ」
「?」
「もしかして……ベティとミシェルに私のこと、押し付けられた?」
「Bingo !」
「あー……やっぱり……」
そこまで言って、すぐに彼女がハッとしたような顔を向けた。
「ねえ!まさか私、吐いたりして…迷惑…かけてないわよね?」
「……」
彼は何も言わず、眉を上げて肩をすくめる仕草をしてみせた。
ああ!やっちゃったんだ、私ったら!
「Oh God ! I’m so sorry ! 」
「No , it’s ok」
「! もしかして……ベッドも奪っちゃった?」
「……」
さっきと同じように彼が肩をすくめる仕草を見せ、彼女は自分のしてしまったことを覚った。
「ああ……ほんと最悪」
テーブルの上で頭を抱える彼女を見て、思わず彼はくすっと笑いをもらしていた。
「いいから食べなよ。コーヒーもほら、冷めないうちに飲んで」




″ ―――ショーン……ショーン ″

″ …ん… ″

″ 起きてちょうだい、Honey ″

″ ……んん……いい匂いだ ″

″ 美味しいコーヒーが入ったの。さあ、起きて ″



唐突に、あの頃の朝の情景が蘇った。すぐさま彼は、マグカップのコーヒーをごくり、と勢いよく飲み込んだ。
この部屋に越して来て以来、ここに女を泊めたことはなかった。そうならないように配慮していた。
「彼女」との日々を思い出すようなことは、なるべく避けていたからだ。
酔っ払いの面倒を押し付けられ、ベッドまで奪われたせいで熟睡出来なかったというのに、朝食まで用意してやるお人好しな自分に呆れる。
挙句、封印したはずの思い出まで呼び起こされてしまったではないか。
そう恨みがましい気持ちになるのと同時に、いつの間にかこの状況を楽しんでいる自分にも気付いていた。
いつもなら仮面を被ったように、つん、と取り澄ました不機嫌そうな顔を見せる目の前の彼女が、今朝はその仮面を被ることを忘れたのか、或いは諦めたのか、意外に素直な反応を返してくるからだ。
ようやく心を開いた、と言えるほどではない。どこか警戒したような様子を見せるのも相変わらずなのだから。
けれどそれは自分も同じではないか。彼女だけではない、自分も仮面を被って生きている。そう思えるのだ。
不本意ながらも女を泊めたということは、自分の中にあったルールをひとつ破った、ということだ。
彼女といると何故かそうなってしまう。つまり、仮面を被ることを忘れてしまうのだ。いや、被らなければと思うのに、それを許されない状況に陥ってしまうのだ。
そしてそれを、諦めにも似た気持ちで受け入れ始めている自分にも驚いていた。
″幸せな人生を手にしたいと思わないの? ″――昨日姉のケイトに言われた言葉がふいに胸を突いた。
姉の言うW 幸せ Wという言葉は何なのか。かつては人並みにWそれWを追い求め、そして、あっさり失った。今となっては、その言葉に意味を見出す価値があるのかさえ解らない。
仮面を被り続ける以上、決して手にすることは出来ないものだろう。だからこそ、あの日以来、仮面を被り続けて生きているのだ。
眼の前の彼女ももしかしたら、WそれWを求め、失うことを繰り返して生きているのだろうか。
一昨日の夜、恋人のふりをして欲しいと懇願した時の、彼女の瞳を思い出した。
彼女のあんな瞳の色はそれまで見たことがなかった。彼女にあんな瞳の色を浮かべさせたあの男は、一体どんな男なのだろう。
やはりあの男とのことを知りたい、心の底でそう思う自分がいるのだ。それを自覚し、苦笑いが浮かんだ。

「…Wha?」
「……Nothing」
「! ひどい、思い出し笑いするなんて。――Oh ! 私、そんなにひどかったってこと?」
「あー……いや、すごく面白かった」
「!?」
「動画に撮っておけば良かった、そう後悔するレベル」
「何それ!ひどい!」
「はは…」
彼女の頬を撫でたことも、彼女にキスをしようとしたことも、彼女を揶揄するような笑いごとの中にこっそりと隠してしまった。
こんな時、いつもなら恥ずかしさを隠すように不機嫌そうな顔を見せる彼女が、ああ、と頭を抱えて素直にそれを受け入れている。
どうしたと言うのだろう。そんな彼女を見ていると、再びあの思いが沸き起こってしまったのだ。
眠る彼女に愛おしいとも言える感情が湧き、そっと頬を撫でた時と同じ、あの感情が。
彼は慌てたように、再びコーヒーを勢いよくごくり、と飲み込んだ。




そのままでいいよ、という彼の言葉に首を振り、彼女が皿や調理器具を洗い始めた。
髪の色や背格好は異なるが、やはりそれは、あの頃の「彼女」の姿を思い起こさせるものに違いはなかった。
それなのに、何故だか「彼女」の顔をはっきりと思い出すことが出来ないでいる。
「これで終わり?」
「Yeah、thanks」
皿洗いを終えた彼女にもう一度、少なめに注いだコーヒーを手渡す。
その時、マグカップを受け取ろうとする彼女の手と彼の手が重なり、反射的に二人の視線も重なった。
「…Thanks」
かすれた声で彼女がつぶやき、受け取ったコーヒーを唇に運ぶ。
その後、冗談めかして「またバイクで送る?」と笑う彼に、苦笑いで彼女が首を横に振った。
お願いだからこれ以上罰しないで、そういうことだ。
道を知らない彼女のため、地下鉄の駅の階段まで歩いて彼女を送り、じゃあまた明日、そう言って2人は別れた。
彼女の姿が地上から消え、彼は来た道をゆっくりと戻りながらふっと立ち止まった。そして駅の階段を振り返り、短く息を吐いて再び歩き出す。
見送るのはどうにも苦手だ。やはり女なんて泊めるもんじゃない。ろくなことになりはしない。
さっきから胸を焼き焦がすような、説明のつかないこの感情が、次第に苛々としたものに変わっていくのを感じた。
やがてアパートメントに帰り着く頃、彼はジーンズのポケットから携帯電話を取り出していた。

「―――Hi , It’s me 」
″ ―――― ″
「…今から行っても…いいかな…」