Magnet 29 「 " I'm a fool to want you " 」












29. 「" I'm a fool to want you "」 ― " 恋は愚かと言うけれど " ― 





 5番街  10:20 p.m.


 心地良い音量で会場に低く流れているジャズが、ピアノ曲から女性ヴォーカルの曲にスウィッチした。
 これはおそらく、ビリー・ホリデイ*の声ではなかったかしら、と曖昧な記憶を辿る。
 優美なシルエットを描く細長いグラスに注がれた、かすかに泡立つ金色の酒。それを片手に夫の横に立ち、笑みを張り付けた顔で幾人もの人々と握手を交わしつつ、彼女は頭の隅では古いジャズ歌手のことに思いを馳せていた。
 彼女自身は決してジャズという音楽に造詣が深いわけではなかったから、それがビリー・ホリデイの声なのか、或いは他の歌手のものなのか、はっきりと断言できるわけではなかった。ただ何となく頭の隅に、ビリー・ホリデイ、という名前と、癖のある歌い方の記憶が蘇っただけだった。
 それはつまり、彼女は自分が今置かれている状況に集中できていない、ということだ。
 今、彼女が夫と参加しているのは、とある難病の研究費用の寄付金を募る、という趣旨のパーティーで、年中こういった資金集めのパーティーには顔を出しており、彼ら夫妻にとってはごくありふれた年中行事の一つでもある。

 思えば、彼女は物心ついた頃からこういった集まりには顔を出していた。両親に連れられて、また時には兄に連れられて、ということもあった。高校生の頃には「次世代のソーシャライト*」と呼ばれて、雑誌のセレブスナップ欄に写真が載ったことも一度や二度ではなかった。
 もっとも、彼女自身は「ソーシャライト」と呼ばれることを嫌っていた。そもそも、そう呼ばれるほどの名家に生まれたわけでもないのに、イメージだけでそう呼ばれていると思っていた。だから母親から事業を受け継いだことで、これからは自分の力で社会に貢献できる、そう思っていた。
 けれど、それよりも結婚のほうが早かったから、結局は「クリフォード家に嫁いだ宝石商の末娘」としての顔のほうが先に有名になってしまった。
 もちろん今夜の資金集めには彼女の事業も彼女自身も貢献しているし、少しでも多くの寄付金を集めることが出来るように、とそのことを第一に考えている。
 そう思いながらも、昨夜の夫とのやり取りや、昼間のアルヴィンの助言など、心がざわついてしまって、心からパーティーを楽しめないでいるのだった。

「キャス、大丈夫かい?」
「……え?」
「疲れてるみたいだ」
「あー……酔ってしまったのかしら」
「君が? 俺より先に酔ったことないのに?」
「そんな日もあるのよ」

 体調が良くないなら帰ろうか?――彼女を座らせ、そう心配げに顔を覗きこむ夫に笑顔で顔を横に振る。
 フィリップ!――向こうの方から彼を呼ぶ声がして、そちらのほうに顔を向けると、男たちが数人、シャンパングラスを片手で持ち上げながらこちらの方を見ていた。

「トニーたちか…」
「行って、フィル。私なら大丈夫。しばらく座ってるから」
「Ok……気分が悪くなったら呼ぶんだよ、キャス」
「大丈夫よ。ほら、行って」

 男たちの中に混じって談笑を始めたフィリップを見やり、彼女は小さく息を吐くと、シャンパンを口に運んだ。




「――おい、見ろよ」
「?」
「Damn!(くそっ!) なんていい女だ」
「女房の目を盗んでああいう女とやりまくったら最高だな」

 男たちがヒューと口笛を鳴らし、向こうのほうで談笑しているダークヘアの女について下品な話をし始める。
 一見、品の良い連中の集まりに見えても、実際は男が3人も集まればこんなもんだ。
 ふん、と鼻を鳴らしてその女の顔を振り返ったフィリップは、自分の目を疑った。彼らの噂の的とは「彼女」だったのだ。

「ああ、あれだよ、ダニエル・ハリスの3人目の妻」
「おいおい、嘘だろ。ハリスは正真正銘の爺さんじゃないか」
「病気であまり長くないって話だな」
「彼女は夫から男遊びを黙認されてるって聞いたことがある。その相手を探しに来たのかもな」
「どうせ財産狙いで結婚したんだろうが、彼女は3番目の妻だし、前妻たちとの間に5人も子供がいるから大した額の相続にもならないはずだ。次の富豪を今のうちに見つけておこうって腹なんだろ」
「アッチのほうも満たされてないんだろうな。カモン、ベイビー、俺がいつでも相手してやるぜ」
「お前なんか相手にされるもんか」
「そういうお前こそ」

 下世話な噂話にしばらく付き合った後、フィリップは何気なさを装いつつ、レストルームへと逃げ込んだ。
 まさか「彼女」がここへ来ているなんて。予想すら出来なかったのは迂闊だった。
 だが、彼女はこういう集まりには殆ど顔を出さない人間だったし、彼女の夫が具合を悪くしていることは知っていた。だからここへ彼女が顔を出すなど、考えもつかなかったのだ。
 とは言え、狭いマンハッタンで、二度と彼女と顔を合わせることはない、そう言い切ることは出来ない。この日がいつか来ることは予測しておくべきだった。
 覚悟を決めたように息を吐き、顔を上げて鏡の中の自分を見つめる。酷い顔だ。
 そう言えば、キャサリンも具合があまり良くなさそうだった。やはり今夜は早々に退散することにしよう。そう思い立ち、彼はバンケットホールに残した妻を連れ帰るため、レストルームの扉を開けた。




「――Hi」
「?」

 突然の声にキャサリンが振り返ると、黒い髪の女性がそこに立っている。

「憶えてない? 以前アリーと一緒の時に5番街で会ったわよね? エミリオ・プッチの近くだったかしら」
「ああ! あの時の」
「思い出してくれた?」
「ええ。確か……ヤスミンだったわよね? どうぞ座って。そう言えばアリーは? 見かけないわね」
「ええ、彼女風邪をひいてしまったらしくて、今日はご主人だけみたい」
「あら、そうなの。それは心配ね」



 バンケットルームへ戻ったフィリップを待っていたのは、にわかには信じられない光景だった。
 あろうことか、「彼女」が妻の横に座り、にこやかにふたりで話をしていた。
 つう、と冷や汗が背中を流れるような、嫌な感覚が彼を襲う。
 ふたりから身を隠すように観察を続けていると、やがて「彼女」は立ち上がり、キャサリンと別れの握手をしてテーブルを離れ、そのままとある男の元へと行き、その男の耳元に何かを囁いていた。
 その男に見覚えはなかった。仕立てのよさそうなスーツを着てはいたが、少し場違いな雰囲気を持つ男で、明らかにこういうパーティーに顔を出す類の男には見えない。
 よく言えば「彼女」の夫公認の情夫なのかもしれないが、いくら何でも公の場に堂々と連れてくることは考えにくい。
 ″ 後悔するわよ ″――最後の電話で「彼女」が脅すように言った言葉を思い出し、再び彼の背筋が凍りついた。
 何故妻に近付いたのか。何か企みがあるのではないのか。何やらキナ臭いものを感じ、彼はその場を離れると、廊下へ出て人気(ひとけ)のない場所を探し、ポケットから携帯電話を取り出した。


「――俺だ。土曜の夜に悪いが、仕事を頼みたい――」










 チェルシー 01:10 a.m.


 遅い時間に飲みすぎたコーヒーのせいだろうか。その夜、彼女はなかなか寝付くことが出来ずにいた。
 カフェで過ごしたポールとの時間が、思いのほか楽しかったせいもあっただろう。最後はちょっとドキッとした場面もあったけど、あれは行き過ぎたスキンシップをしてしまった自分のせいだろうし、初めてのラテアートに、彼女の中のアーティスト魂がむくむく、と刺激を受けたせいもあったかもしれない。だからきっと、興奮がまだ収まっていないのだろう。
 けれど、一番の理由はおそらく、ミシェルがまだ帰宅していないことだ。
 いや、きっと彼は今夜も帰ってこない。キースと別れてからというもの、彼は夜遊びすることもなく、どちらかと言うと引きこもるようになっていたが、そろそろ傷も癒えてきただろうし、いいかげん外へ出て行かなくちゃ、という気になったのかもしれない。
 そしてそれは、喜ばしいことなのに違いない、とは思う。

 けれど、それ以上に彼のことが心配だった。他人には的確なアドヴァイスをくれるミシェルも、自分のこととなると意外に向こう見ずで、好きになってはいけないタイプの男に惹かれやすい傾向にあったからだ。
 もしかするとまだキースのことを忘れられずに、自棄になって、自らそういう男を探し求めている可能性も否定できない。
 傍で見ていてハラハラするような恋愛にのめり込み、結果、またしても彼が深く傷付く姿は見たくない。
 どうして彼はいつもそんな男たちに惹かれるのだろう。相手があたしなら……絶対に彼を傷付けるようなことはしないのに。
 他の誰にも真似出来ないくらいに、深く大きな愛で彼を包んで、何があろうとも、愛して、愛し抜くのに。
 ふっとそんな思いが湧いてハッとなった。
 何言ってるの! 気は確か!? 彼女はふっと湧いたその感情を打ち消すように勢いよく寝返りを打った。

 その時だ。扉の向こうで、玄関のドアが閉まる音がかすかに聞こえた。
 ミシェル? 帰って来たの? ――反射的にベッドを抜け出して、こそっと自室のドアを開くと、冷蔵庫をパタン、と閉める音がした。
 間違いない。彼は帰って来たのだ。確信した彼女は自室を飛び出していた。

「――Oh!」

 暗がりに立つベティに驚いた彼は思わず声を上げた。

「もう! おどかさないでよ」
「良かったー! 無事で」
「はあ?」
「いやさ、ゲイのマフィアの情夫に横恋慕して、その結果ハドソン川にあんたが浮かんでたらどうしようとか、金持ちのゲイの爺さんに誘拐されて監禁されてたらどうしようとか、心配で色々妄想しちゃって」
「何それ!」

 突拍子もないことを言い出すベティにぶっと噴き出し、ミシェルが呆れたように首を振った。

「どこからそんな発想が出てくるのさ」
「……ここ?」

 人差し指でベティが彼の頭を突く。

「何で僕の脳みそなんだよ」

 全くもう、テレビドラマの観すぎだよ――そう言ってミシェルが呆れたように笑った。

「心配なの? 僕が?」
「……うん」
「大丈夫だよ。自棄なんか起こしたりしないから。ちゃんとこうして帰ってきたでしょ?」
「でも昨日は帰って来なかった」
「Hey、僕だってたまには夜遊びくらいするよ。それに……」
「何よ」
「昨日は帰ってきちゃまずいと思ったしさ。ラッセルと一緒かもしれないし、って」
「おあいにくさま。彼とは上手くいきませんでしたー」
「……知ってる。ラッセルから聞いた。残念だったけど、仕方ない。また次を探してみるよ」

 ミシェルのその言葉に、彼女の中で何かが「プチン」と弾ける音がした。

「は!? ラッセルから報告があったらそれで終わり!? あたしの話なんて聞きもしないで、この件はそれで終わりってこと!?」
Whoa whoa ! *(おいおい)いったい――」
「――ねえ、何で彼と上手くいかなかったのかって聞かないの!? 最高の男なのに、キスだってしたのに、それなのにどうしてって!」
「ちょ、落ち着いてよ、ベティ」
「――あんたのせいよ!」
「!?」
「あんたが……その……」
「Me!?」
「えっと……」
「僕が何かしたの? 大事な親友を君に紹介した、ただそれだけなのに?」

 ――ああ! もうダメだ! 黙っていられない!
 最高潮に感情が高ぶったベティは、すーっと息を吸った。

「――あんたを愛してるからよ!」

 一瞬きょとん、とした後、まるで昼間の業務連絡の確認の時みたいな表情で、ミシェルがこくん、とうなずいた。

「Yeah , わかってる」

 ……あれっ!?

「ちょっと! 愛してるって言ってるの!」
「うん、だからわかってるって。僕も愛してるよ。君のこともラムカのこともね」
「!?」
「でも何でそれとラッセルのことが関係あるのさ」

 ベティはがっくりと項垂れた。いつもなら上手く言葉に出来ないことでも、細かいところまで気持ちを汲み取ってくれる繊細な彼なのに。
 ……全く伝わってない…ってこと?

「……もういいよ」
「Wha ? 」
「I said , forget it ! 」
「?」

 ぷい、と踵を返し、彼女は部屋へと戻ってしまった。残されたミシェルは、訳が解らない、そんな顔で暫く思考を巡らせていたが、やがて何かを思いついたような顔で瞳を見開いた。








 数分の後、控えめなノックと、かちゃり、とドアが開く音。

「――ベティ」
「入ったら殺す」
「あいにく、もう入っ――」

 ぼふん、と音がして、ミシェルの顔からクッションが床に落ちた。

「……Oh, nice control(ナイス・コントロール) 」
「出てって」
「Non」

 ミシェルはベティの背中に向かって首を振り、床のクッションを拾い上げ、ベッドに腰掛けている彼女の横に並んで静かに腰を下ろした。
 腰を下ろしたはいいけれど、一体何を話せばいいのだろう。言葉を探そうと努めてはみるのだが、視界を埋め尽くす床の木目を無意識に目が追ってしまい、それに気を取られてしまって何も言葉が浮かんで来ない。
 ベティのほうも、ミシェルから受け取ったクッションを抱き締めたまま、じっと動かない。「殺す」だの「出て行け」だの威勢の良いことを言っていたのに、しょんぼりと項垂れてしまっている。ミシェルと違って彼女の目が無意識に追っているのは、剥げかけたつま先のネイルだったけれど。

「――You know what――」
「――What's goin’on――」

 暫く沈黙した後、ふたりの口から同時に言葉が発せられる。君から、いや、あんたから、と互いに譲り合ううちに、何を言おうとしていたのかまた分からなくなって、ベティは口を閉ざしてしまった。

「……知ってるかな」
「……」
「どちらかと言うと、君たち女性の方が後天的に同性愛に目覚めやすいんだって、そう聞いたことない?」
「……I don't know…」
「普通に男と結婚して子供までもうけていた女性が、ある日突然女性を愛してしまって離婚したなんてこと、最近よく聞くじゃない」
「……So ?」
「つまりさ。君は、その……男としての僕を愛してるわけじゃないと思うんだ。君にとって僕は女友達のような存在だから、きっと――」
「――つまり、あたしは同性愛者になった、って言いたいわけ? しかも男でゲイのあんたを相手に?」
「……状況はもっと複雑かもしれないけどね。でも――」
「――ならちょうどいいよ、あんたが相手ならペニスバンドも必要ないしさ」
「! でも……君とは……」
「セックス出来ない?」
「……うん」
「やってみなきゃ判んないじゃない、そんなの」
「Non !  無理だよ! 絶対無理!」
「何で? あたしが嫌い?」
「そういうことじゃないんだベティ。Non !  やめて! Oh !」

 気付けば彼はベティに押し倒されるように強引にキスをされていた。

「Non !」
「――!」

 すぐにベティの体を押し退けてミシェルが起き上がった。涙目で口に拳を当て、今にも吐きたそうな顔をしている。

「……酷いよ、ミシェル」
「どっちが!?」
「傷付くよ、そんな顔されちゃ」
「だからやめてって言ったのに」
「ただのキスよ? 今まで何度もしたじゃない」
「あんなのただのおふざけだよ!でもこういうの、本当にやめて」
「……そんなに女が嫌い?」

 答える代わりにミシェルはまた吐きたそうな顔をして、それを必死に堪えている。

「……言わなかったっけ? 僕の悪夢の初体験」
「!? ――No ! (まさか!)」

 そのまさかだよ――思い出しただけで吐きそうだ、と言いながら、ミシェルが15歳の時の話を始めた。
 同じアパートメントの2階上に住んでいた、3つ年上のスージーという女の子に無理やり奪われたのだそうだ。
 小さい頃からませた子で、身体も大きく、その歳で既に相当なテクニックを持っていたらしい彼女は、あれよあれよと言う間にミシェルの体を奪ってしまった。
 彼女に奪われた彼は一晩中吐き続け、すでにその頃には自分がゲイだという自覚はあったけど、それでますます女が駄目になってしまったらしい。

「ねえ、知ってたかい?女だってその気になれば男を無理やりやれるんだよ!」
「……」
「まさか君にまで――」
「――キスだけ!……あたしはそんなことしないわよ」

 ミシェルは小さく首を振って項垂れている。本当に悪いことしちゃった……ベティは彼の肩を抱き寄せて、腕をそっとさすった。

「……ごめんね」
「……」
「あんたが女を愛することが出来れば……幸せになれる可能性がもっと広がるのに……そう思っちゃったの」
「Non」
「嫌なこと思い出させて……本当にごめん」

 震えるミシェルを抱き締めてベティも泣いた。やっぱり彼を愛してる。大切な友達として。家族として。
 そうだ、ミシェルはあたしにとって家族なんだ。生きていくのも大変なこの街で、あたしが真っ直ぐ立てるように支えてくれている、大切な家族のひとり。
 そう、それは、喉元に詰まっていたものが、気持ちよくストンと腑に落ちる感覚だった。そうか、そういうことだったのか。
 答えを見つけたような気持ちになり、彼女は涙を拭うと、すっきりとしたような笑顔を彼に向けた。

「……ほら、あたし、しばらくセックスしてないじゃない? だから……単なる欲求不満だったんだと思う。ラッセルとのことは……彼本当にいい人だから、軽々しい関係になりたくなかっただけ。本当はあんたのせいなんかじゃないの」

 彼の腕をさすり、彼女はいつもみたいな少しおどけた顔で、彼の目の前に人差し指を向けた。

「言っておくけど」
「うん」
「二度とあたしにその可愛いお尻を見せないで」
「Wha !?」
「あのお尻は罪だよ」

 それであんたとやりたくなっちゃったんだからね――ベティの言葉にようやくミシェルが白い歯を見せた。

「レディがそんな言葉、口にしちゃだめでしょ?」
「やりたいとか、ペニスバンドとか?」
「Noooo !」

 互いに噴き出して暫くの間げらげらと笑い、再び訪れた短い沈黙。先にそれを破ったのはベティだった。

「……あのね」
「うん?」
「本当に大切な人はすぐ傍にいるよ、って言葉、憶えてる?」
「ああ、いつか言ってた、レイの言葉?」
「うん……あれね……あんたのことだと思っちゃったみたいで」
「!」
「それで何だかこんな…おかしなことになっちゃったって言うか…あんたをどういう訳か男として見ちゃった、って言うか……完全に頭おかしくなっちゃってたよ」

 やっぱりレイの言葉はあんたのことじゃなかったってことだね。当たり前か――少しホッとしたような顔で呟いて、ベティが肩をすくめた。

「本当に気付いてないの? B」
「何が」
「ずっと君を見つめ続けてる人間がいるってことさ」
「 !? Who ?」
「もう一度、周りをよく見渡してごらんよ」

 その言葉にベティが部屋中をきょろきょろ見渡したので、ミシェルがぷっと噴き出した。

「馬鹿だなあ。ここにいるわけないでしょ」
「うるさいなあ! わざとだってば!」

 ばつが悪そうにベティが唇を尖らせる。ふふん、と笑ったあと、彼は身体を少しずらして彼女と向き合うように座り直し、彼女の両手を取った。
 何か大事な話なんだ。彼女はそれを悟り、それが何かを表情で彼に尋ねた。

「……I 'm in love……with someone(恋をしてるんだ)」
「!」
「寝ても覚めても、何をしてても、彼のことばかり考えてる」
「Oh……やっとキースの呪縛から解けたのね? Honey」

 そう言って彼女は彼の頬を撫で、ほっとしたように息を吐いた。

「やだ、またろくでなしの男じゃないでしょうね? それだけが心配なのよね」
「大丈夫。今度こそ運命の相手だと思える男と出会ったから」
「本当? キースの時も同じこと言ってたよ?」
「Non , あんなもんじゃないんだ。比べものにもならないって言うか……生まれて初めて感じたんだよ。彼には…本物の運命を感じたんだ」
「そっか……まあ、あんたが幸せでさえいてくれたら、こんなに嬉しいことはないよ」
「Thanks , 僕も同じ気持ちだよ。幸せでいて欲しい。君にも、ラムカにも」
「……うん」
「もうあんな汚い言葉は聞きたくないしさ」
「Hey ! 」

 げらげら笑うミシェルに仕返しの攻撃を仕掛ける。彼は彼女がハリーに怒りをぶちまけたあの夜のことを言っているのだ。
 そうやってじゃれ合っているうちに、ふたりはまたもベッドに倒れ込んだ。

「Aw !」
「Hey !  罰としてもう一回キスさせなさい」
「やだよ。何の罰だよ」
「じゃあ死ぬまでに一回でいいからセックスしよ」
「何でそうなるの」
「あんたが干乾びたおじいちゃんになってからでいいからさ」
「ぶっ!」
「その頃にはあたしのおっぱい、おへそまで伸びてるけど、いい?」
「ぶはは!」
「おやベティ婆さん、こりゃ何かね? 新しいカーテンかね?」
「ぶははは!」

 そうやって寝転がったまま、いつまでもくだらない冗談を言い合ってげらげらと笑ったあと、ミシェルが涙目でベティのほうへと顔を向けた。彼女の瞳にも、笑いすぎて溜まった涙がうっすらと光っている。

 ちゅっ――子供の頬にそうするみたいに小さく音を立て、彼女の鼻や唇に軽いキスをして、ミシェルがベッドから身体を起こす。
 笑みを収めて見上げる彼女に、彼は柔らかな微笑みを向けた。

「これだけは知っておいて、Honey B」
「?」
「男女の愛とは違っても、心から君を愛してる。本当だよ」
「……うん」
「……おやすみ」
「うん……おやすみ」

 ぱたん、とドアが閉まる音を寝転がったままで聞き、彼女は短い息を吐いて天井を見上げた。
 何だ。「本当に大切な人」探しを、また始めからやり直しってことか。

「本当に大切な人は……すぐそばいる……」

 あの日のレイの言葉を、噛み締めるようにゆっくりと呟いてみる。
 すぐそばかあ。
 お隣のフランキー爺さんだったりして。

 彼女は自分の思い付きにくすっと笑い、瞳のはじっこに残された、涙のかけらを拭った。