Magnet 31-Ⅰ「Sequel 3 : End of the long winter 1」












31-1.「End of the long winter 1」 後日談 3  ― 長い冬の終わり 1 ― 





 アッパーウエスト  11:10 a.m.


「……あぁ……」

 大きくため息を吐き、がくり、と崩れ落ちた後、彼は一瞬で深い暗黒の世界に落ちた。
 意識を手放していた時間そのものは、ほんの短い、時間とも呼べないほどの、時と時との狭間。
 すぐに意識が戻ったのは、自分の下に敷いたままの彼女の手が、優しく彼の髪を撫でていたからだろう。
 不慣れな感触に違和感を覚え、ハッとしたように身体を少し離すと、彼女がふふふ、と笑った。

「ぶっ飛んじゃったの? あんたらしくもない」
「……あんたこそ」

 やめてくれ、そう言わんばかりに、彼の髪を撫でる白い手を剥ぎ取り、彼女の中に自分を埋めたままで、再び彼女を磔(はりつけ)にした。

「ふふ、まだ足りないってわけ?」
「……」
「ああ、でももう行かなきゃ。残念だわ。過去最高のファックだったってのに」

 仕方なく身体を離し、ベッドに横たわって彼女を解放した。
 床に落ちたシルクのガウンを拾い、するすると肌の上に滑らせる彼女を見遣る。

「……イネス」
「何?」
「……」
「? 何なの?」
「……いや、何でもない」

 おかしな人ね、そう言いたげに肩をすくめ、イネスは寝室から繋がるバスルームに姿を消した。
 ″ ごめん ″――彼はそう言おうとして、それをやめたのだった。
 部屋に入るなり、前を歩く彼女を壁に押し付け、ガウンの裾をまくり上げ、彼女の中に指を入れた。
 ″ もう、ほんとにせっかちなんだから ″――そう呆れたように笑い、その先を許した彼女。
 何故だろう。ごめん、とそう言いたくなった。彼女に対してこんな気持ちになったのは、きっとこれが初めてだろう。
 彼女に愛情と呼べるほどの感情を抱いたことはなかった。何らかの絆のような、言わば同志に対する敬愛の情のようなものは感じるが、それ以上の感情はない。
 いつだったか、暗黙のルールを破り、彼女がスキンシップを求めた日と同じように、彼の髪を優しく撫でる彼女に苛立ちを覚えた。
 もしかしたら――さっきの自分と同じように、彼女にも、今までとは違う感情が生まれることがあったのだろうか。
 2人の距離感の均衡が破られてしまえば、もう、彼女とは終わりだ。
 いや、むしろ終わりにしなければ――心の底でそんな漠然とした思いが生じるのを感じつつ、イネスに対して救いを求めている自分も嫌というほどに解っている。
 実際、彼女・シェリーを見送った後、訳の解らないもやもやとした苛立ちをイネスにぶつけたのではなかったか。
 だが、イネスを抱きながら、頭の中にはシェリーのことばかりが浮かんでいた。
 だから彼女の残像を追い払おうと夢中で動いた。その結果が「過去最高」という賛辞を得たのだとしたら、まさに皮肉でしかない。

 俺は……
 一体、何をしてるんだろう……

 ああ、まただ。時折彼の前に現れては胸を蝕む、あの虚無感。
 これ以上ない厄介な感情に支配されてしまう前に、彼はベッドから身体を起こし、散らばった服をかき集めた。
 そしてシャワーを浴びるイネスが戻って来ないうちに、彼女の部屋から姿を消した。
 そして、1階へ降りるエレヴェイタ―の中で、彼ははっきりと自分の心の声を聞いた。
 終わりにしなければ。そうわざわざ決意するまでもない。イネスとは、もう終わっているのだと。












 ミッドノース Café Dubois (カフェ・デュボア)


 その日のマンハッタンは、ぽかぽかとした陽気に誘われたように、どこもかしこもたくさんの人々で溢れかえっていた。
 観光客もたくさんいて、あちらこちらで色んな言語が飛び交い、街のいたるところで人々が写真を撮っている。
 彼の働くカフェも例外ではなかった。朝からひっきりなしに客足が押し寄せ、朝一番に仕入れたばかりのベーグル類も、昼すぎには早々に売り切れてしまう有様だった。
 その日遅番だった彼は、朝の11時からカウンターの中に入って仕事を始めていた。
 昨夜のベティとのあれこれを思い出して余韻に浸る暇もなく、そこへ入るなり、大量のラテのオーダーをこなさなければならなかった。
 その日はジェニーも仕事だったが、話をする余裕もなく、「おはよう」と互いに挨拶をしただけで仕事に追われていた。
 ジェニーは仕事中も彼の体調を案じているようで、目が合えば瞳で「大丈夫?」と訊いてくるから、彼はいつものように彼女を安心させるために、その都度、軽く笑みを返すことを繰り返している。
 ジェニーのこともベティのことも今は考えたくなかったから、この忙しさに内心救われた思いで彼は仕事に没頭した。

 そうこうしているうちに、昼の3時を過ぎた頃から少し客足が緩くなってきた。
 息つく間もないほどの慌ただしさから少しだけ解放され、スタッフ同士のお喋りも飛び交うようになっていた。
 その時を待っていたとばかりに、ジェニーがポールのもとへとやってきて、具合はどう?と心配そうな瞳を向ける。
 気にかけてくれてありがとう。でも大丈夫、もう心配いらないよ。いつものように彼が笑みを返す。
 ジェニーは心底安心した、とは言えない様子で、彼の言葉に何か言いたそうな顔を見せたが、彼がそのまま仕事を続けてしまったので、それ以上彼に声をかけることを諦めた。
 そしてしばらく経った頃、店の前の道を掃除するために外へ出たポールが、掃除の手を休め、向かいのサロンの方へと手を挙げた。
 ジェニーがそれに気付き、店の窓を拭く振りをしてじっと観察を続けていると、ベティが右手でピースマークを作り、オーケー、というジェスチャーを返した彼が店内に戻って来た。
 そしてカプチーノを2つ作り、それをベティの元へ届け、再びカフェに戻るポールの一連の動作を、気付かれないようにこっそりと観察した。



「――Hi , Paul」
「Oh , Hi」
「今日はホントにいいお天気ね。こんな日に仕事なんて嫌んなっちゃう」
「Yeah」

 数時間後、洗ったマグカップを返しにベティがカフェを訪れた。たまたまカウンターにポールがいて、ベティと軽く会話を交わしている。ジェニーはそれと気付かれないように横目でそれを観察しながら、ふたりの会話を聞き逃すまいと全神経を彼らに集中させた。
 表面上はこれと言って疑うべきことはないように見える。けれど、少し前までは確実に存在していなかった「何か」がふたりの間にゆらゆらと漂っている。
 彼が店の前で、ベティと以前のようなやりとりをしているのを見た時に、「何か良くないもの」の訪れを直感した。
 そしてその後のふたりの何気ない軽い会話の中に、ふたりの間に明らかに「今までと違う何か」が漂っていることも確信した。いわゆる「女の勘」というやつだ。
 ベティが店を出て行ったあとにも、ポールの周囲にはまだその「何か」がふわふわと漂っている。
 残念なことに、というよりも、彼女からしてみたら幸いなことに、と言ったほうがよさそうだが、彼はそういった「何か」の存在を上手に隠すスキルというものを持ち合わせていなかった。
 彼女を安心させようといつでも笑顔を向けてくれることも、彼女には時おり、それが「作られたもの」だということがちゃんと解っていた。それを知らないでいるのは彼自身だけだ。
 直感に従い、ジェニーは帰宅後、何かしらの痕跡のようなものがないかとコンピューターを開き、ベティのインスタグラムやTwitterを調べ、そして直感が正しかったことを知ることとなった。
 ベティのインスタグラムにアップロードされた数枚の写真。明らかにベティと解るボブカットの女の子や、ハートやリーフ模様のラテアートの写真だ。その中の一つの模様は彼独自のデザインで、ひと目でポールの描いたものだと解る模様だった。
 そして全ての写真に「#weekend」「#@cafe」「#paulthebestbaristainny」(ポール、NYいちのバリスタ)とハッシュタグが付けられている。
 そのうちの一枚の写真には「My first artwork.Thanks Paul ! 」とキャプションがつけられていた。












 アッパー・イースト  10:20 a.m.


 夫が息子を伴ってビル内のジムへと向かってから数分の時が経とうとしていた。
 ぽかぽかとして春めいた、とても気持ちの良い日曜日だった。
 日曜日には家政婦たちも休みになるので、今現在、家には彼女ひとりだけだ。
 厳密に言えば、ナディアがこの家に住み込んでいるのだから、彼女ひとりだけ、ということにはならないのだが、ナディアは朝から出かけていて留守だった。行先は言うまでもなく、教会だ。
 そもそも、ナディアがどこへいつ誰と出かけたのか、いつ帰宅したのか、など詮索はしないのだから、出かけていようがいまいが、「休みの日にはナディアはいない」ものと認識されている。
 キャサリンはのんびりとテラスを散策したあと、時計を見て、今日の昼食をどうするか、そのことに考えを巡らせた。
 キッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。サンドウィッチの材料くらいなら何とかなりそうだったが、久しぶりに家族揃って何か軽いものを食べに外へ出るのも悪くないかも、そう思い直して冷蔵庫を閉めた。何と言っても、家にいるのがもったいないくらいの天気なのだ。

 5分で身支度の整う男性陣2人を待たせることのないように、先にそれを済ませておくことが望ましい。
 彼女はシャワーを浴びて、バスルームから繋がったクローゼットに移動した。
 何を着て行こうかしら。ぽかぽかとした陽気だけど、案外風は冷たかったし、薄着では寒いかもしれないわね。
 そんなことを考えながら、袖を通した白いシャツの上に着るセーターを選ぼうとして、ふと、夫のカシミアのセーターを拝借してみるのはどうだろう、と思いついた。甘すぎない、少しグレイッシュな淡いピンク色をしたカシミアのセーター。彼女は夫のそのセーターがお気に入りだった。
 素肌に着るには大きすぎるが、シャツの上から着るとほどよいサイズ感になる。セーターの袖口から出したシャツをまくり上げて着崩すと、彼女は満足気に鏡の前で立ち姿をチェックした。

 その時だ。携帯電話にメッセージの届く音がクローゼットに小さく響いた。
 自分の携帯電話かと一瞬思ったが、ここには持ってきていなかったはずだとすぐに思い直した。
 クローゼット内を見回すと、昨夜夫が着ていたスーツの上着が、椅子の背にかけられたままになっているのに目が留まった。
 ハンガーに掛け直そう、とその椅子から上着を持ち上げたとき、ポケットにちょうど携帯電話ほどの重みのものが入れられたままになっているのに気付く。
 魔が差した。あとになって彼女は自分のしたことにそう言い訳をするだろう。
 恐る恐るそこへ手を入れ、取り出した携帯電話。そのディスプレイに、届いたメッセージが表示されていた。
『素敵なタイだったわ。可愛い奥様にもよろしく』――ただそれだけの短い一文。それだけで彼女は全てを覚った。それは夫の浮気相手からのもので、しかも昨夜のパーティーに顔を出していた人物なのだと。
 差出人名は『ysl 』とただそれだけだった。きっと女の名前かニックネームのイニシャルなのだろう。
 この携帯電話は夫の仕事用のもので、プライヴェートなほうはジムに持って行ったはずだ。
 仕事用の電話にメッセージを送る。それがどういう意味合いを持つのか。彼女は瞳を閉じ、混乱する頭を整理しようと努めた。
 そのメッセージを開き、相手の番号や情報を手に入れてしまいたい、そんな欲求に心がぐらぐらと揺れる。

 しばらく考えを巡らせると、彼女は意を決し、ドレッサーの引き出しからメモ用紙とペンを取り出した。
 そして夫へ届いたメッセージを開き、そこから相手の情報を引き出して、それらを紙に書き出した。
 最後に、届いたメッセージそのものを消去し、携帯電話を夫の上着のポケットに戻すと、その上着を再び椅子の背にかけて、すべてを元通りにした。

( 第31話 パートⅡへと続く )