Magnet 2 「 Sean 」







すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話に過ぎない。

――― アンデルセン ―――






2. 「Sean」 ― ショーン ― 




義理を欠く訳にいかず、渋々顔を出した気の進まないパーティー。そのクラブのトイレの壁にそう落書きがあった。
見るに耐えない、くだらない落書きだらけの中にあって、ひときわ異彩を放つその言葉につい、目を留めてしまったのだろうか。
そうかい、そりゃいいこと聞いたぜ、このくそったれ!―― 落書きに感謝の中指を立て、男は其処を後にした。
狭い廊下にはトイレの個室が空くのを待っている数組の男女がいちゃついていた。目的は明らかだ。
彼らを避けながら何とかフロアーに戻ると、今度はついさっきまで彼が陣取っていた筈のソファー席を奪った見知らぬ一組の男女が、今にも事をおっ始めそうな勢いで熱いキスを交わしている。やれやれ、と目を逸らせば、今度は向こうの壁際で、男を巡っての cat fight* が幕を開けようとしている。
どいつもこいつも繁殖期のサイクルの乱れた、年中おかまいなしに発情している動物ばかりでウンザリする。
当然、自分も含まれるのだが。
顔馴染みの女が一人、二人となく、「ねえ、またファックしようよ」としな垂れかかって来るのも鬱陶しい。
何を勘違いしたか、一度寝ただけで『Fuck buddy*』を気取り、挨拶代わりに図々しく唇を重ねてくる女などは最悪だ。彼女らが唇に残していく、 やたらとベタベタしたリップ・グロスとやらが不快感を一気に煽り、彼に毎回舌打ちをさせた。
うんざりとした顔でそれを拭い、誰が二度とお前なんかと寝るか、と心の中で悪態を吐く。
だがそんな彼自身、本来ならば彼らのように刹那の快楽に身を投じることも厭わない種類の人間だった筈だが、それがどういうわけか今夜は様子が違った。やけに苛々するし、人と話をするのも苦痛だった。ここで目にするもの、何もかもが、虚しく憐れに感じられるのだ。

時間の無駄だ――― 男はそのパーティーのホストに別れを告げるためにその姿を探した。


やっとのことでくだらないパーティーを抜け出すことに成功した男は、家までの道のりを歩くことにした。
ここソーホーからウエスト・ヴィレッジまでなら徒歩圏内だし、いい気分転換にもなるだろう。
排気ガスだらけの街の空気ですら、あのクラブに漂う澱んだ空気に比べればずっとマシだ。
彼は外気を思い切り吸い込んで、ふうーっと大きく吐き出した。
何でこんなに苛々しているのか―――自分でもその理由がさっぱり解らないことが余計に腹立たしい。
立ち消えになった仕事のせいか、お陰で渋々引き受けざるを得なかった気の乗らない新しい仕事のせいか、それとも――― あの落書きのせいか。ふっとそう思いつき、思わずふん、と鼻を鳴らした。
俺たちの人生は神が書いた童話だって? ふざけていやがる。
突然の悲劇も死も、何もかも、神がお遊びで書いた童話だって言うのか?
神が書いた童話の通りの人生と言うなら、何故、人間のほうが悔い改めなけりゃならないんだ?

……ふん、どうだっていいさ。どうせあの日以来、神なんぞこれっぽっちも信じちゃいない。
いつものように鼻を鳴らして自分にそう言い聞かせた男は、信号待ちの間何の気なしに周りを見渡し、ふっと向い側で同じように信号待ちをしている男女に何気なく目を留めた。何処かで見た女だな。そう思ったものの、彼はそれ以上思い出そうとすることをやめた。
どうせ過去に寝た女か、或いは店の常連客だった女か――つまり、どのみち、過去に寝た女だろうということだ。
信号が青に変わり、男は少しずつ近付くその女の顔をちら、と見て漸く腑に落ちた。やはり過去に寝た女だったから、では無い。
昼間、トムの店で出会った女を思い出したからだ。昼間の彼女を思わせる黒い髪とエキゾチックな風貌を振り返るようにして立ち止まり、男は一瞬考えて、来た道を再び戻り始めた。女を追いかける為ではなく、ノリータにあるトムの店に向う為だ。



閉店間際の店内に客は殆ど見当たらなかった。常連の老人が窓際で独り外を眺めながら、いつものようにスコッチを飲んでいるだけだ。
「もうお終いだよ」――ドアベルに向ってそう声を掛けた店の主は、男の顔を見て「何だ、お前か」と笑った。
「悪いな」
すまなそうに笑いながらカウンターに腰掛けると、直ぐにボンベイ・サファイア*が男の目の前に差し出された。
いつものように、切ったライムで縁をひと撫でさせたショットグラスに、冷凍庫でよく冷やされたそれを注いだだけのものだ。
礼の代わりにグラスを高く掲げ、男はライムの香りで鼻腔を満たしてからそれをひと口舐め、ふうっと大きく息を吐いた。
「今夜は決めこんでるな、ショーン。デートの帰りか?」
「ふん、下らんパーティーの帰りさ」
「何だ、珍しく女に逃げられて愚痴を吐きに寄ったのか」
ふん、と笑って鼻を鳴らし、男はジンをもうひと口飲んで、ふっとカウンターの隣の席へと視線を落とした。


今日、ここに、本当に『ミス・シェリー』が現れた。
彼女が本当に『シェリー』なのかどうか確認こそしなかったが、彼女のあの驚きようから言って間違いはないだろう。
想像していた女とはまるで違っていた。いや、本当に出会うと信じていた訳ではないのだが、『シェリー』と聞いて真っ先に浮かんだのはさっきのクラブにひしめいていたような、 彼が良く知る類の女だったのだ。
いや、そういう類の女としかここのところ関わっていないから、それ以外の種類の女が生息していたことをどうやら忘れていたらしい。
「そうだ、ショーン、昼間の餓死寸前の彼女だけど――」
ちょうど彼女のことを考えている時にトムがそう言い出したので、彼は一瞬心を読まれたのかと内心焦った。
何しろここ数日、不思議な出来事が続いていたのだから無理もない。
「―― 知り合いじゃなかったのか?帰り際、お前の名前を訊いて帰ったぜ。礼を言っといてくれ、だってさ」
「……あ、そう」
「俺の店でナンパするなよ、この女たらし。外でやれ」
「ああ? それより、今度またそんな女が現れたら J.クルーニー(ジョージ・クルーニー)*って言っとけ」
馬鹿馬鹿しい、というふうに手を振って、トムは店仕舞いの作業に戻った。
お前に説明したって信じて貰えないだろうな…そんなことを思いながら彼は再びグラスを傾けた。
俺自身、いまだに信じられないでいるんだから―――





――― " ちかいうちに君は、ミス・シェリーと出会うんだよ " ―――


あれは数日前のことだ。
幼馴染のフィリップという男に頼まれ、彼の家で平日の夕食を作るという仕事を渋々承諾した、その初めての訪問の日。
初めて使う他人の家のキッチンで、オーヴンの調子や火力のチェック、パントリー(食品庫)や調理機材の確認などを一通り済ませた頃、フィリップの息子が興味深そうにキッチンに入ってきた。「やあ」と声を掛けるショーンに、その子がいきなりそう言ったのだ。
子供の言う突拍子も無い言葉など真に受ける訳もなく、からかい半分で「へえ、そうかい。そりゃ楽しみだ。そのミス・シェリーとやらは美人かい?」―― そう冗談で聞き返した彼に、その子供は真面目な顔でこう言った。
「知らない。僕もまだ出会っていないんだ。君のほうが先かもしれないね」
変てこなガキだな―― そう怪訝な顔をする彼に向い、その子供が今度は微笑んでこう言った。
「出会ったらすぐにわかるはずだよ。彼女はとつぜん、君の前に "まい落ちる " はずだから」と―――


シェリーか……
そう言えば……ガキの頃、そんな名前の子に告白されたっけな……

「――なあ、トム」
「あぁ?」
「……いや、何でもない」
" 俺の名を尋ねた彼女は『シェリー』と名乗っていなかったか? " ―― そう訊こうとしてやめた。
気にせず仕事を続けてくれ、と仕草で伝え、ショーンは再び隣の席を見下ろした。
あの子の言う通り『シェリー』という名の女に確かにここで出会った。『シェリー』だという確証はないが。
だがそれが一体何だと言うのだ? あれが出会いだと言うのなら、毎日のように誰かと何処かで出会っている。
あのくだらないパーティーでも沢山の人間と出会ったし、あの女たちの中にシェリーという名がいたかもしれないじゃないか。
変てこなガキの言うお遊びに振り回されただけか。
馬鹿馬鹿しい、とばかりに鼻を鳴らし、残りのジンをくい、と飲み干した時に携帯電話にテキストが届いた。
イネスからだ。
" 今夜、どう? " ――― いつもどおりの、たったそれだけの文面。
今夜はこのまま帰ってゆっくり寝ようと思っていたのだが――


「――― 行くよ、トム」
「何だ?来たばっかりじゃないか」
彼が携帯電話をポケットに仕舞うのを見て、トムがニヤリ、と片目を瞑った。
「ブーティー・コール*か。God damn it ! *(ちきしょう!)さっさと出てけ、この lover boy ! (色男)」
友人の悪態に笑って大目の金を置き、ショーンは窓際の老人にいつものように瞳で挨拶をしてトムの店を後にした。







「――― どうしたの、お洒落しちゃって。もしかしてデートだった?」
開かれたドアの向こうに立つ女が、からかいを含んだ声で彼を出迎える。いつものように挨拶のキスも無し、ハグも無し。
だがそれは彼らふたりの間では『礼儀』であり、また相手に対する『敬意』の表れでもあった。
「それなら来ないよ」
「どうかしら。振られた腹いせに寄ったかもしれないじゃない?」
ふん、と鼻を鳴らして女の後に続く。
シャワーを浴びたばかりなのだろう。好ましい残り香がさっきまでの苛々とした気持ちを和らげるようだった。
料理など殆どしない女には不相応な、立派すぎるキッチン。そこを通り過ぎる度に軽いジェラシーのような気持ちを覚える。だからといって彼好みのキッチンという訳では決してないのだが。
彼はジャケットを脱いで適当にソファの上に投げ、外した腕時計を壁際のコンソール・テーブルの上に置いた。
どうぞ、と言う声に振り返ると、差し出されたグラスには赤い液体が注がれている。それを目にした瞬間昼間の出来事が甦り、シェリー……かどうかは解らないが、「美味しい」と笑った彼女の顔がふっと浮かんだ。
何故か心がざわつくのを感じ、それを払拭するように、彼は目の前の女へと視線を戻す。
深紅のシルクのローブから覗く豊満な胸元、十分に手入れの行き届いた素肌から漂う妖艶な香り。慣れ親しんだそれを目にし、どことなくホッとしたような思いで彼は言葉を返した。
「あんたこそ。土曜の夜に俺を呼び出すなんて。さては男に逃げられた?」
「ふふ」
軽くグラスをぶつけ合い、互いににやりと笑ってそれを味わう。いいワインだ、そう言おうとすると、先に女が言葉を発した。
「言っておくけど、逃げられたんじゃないわよ。棄てて来たの」
「?」
「だって今日の坊や、可愛いばっかりで全然満足させてくれないんだもの」
ヒュー、と口笛を吹く彼に向い、女がにまり、と笑う。
「それであんたに会いたくなった、ってわけ。 いいえ、最初からあんたを誘うべきだったわ」
「……そう。それは光栄だね」――― そう薄く笑って、彼は赤い液体を再び舌の上に流し込んだ。

さっきのボンベイ・サファイアが今頃になって効いてきたのだろうか。急に視界がぐらぐらと回り始めた。
どういうわけか、目の前に居た筈の女は消え失せ、そこには昼間の彼女が立っている。
いつここにミス・シェリーが? ……ああ、俺は一体何を?
「――でも土曜日だし、まさかこんなに直ぐ来るとは思わなかったわ――そうだ、お腹空いてる?」
振り返ろうとした女を後ろから抱き締め、男は白い首筋に唇を這わせ始めた。
「ああ、飢えてる」
「もう、相変わらずせっかちね」
女の手からグラスを奪い、ひと口その赤い酒を含んだ男が、口移しにそれを女の唇へ注ぎ入れる。
「んん……ふふ」
芳醇な味のキスを交わしながら、グラスの中の液体と同じ色に塗られた指先が、男のシャツのボタンを慣れた手つきで外していった。