Magnet 28 「 The truth is out there 」












28. 「The truth is out there」 ― 真実は『心の』そこにある ― 





 ミッドタウン・ノース  0:10 a.m.

 鍵穴に鍵を挿し込み、暗証番号を入力する彼から視線を外し、きょろきょろとあたりを伺う。
 まるで映画の中でのコソ泥の押し入りシーンみたいで、その思いつきは彼女の気持ちを高揚させた。

「どうぞ」
「Thanks」

 非常灯のみの店内は暗く、ひんやりとして寒々しかった。すぐにポールが上着を脱いでカウンターの中に入り、コーヒーマシーンのスウィッチを入れた。
 ガラスのケーキドームに閉じ込められた、売れ残りのドーナッツやブラウニーたちが、小さなスポットライトに照らされる。
 その目の前にある、ほんの数席しかないカウンター席に座り、ベティは再びきょろきょろと店内を見渡した。

「何だか新鮮ね。知らない店にいるみたい」

 ベティの言葉に、そうだね、と笑みを返しながら、彼がコーヒー豆をグラインダーにセットすると、ガガガガ……と大きな音が暗い店内に響き渡った。
 ばたん、ことん、ガチャガチャ、プシュー、こぽこぽ……。昼間は何ひとつ気にも留めないそれらの音のひとつひとつが、暗く静かな店内で、まるで意志を持って語りかけてくるように感じられる。
 それだけではない。毎日のように目にしている彼の所作が、静かな暗がりの中ではまるで厳かな儀式のように見えて、彼女は丸めていた背中をついついしゃきっと真っ直ぐに戻すのだった。



 バーからの帰り道。ミシェルと別れて、何となくそのまま歩き続けていた彼女は、無性にコーヒーが飲みたくなった。
 もうコーヒーを口にすべき時間ではない、それはもちろん彼女にも解ってはいる。だが彼女は苛々したり悩んだりした時に、コーヒーを飲む習慣があった。
 もちろん、何もなくとも毎日飲んではいるが、何か思い悩む時、心がざわつく時には、ことさらにコーヒーの香りが欲しくなるのだ。
 近場のカフェに飛び込もうか、それとも家に帰ってからゆっくり飲もうか。
 そう考えて、ああ、今日は忙しくてポールのカプチーノが飲めなかったんだった、そう思い出した時。
 偶然目の前で、キャブを見送るポールの姿を発見したのだ。
 今すごくコーヒーが飲みたくなっちゃって、そしたら今日あんたのカプチーノ飲みそびれちゃったなあって、今まさにそう思ってたところよ。
 偶然に驚きながらもそう笑うベティに、じゃあ今から行こう、そう言って、ポールが夜中の仕事場に、こっそりベティを入れてくれたのだった。


「ごめんね、わがまま言ったみたいで」
「いや、いいんだ。僕が勝手にしたことだし」
「でも何だかわくわくする!」
「僕も。夜中に店に忍び込むなんてさ」
「んー! いい匂いがしてきた」

 少量のエスプレッソが入ったカップをくるくる廻し、そこへ数回に分けて彼がスチームミルクを注ぎ入れる。
 何やらピックのようなものをちょこちょこ、ちょこちょこ、と動かして、お待たせ、と言って彼がベティの前にカップを置いた。

「Wow ! これって……」

 ……あたし?

「ごめん、あまり美人に描けなかったけど」

 そう言ってポールが肩をすくめた。
 カップには、ボブカットの女の子のラテアート。デフォルメされてはいたが、猫みたいな眼にピンとあげたまつ毛や、口の上の小さなほくろまで描いてあって、ひとめで自分の顔だと解った。

「すごーい! こんな絵もコーヒーの上に描けちゃうの?」
「描こうと思えば色々描けるよ。普段はこんなふうに道具を使って凝ったものは描かないけど」
「へえー」

 感心しながら嬉しそうにiPhoneでそれを撮影し、自分の顔をずずっとひと口飲んで、彼女が「ああ」と声をあげた。

「これよ、これこれ。やっぱあんたのカプチーノが一番美味しいよ」
「そんなことないよ」
「いやいや、マジだって。言っとくけどあたし、NYいちのカプチーノ好きなんだからね。そのあたしがNYいち美味しいって言うんだもの、間違いないわよ」
「……Oh」
「絶対よ。保証する」
「……ありがとう、ベティ」
「ふふ」

 ああ、美味しい、と言いながら自分の淹れたカプチーノを飲むベティ。
 不思議だ。さっきジェニーが自分を褒めて持ち上げてくれた時には、あんなに居心地が悪いと感じたのに、ベティの褒め言葉は、とてもくすぐったいけど、心の底から素直に嬉しかった。

「あんたは? 飲まないの?」
「え?」
「ねえ、あたしでも出来る? ラテアート」
「もちろん! 簡単なやつを教えるよ」
「やった!」

 うきうきとした様子でベティがカウンターの中に入る。ポールがコーヒーを入れたりスチームミルクを作ったりするのをすぐ隣で面白そうに眺め、そして彼の説明を受けながら基本のハートを描いた。

「すごい! 描けた!」
「これはもう少し上級編。こうするとレイヤーのハートになるんだ」

 ポールがスチームミルクの入ったピッチャーを小刻みに揺らしながら注ぐと、たまねぎの断面みたいな、いくつもラインの入った、少し豪華なハートが現れた。

「Wow !」
「やってみるかい?」

 ラボで実験するみたいに、いくつかのラテアートを試したあと、2人は作業台にもたれるように並んでそれらを飲んでいる。

「あー、もうお腹たぷたぷになっちゃいそ」
「僕も」

 iPhoneで撮影したいくつものラテアートの写真を一緒に見ながら、出来についてあれこれ話したり、ベティのネイルアートの写真を載せた彼女のインスタグラムの写真を見たりして、いつしかすっかり話し込んでいた。
 そう言えば、とベティはあることに気が付いていた。ポールっていつも何だかおどおどとして口ごもってばかりいるのに、今夜の彼はどこか堂々としていて、いつもより自信に満ち溢れているように見える。
 それってもしかして……彼女のおかげ?
 ふっと笑って、ベティがポールに悪戯っぽい目を向けた。

「こんなとこ彼女に見つかったら……あたし、きっと殺されちゃうね」
「え」
「見たよ。ジェニーとキスしてたとこ」
「……Oh……」
「やっぱり付き合ってたんだ!」
「……まだ始まったばかりだけどね」
「そうなんだ。ふふっ、じゃあ今が一番楽しい時期ね」
「そう……なのかなぁ」
「そりゃそうよ。何を見ても、何をしてても……ううん、何もしてなくても、一緒にいるだけでただただ幸せで……」

 まるで自分に言い聞かせるように呟くと、ベティは小さくため息を吐いた。

「いいなあ……羨ましい。あたしにもそんな幸せ、また来るかなぁ」
「? 今……幸せじゃないの? ベティ」
「……うーん……どうだろう……まあ、おバカな浮気男とやっと別れられた、って意味では幸せよね」
「!」
「ちょっと待って、そう考えると自分がすごく幸せに思えてきた」
「……じゃあ……今は……ミシェルと…?」
「――ぶっっ!」

 ポールの言葉にベティがコーヒーを噴出しかけた。

「やだ! 彼ゲイよ? 知ってるでしょ? ルームシェアしてるだけよ……っていうか、勝手に押しかけて部屋借りただけなんだけどさ」
「あ……そうなんだ」
「当たり前じゃない!――あ! そう言えば聞きたかったんだけど!」
「?」
「あんたがミシェルを好きだとか何とか、あれはでたらめだから信じないで、ってあれ、一体何だったの?」
「あー……」

 ことの顛末を聞いてベティがまた吹き出し、ポールもつられて他人事のように笑った。

「確かにミシェルは男にも女にもよくモテるし、あんたも魔が差しちゃっても不思議はないわね」
「だから違うんだって!」
「Oh! ミシェルは今フリーよ、アタックしてみたら?」
「もう……君まで。からかわないでよ、ベティ」
「ごめんごめん」

 笑いながらベティが軽くぺちぺちと叩くように手のひらを彼の頬に置いた。
 その瞬間。笑みを消し去ったポールがベティの瞳を見つめ返し、ふたりの間を沈黙が行き来した。
 ベティは固まったように彼の頬から手のひらを離せないでいる。
 その時、彼の携帯電話がメッセージの届いたことを知らせ、その音に弾かれたようにさっとふたりが身体を離した。

「Oh……Umm……そろそろ帰ろうかな」
「うん」
「片付ける?」
「ああ、いいよ。僕がやっておく」
「OK……じゃあ……またね」
「おやすみ、ベティ」

 ありがとうポール、と帰る彼女を見送り、カフェの後片付けをして、彼も帰途についた。



 ヴェスパを走らせている間中も、信号待ちをしている間も、ずっと彼女の笑顔が浮かんで消えないでいる。
 胸の辺りがちくちくするのはきっと、こんな時間に彼女と飲み過ぎたコーヒーのせいだ。
 諦めなくちゃ。何度も自分にそう言い聞かせて、ジェニーといることを選んだのに。
 それなのに、僕は……


 アパートメントに辿り着くと、「アーサー、アーサー」と言いながら暗がりの中をうろうろと歩き回る人影が目に入った。ミセス・バレットだ。
 彼は慌ててミセス・バレットに駆け寄り、肩を抱くようにしてゆっくりと階段を上り、彼女を部屋まで送り届けた。
 それから階段を上って自室に戻り、上着を脱いでベッドにばたんと寝転がり、ふーっと息を吐いた。
 何だかえらく疲れた一日だった気がする。いや、くたくたに疲れていたはずだった。ベティとばったり出会うまでは。
 あれは夢の中の出来事だったんじゃないだろうか。そう思えて仕方なかった。ベティとあんなふうに、ふたりきりで時を過ごしたなんて。
 タイムマシンで過去に戻り、以前の自分に話したらさぞかしびっくりすることだろう。ベティと過ごした時間はまるで、神様から突然贈られたプレゼントのようだった。
 最後に彼女が手のひらを置いた頬に、そっと自分の手のひらを押し当ててみる。
 猫みたいな彼女のグリーンの瞳、ねえポール、と呼びかけてくれる彼女の声、甘いピンク色に染められた彼女の指先、横に並んだ時にふわっと包まれた彼女の甘い香り。そして、美味しい、と言ってくれた時の彼女の笑顔。
 彼は、今夜、それらを初めて独り占めすることが出来たのだと知り、そして恍惚とした。

 ……ベティ……

 何てことだろう。
 今さらながら、自分の本当の想いに気付かされてしまった。
 それに気付かない振りをして、ジェニーと何とかやっていこうと思っていたけれど、やはり自分の心に嘘はつけない。

 だけど……

 小さくため息を吐き、ポケットに入れたままにしていた携帯電話を取り出してみる。
 案の定、ジェニーからいくつかのテキストが届いている。さっき、ベティと居る時に鳴ったのはやはり、ジェニーからのものだったのだ。
 彼の具合を心配するもので、決して返事を催促するものではなかったが、彼女はきっと、何度も携帯電話を手にして、彼からの返事の有無をチェックしているに違いない、そう容易に想像できた。
 ベティのことを考える時の、ちくん、とした甘い痛みとは違う種類の痛み。

 僕は一体、どうしたらいいんだろう。
 ……いや。
 僕は本当のところ、どうしたいんだろう。

 今頃になって、一日の疲れがどっと押し寄せて来たように感じる。
 本当は解りきっていた。心の底では、答えが出ているのだ。
 けれど、今夜はもう考えることはしたくない。
 今はただ、すでに思い出になり始めている、ベティと過ごした時間の余韻の中に身を置いていたい。
 彼はそれ以上何も視界に入らないよう、腕を瞼に乗せるようにして、瞳を強制的に閉じた。









 ミッドタウン   0:00 a.m.


 扉の向こうでくぐもったように小さく聞こえていた音楽が、重厚な扉を開くと同時に、大きな音のシャワーとなって彼の身体に降り注ぐ。
 きょろきょろと人々を見渡すまでもなく、彼の視線はすぐに、ある一点に注がれた。店の中は薄暗いというのに、男のいるその場所だけが、まるでスポットライトを照らされたように見えたからだ。
 或いはその男が醸し出す雰囲気が、周りの空気を違う色に染め上げていたのかもしれない。
 いずれにしろ、彼にはその男しか目に入らなかったから、途中、酒を運ぶウェイトレスと軽くぶつかってしまい、危うく彼女がトレイに乗せたグラスを倒してしまうところだった。

「君から電話をもらえるなんて。思ってもみなかった」
「嘘をつけ。わざと忘れ物をしていったくせに」
「ふふ」

 上着の胸ポケットから男が取り出した、小さな手帳のようなケース。ミシェルの通勤用の地下鉄の定期カードや、職場のIDカードなどが数枚入れられているものだ。

「住まいはチェルシーか」
「Ooh , 勝手に中を見たね」
「俺の物じゃないものが床に落ちてた。中身を確認するのは当然だ」
「それで……僕に会いたくなったってわけだ」

 さあな、とつれない言葉を返し、その時通りがかったウェイターに、男がミシェルの分の酒を注文した。

「早く仕舞えよ。それがなきゃ困るだろう。だから電話した、それだけだ」
「ふふ、相変わらず強情だね」

 くつくつと愉しそうに笑い、男がグラスの酒を口に含む。
 人目さえなければ、男の唇から、それを口移しで飲ませて、と懇願するのに。
 或いは、彼の唇を自分から奪い、彼の唇とその酒の香りを思い切り味わい尽くすのに。
 どうやら、昨夜火がついてしまった心と身体の熱を、まだ宥(なだ)めきれずにいるようだ。

「それで? 僕に関することで新たに知ったこと、あった?」
「……」
「ないの!? 何かあるでしょ?」
「……意外と写真映りが悪い」
「何それ!」

 再びくつくつと喉を鳴らして、男が愉しそうに笑う。


 ふと、男がちらちらとカウンターに何度か目線を向けるのに気付き、その視線を追った。

「やめろ」
「?」
「俺の目線を追うな」
「!? ……ごめん」

 ウェイターがミシェルの酒をテーブルに置いて立ち去るのを見送ると、男は、もう一度ちらり、とカウンターの方へ目配せをして、ミシェルのほうへとそのまま視線を移した。

「……悪いが仕事だ。もう行かなきゃならない」
「!」
「酒は俺のおごりだ、ゆっくりしていくといい」
「待って!」
「?」
「また会えるよね?」

 男を見上げるミシェルの、琥珀色の揺れる瞳。それを見つめ返し、男は仕方ない、という顔で軽く肩をすくめた。

「……来る前に電話すること。いいな?」

 瞳を見開いたまま、こくん、と頷くミシェルを残し、男はその店を出て行った。