Magnet 1 「 Lamka 」







すべての不幸は未来への踏み台にすぎない

――― ヘンリー・D・ソロー ―――






1. 「Lamka」 ― ラムカ ― 




彼女がそれを目にしたのは、ベンチに誰かが置き忘れた(或いは置き去りにした)新聞を何気なく手に取った、その紙面の隅っこだった。
『世界の名言 ― 今日の言葉 ―』――見出しにはそう書かれてある。
一見非常に前向きで、確かに勇気を与えてくれそうな言葉ではある。
だが今の彼女には何も書かれていない白紙をざっと眺めただけに等しい。つまり、心に何も響いて来ない。何も入って行かない。
強いて言えば、アルファベット自体は目に飛び込んで来るのだが、文章としてではなく、ただの記号のようなものにしか見えていなかった。
つまり彼女は今、心ここに在らずな状態なのだ。

新聞から目を上げて、少し周りを見渡してみる。向かいのベンチで編み物をしながらお喋りをしている老婦人が二人。それから近くのベンチで同じように新聞を手にしながら熱心に何かを書き込んでいる、40代後半くらいの男。本を読んでいる人もあれば、お喋りに興じている人もいる。そう、皆、" 何か" をしている。
再び前を向いて、コートの前をきちんと合わせ、マフラーを巻き直し、そして彼女はふっとこう思う。

で、どうして私、こんなところで座りこけてるんだっけ?

まるで路線を間違えたバス停のベンチに座り、間違いに気付かず一時間も二時間もバスを待ち続けながら、いつしかそのバス停に居る理由も、そこへ来た目的すらも見失ってしまったような、そんな気分だった。
それは現実からの逃避ではなく、彼女は今、本当に混乱していた。
いけない、私ったら!仕事に戻らなきゃ―――次の瞬間、うっかりそう思いついて急激に目の前が真っ暗になり、彼女は上体を伏せるようにして膝の上で頭を抱えた。
戻るべき仕事などもう失ってしまったというのに。そう、ほんの二時間ほど前に。
底の無い沼にぶくぶくぶく……と沈んでいくような感覚が彼女を襲った。苦しい。息が出来ない。二度と生きて這い上がることなんか出来そうにない。
助けて!レイ!――― 何故よりによってその名前を呼んでしまったのだろう。
その理由はいずれ知ることになるのだが、とにかく今この時、彼女は絶望し、混乱を極めていた。



「――どうしたの?」
「――?」

突然の子供の声に彼女は現実に引き戻された。
顔を上げると、目の前に心配そうな顔をした4、5歳くらいの小さい男の子がボールを胸に抱いて立っている。
「あたまがいたいの?」
「あ……」
「それともおなかがいたいの?」
「……いいえ、そうじゃないの」
「でも、泣いているよ?」
「Oh」

慌てて濡れた頬を拭うと、少年は自分の胸に手を当てて、心配そうに彼女の顔を再び覗き込んだ。
「ここがいたかったんだね?」
「……心配してくれてありがとう。えっと――」
「―― レイモンドだよ。ママは僕をレイって呼ぶんだ。だからさっき、ママが僕をよんだのかとおもっちゃった」
「!?」

レイ―― 彼女は確かにその名を呼んだ。しかし決して声に出して呼んだのでは無い。心の中で叫んだのだ。
「助けて、レイ!」と―――

「聞こえたの!? レイって!?」
さらさらのダークブラウンの髪を揺らし、少年がこくん、と頷く。
「ママはおしごとだからここにいるはずがないんだ。だから変だな、っておもったんだけど、きみだったんだね」
「ね、本当にレイって、そう聞こえたの?」
「うん。どうやらやっと…… " そのとき " がきたみたいだね、シェリー」
「―――!?」
驚きの余り言葉を失い唖然とする彼女に向かい、少年はにっこり微笑んで片手を差し出した。
「はじめまして、シェリー。やっときみに会えた」
「ど、どうして……」
「ああ、気にしないで。これは " バディ " のせいだから。それから、悲しまなくてもだいじょうぶ。
そのうちきみにはいいことがあるから、だから泣かないでって」
「あ、あの―――」
「―――坊ちゃま」
「ああ、今行くよ、ミスター・アンダーソン! じゃあまたね、シェリー」―――








向かい側に位置する受付係のモニカが(詮索好き、別名『スピーカー』)興味津々な様子で何度もこちらをちらちらと見ている。それを『何見てんのよ』といつもの顔でやり返し、ベティはグリーンの瞳をこちらに戻して眉をひそめた。
「なあに?その子。何だか薄気味悪いよ」
「それは言いすぎだよ、ベティ。でも不思議な能力を持った子供には間違いなさそうだね」
最近髪を大きなアフロからツイストヘアに変えたばかりのミシェルが、椅子のキャスターをくるくるとせわしなく動かしながら興味深そうな顔を見せている。
「そう思うでしょ?ミシェル。私の名前を知っていたのよ?それも『シェリー』の名を」
「幼稚園の子じゃないの?以前の園児だとか」
「いいえ、初めて会った子よ。何だか見たこともないような……とても不思議な瞳の子供だった」
「虹色とか?」
「まさか!綺麗なヘイゼルの瞳*だったわ。確かに猫みたいに環境で変わる瞳の色よね?そういう意味では虹色と言えなくもないけど……でも、なんて言うか……そんなんじゃなくて何もかもを見透かしているような、とにかくとても不思議な瞳だったの。上手く言えないけど」
「あんな奴の名前なんか呼ぶからよ、ラムカ。あんたを騙して挙句、仕事まで失わせたんだからね。ほんと、最低の男!」
「ベティ」
「何よ、ホントのことじゃない」
「―――ミシェル、ご指名だよ」
「ああ、今行くよ。―――じゃ、仕事に戻るけど……ハニー、元気出して。またあとで電話するよ」

艶のある薄いブラウン・スキンの美しい青年に素っ気なく手を振り、ベティは頭を抱える目の前の親友に溜息を吐いた。
「もう、最悪だわ。失業だけじゃない、どうしてこうも男運がないの?私」
「それについては悪いけど、頷かざるを得ないわね。まあ、あたしも人の事言えないけどさ」
「……はぁ……」

大きく溜息を吐いたラムカが首をうな垂れたその時、一人の薄茶色の癖毛を持つ青年が、トレイにコーヒーを載せて店内に入って来た。
「ごめん、遅くなって」
「Hi , ポール」
「? どうかしたのかい?ラムカ」
「大丈夫、彼女にとって人生で何度目かのどん底、ってなだけ」
「本当かい!?大丈夫?ラムカ」
「……」
「ラムカ?」
「……え? Oh , Hi ポール、いつからそこに?」
ポールと呼ばれた青年とベティは思わず肩をすくめ合った。

「……あの、どん底の時くらいおごってあげたいんだけど、その……」
「解ってるわよ、あんたを失業させる気はないわ。こんな美味しいカプチーノ、NY中どこ探したって飲めやしないもの」
「サンクス、ベティ。じゃ、行くけど……ラムカ、元気出して。また店にもおいでよ」

彼女はゆっくりと届けられたカプチーノへと視線を落としてみた。よりによって今日はハートマーク?ポールお得意のラテアートもこの日ばかりは恨めしく映る。その憎たらしいハートをずず、と啜って消すように飲みながら、彼女はこっそりと胸の中でポールの馬鹿、と悪態を吐いた。彼には何の責任も無いというのに。
ごめんね、ポール、こんなに美味しいカプチーノを届けてくれたのに。私こそ最低だわ。
ひょこひょこと片足を軽く引きずりながら通りを渡り、向かいのカフェへと戻っていくポールの後姿を窓から眺め、いつも優しい彼に対して八つ当たりしてしまった自分自身に嫌気が差した。

「どうする?気分転換に爪、塗ってあげようか?」
「……ううん、いい。失業したんだもん、そんなお金、無いし」
「いいよ、お金なんて」
「そんなわけにいかないわよ。それにもうじき予約の時間でしょ」
「え?もうそんな時間!?」


ベティとミシェルの仕事場であるサロンを出た彼女は、道を南下し地下鉄の駅へと向った。
グランド・セントラル駅まで来たものの、何となく電車に乗る気になれず、駅をそのまま通り過ぎ歩き続けた。
ニューヨーカーはとにかくよく歩くが、流石にここミッドタウン・ノースからブルックリンのアパートメントまで歩いたことはない。
一体どれくらいの時間と労力が必要なのかと想像してみたが、直ぐにそれをやめた。何しろ今の彼女には、幸か不幸か、時間だけはたっぷりとある。たとえ3日、いや、10日かかったとしても仕事に穴を開ける心配などしなくてもいいのだ。疲れ果てて死んだように眠っても、明日の朝もその次の朝も、好きなだけ寝ていても何の問題もない。
そうよ、悪いことばかりじゃないわ――そう無理やり自分に言い聞かせ、その無理やりさ加減にまた泣きたくなった。

今朝目覚めた時は……素敵な朝だと思ったのに―――

既に何度も何度も吐いた溜息をまたも吐き出し、彼女はひたすら歩き続ける。
何故突然こんなことに? ――解っている。私はルールを破ったのだと。
「由緒あるセント・ジョン幼稚園の教諭に相応しくない行いをした」―― 一方的にそう言われ、そして抹殺されたのだ。
園児の親と恋愛をしてはいけない―― ルールブックに載せるまでもない当たり前の常識を破ったと責められて。
でもブランドンは2年前に卒園した子なのだからもう園児ではないし、父親であるレイとデートをするようになったのもつい最近のことだ。
そしてその父親であるレイは独身だったのだ。―― 実際はまだ離婚が成立しておらず、結局は彼に騙された形になったのだけど――

彼を愛していたのか、と問われればイエスとは決して言えない。誘われて何となく始まった関係だったし、本気で愛し合う関係に発展する、そのずっとずっと手前で終わった。つまり彼にとってはただの火遊び……そう、ただそれだけ。
だから悲しくなんかない。あんな大嘘つきの男、二度と顔も見たくない。
でも、彼の子供も他の園児達のことも、心から愛していたのに。

――!

もうあの子達に会えないの?

彼女はハッとして通りで突然立ち止まった。そのお陰で後ろを歩いていた男が彼女にぶつかり、チッと舌打ちをして彼女を追い越して行く。
仕事を失った。男を失った。でもそれ以上に彼女の心を打ちのめしたのは愛するあの子達にもう会えない、その事実だった。途端にまた目の前が真っ暗になり、息苦しさが彼女を襲った。
でもこんなところで立ち止まってなんかいられない、しっかりしなきゃ。
何とか気持ちを奮い立たせて顔を上げた、その目の前に、そのカフェがあった。
何故そうしたのかは解らない。どうしてだか、その店に呼ばれたような気がしたのだ。いや、入らなければならないとさえ感じる。
気付けば彼女はふらふらと引き寄せられるようにしてその店の扉を開いていた。



ざっと見回した小さな店内のテーブル席は全て埋まっていた。雑然とした空気に一気に眩暈が加速したように感じる。
彼女は何とか辿り着いたカウンター席にどさっと倒れ込んだ。
「おっと!」――勢い余ってカウンター・スツールから転げ落ちそうになる彼女にすっと伸ばされた腕。隣の席に座る男だ。
「大丈夫かい?」
その男の声が直ぐ傍で耳に入った。大丈夫?と声を掛けてくれたのは今日これで何人目かしら。
「……せて……」
「何だって?」
「……にか……食べさせて…」
「!?」
「……」
再びカウンターにどさっと伏せたまま動かない彼女を訝しげに見つめていた男は、やれやれ、といった顔で彼女から視線を上げ、カウンターの中へと向き直った。
「Yo Tom , こちらのお嬢さん、餓死する寸前みたいだけど。急いで何か作ってやったら」
「そりゃ大変だ。待ってな、お嬢さん」

彼女は自分で自分の口から吐いて出た言葉に驚いていた。そう言えばお昼も食べずに歩き続けていたんだった。
口にしたものと言えばポールの淹れてくれたカプチーノだけ。セントラル・パークからベティのサロンまで20分以上歩き、サロンからここまではその倍以上歩いている。
オープンキッチンから漂う美味しそうな匂いに漸く彼女は空腹で目が回りそうだったのだと知った。いい匂いに誘われるように顔を上げると、隣で身体を支えてくれたその男と目が合った。
「大丈夫?」
再び訝しげに大丈夫?と声をかけられ、途端に気恥ずかしくなってラムカは俯いた。
「……ええ。助かったわ。ありがとう」
「飲むかい?きっと落ち着く」
男は返事をする代わりのように、手にしていたワイングラスをすっと滑らせるように彼女の目の前に差し出した。
怪訝な顔をする彼女にその男は、いいから飲んで、と再びそれを促す仕種を見せた。
昼間からワインなんて、そう思いながらも、何故だかその男には抗えないものを感じる。気付けば彼女は勧められるままにそのグラスを手にし、赤い液体を口に含んでいた。
グラスの縁から鼻に抜ける、少しつんとしたアルコール臭を含む芳香と、飲み込んだ後からふわっと口内と鼻腔に広がる、格段に深くて好ましい芳醇な香り。
「美味しい!」
思わず彼女は相好を崩して隣の男を見上げた。そのたったひと口が身体中に沁み渡るような気さえする。
口許を手で覆うようにしてカウンターに肩肘を付き、その様子を見守っていた男が満足そうに、そうだろ?、という表情を見せた。
もっと飲んで、という仕種をした後で、男は突然、はっと何かを思い出したように唖然とした顔で、ゆっくりと彼女の顔を見つめ返した。
「なに?」
「……まさか……な」
「?」
ふっと笑って小さく首を横に振る男に向い、今度は彼女が訝しげな視線を向けた。
男は立ち上がると、ジーンズのポケットから紙幣を出してカウンターの上に置いた。
「ゆっくりしていくといい、『シェリー』」
「!?」
「じゃ。 ――― トム、またな」
「もう行くのか?ショーン」
ゆっくりしていけよ―― そう言いたげな顔で見送るトムに片手を上げ、男は、驚いた顔で瞳を見開いたままのラムカを振り返りながら店の扉を押して出て行った。