Magnet 17 「 Night of the fallen angels 」










17. 「Night of the fallen angels」 ― 堕天使たちの夜 ― 






   ごめんなさい、ショーン。


   出て行ってくれ。


   お願い、話を聞いて。


   いいから出て行け!




「―― ! 」

 びくん、と脚が揺れて目が覚めた。辺りはトンネルの中のように真っ暗だ。一瞬自分がどこに居るのかも理解出来ず、早朝なのか翌日の夜なのか、時間の感覚もない。
 いつの間に眠ってしまったのだろう。ゆっくりとソファーに起き上がり、スタンドの紐を引いて灯りを点すと、その刺激で額の辺りにずきん、と軽い痛みが走り抜けた。
 暫く額に手を当てたままでそれをやり過ごし、ゆっくりと時計に視線を向ける。彼の街は丁度、夜の9時を迎えたばかりのようだ。
 彼はゆっくりと立ち上がってバスルームに行き、それから冷蔵庫を開けてビールを手に取った。
 暫く考えた後でそれを冷蔵庫に戻し、フリーザーから淡いブルーの四角いボトルを取り出すと、ロックグラスにほんの少量注ぎ入れ、天井を見上げるようにしてそれを一気に喉に流し込んだ。
 ふーっと息を吐いてそれが臓腑に沁みる感覚を味わい、再び少量グラスに注ぎ入れて同じように天井を仰ぐ。
 椅子に腰掛けることもしないでそれを2、3度繰り返してから、漸くダイニング・チェアーに腰を落とし、今度は先程よりも多めにそれをグラスに注ぎ入れた。
 何で今更「彼女」の夢なんか――テーブルの上に両肘をつき、頭を抱え込むようにして髪をかき上げる。
 ああ、本当に今日の俺は、何かがどうかしちまってる。そう思いながら顔を上げると、テーブルに置かれたバイクの鍵が目に留まった。それを目にした瞬間、数時間前の記憶が蘇る。

 バイクを降りた時、彼女は腰を抜かしたようにへたへたと道路に崩れ、二度と乗らないわよ!そう最後まで憎まれ口を叩いていたっけ。ぎゅうっと何度もしがみ付いてきたくせに。
 その時の彼女を思い出すと、知らず知らずのうちに笑みが零れてくる。
 だが直ぐにそれを消し去り、彼はああ、とまた頭を抱えて髪をかき上げた。
 どうして昼間、あんなにむきになってしまったんだろう。あれじゃまるでガキの喧嘩だ。


"  膝の上に寝る相手なんていくらでもいるくせに " ――ああ言われて、何故不快な気持ちになったんだろう。
 いつもなら冗談のひとつでも言って軽くやり過ごすはずなのに、そう出来なかった。
 この俺が冗談も返せずにむきになるなんて一体どういうことだ。全く訳が解らない。
 何しろ、あんなふうに向ってくる女は初めてだ。声を掛ければ予想外の反応を返してくるし、笑みを向ければ警戒したような表情を返す。メアリーみたいに適当にあしらうことが出来ない。鍵を掛けて仕舞い込んだ素の自分を、気付かぬうちに勝手に引き出されているような感じがする。
 彼はグラスの中のジンをまたひと口、舐めるように飲み、ふうと息を吐き出した。
 空腹で目が廻りそうだったが、何となく食欲もない。冷蔵庫にはドリンクしか入っていないし、自分のために料理をするなどまっぴらごめんだ。寝てしまうには早すぎるし、第一、夕方から眠っていたのだから眠れる訳がない。
 一瞬、イネスの顔が浮かんだが、彼女とは昨夜抱き合ったばかりだ。自分から彼女に連絡したことはないし、そもそも、2日続けて彼女とそんなことをする気にはなれなかった。

 気付けばフリーザーから出していたジンのボトルが汗をかき始めていた。つう、と滴が幾つかの筋を描いて流れ落ち、テーブルの上に小さな水溜りを作っている。
 ボンベイ・サファイアか――今じゃその都市は確か『ムンバイ』と呼ばれているんだっけ。
 『ボンベイ』のままでいてくれたらよかったのに、と彼は思う。そちらのほうが好みだし、何より、響きが美しい。
 他所の国の都市名についての勝手な言い分を、無責任にもあれこれ思い描くことに暫し時間を費やした。
 彼女・シェリーの中に半分流れているという国の都市。……ああ、またかよ。結局はまた彼女のことに考えが戻るのに彼は苦笑した。

 彼はそうやって、ぼうっと過ごしながら、グラスの中のジンをゆっくりと体の中に流し込み、ほろ酔い気分で再び上着を引っ掛けると、夜の喧騒に逃げ込むためにドアを開けた。










 ウエスト・ヴィレッジ  10:15 p.m. 

 「彼」を探して数軒の店<Bar>を巡った。通りで誰かに尋ねればことは簡単だったが、流石に夜のクリストファー通りの、「あの場所」に立ちたくは無い。
 幾らだい? ベイビー。  「売り」はやってない。人を捜してるだけ。  Fuck off !(失せろ!) 紛らわしい奴め。
 きっとまたそんなことの繰り返しになるだけだし、勝手に縄張りに立つな、と脅され、ビルの隙間に押し込められるのも御免だった。

 羽振りの良さそうなアジア系の男が、さっきからミシェルにちらちらと視線を送ってくる。ねっとりとした嫌な視線だ。
 やっぱり誰かと一緒に来るべきだった。そう後悔したが、今夜は「彼」を捜すことが目的だから、やはりひとりでいるべきなんだろう。
 しなやかな長い指で持ち上げたグラスに、ふっくらと形の良い唇を押し当てる。中の液体を喉に流し込むと、カラン、と氷の澄んだ音が心地良く彼の耳に滑り込んだ。
 面倒を避けるために、こうして「男の選ぶ酒」なんかを口にしている自分を、滑稽だと思った。そんなことをしたところで、まるで無駄だったのに。今夜だけで一体、何人の男が彼に熱い視線を送ってきたことか。あのアジア系の男みたいに。
 自分の見目にうんざりとする瞬間だ。彼は人目を惹き過ぎる。その美しさ故に。

 アフリカ系の父親から受け継いだ、野性的で均整のとれたカフェ・オ・レ色のしなやかな身体、無意識にそこから放たれている濃密なエロス。
 フランス人の母親から受け継いだ高貴な美貌、上流階級の出だったというその母親に仕込まれた、エレガントな物腰と確かな審美眼。
 そして、彼自身が自分の中で熟成させてきたもの。その材料は、例えば苦悩や痛み、悦び、悲しみ、怒り。
 それらのものが複雑に絡み合って作り出された、ミシェルというひとりの魅力的な青年が、本人の望まないうちに人目を惹いてしまうのはもっともなことだ。そしてそれに男女の区別は無かった。
 彼は、男からも女からもねっとりとした視線で視姦され、彼らにひと時のファンタジーを与えてしまう存在だった。
 やがてファンタジーだけでは我慢し切れなくなった輩に、そのうち声をかけられる羽目になる。

 無論、彼自身がそれを待ち望んでいる時もある。彼らの世界は特殊だ。極めて動物的で即物的と言えた。
 獲物を定め、視線を絡め、互いの身体に生まれる欲望が一致すれば身体を繋ぎ合わせる。そこから恋が始まることもあれば、刹那の快楽に身を投じて終わることもある。
 彼はいわゆる「あばずれ」ではないから、その場で欲望を満たすようなことはしない。その経験がない訳ではなかったが、後に残されるあの虚しさは彼の趣味ではなかったし、病気やトラブルのリスクも高すぎる。
 自棄を起こしていた若い頃には、自らそれを求めたこともあった。自分を貶めてしまうようなことだ。クリストファー通りの、「あの場所」を舞台にして。

 それを救ってくれたのが「彼」だった。留守がちな母親のせいで孤独だったミシェルに温かい食べ物を与え、洗練された衣服を着せ、レストランや夜の街でのしきたり、振る舞い、酒、実にさまざまなことを彼に教え込んだ。
 そして勿論、快楽も。
 シュガー・ダディ*。人は「彼」のことをそう揶揄したが、そんな俗っぽい言葉で片付けてしまうには、あまりにも大きな存在だった「彼」。
 そんな「彼」を裏切り、「彼」の下を飛び出してからのこの10年余り、一度も「彼」に会ったことはなかった。
 チェルシーからどこか他所へ移ったらしい、と風の噂では聞いていた。それでも、今だに時折この界隈に現れている、という話も。
 この界隈で「彼」を知らない人間はいない。少なくとも10年前はそうだった。
 「彼」自身に出会えなくても、見知った顔に出会えれば連絡先を入手出来るかもしれない、そう思っていたのに、そんな時に限って誰にも出会えないものだ。久しく顔を出さないうちに、馴染みの店の名前もバーテンダーも、何もかもが変わっていた。


 ふと、壁際のほうから視線を感じ、反射的にそちらのほうへと目を向けた。ダークヘアーで緩い巻き毛の、背の高い男が壁にもたれるように立っていて、グラスを口に運びながらミシェルをじっと見つめている。
 その日何度目かの、男からの熱い視線。またか――ミシェルはその男の視線から逃れようとした。
 それなのに。何故だかその男から目を逸らすことが出来ない。一体どうしたというのだろう。男の強烈な視線に抗うことが出来ないのだ。
 まるで囚われの身になったように、身動きひとつ出来ずに、その射抜くような瞳を受け止めることしか出来ない。
 今夜それまで何人もの男たちから向けられた、ねっとりとした嫌な視線とは違っていた。男の向けるそれには何故だか嫌悪を感じない。
 いや、むしろその逆だ。頬の辺りか耳の辺りか、或いはそのどちらにも、ひりひりとした熱が生まれるのを感じたのだから。
 やがて全身を駆け巡り始めた「何か」が、彼をじりじりと追い詰め始める。いけない。今日の目的は「彼」を捜すことだ。そう自分に言い聞かせ、何とか男から視線を外して、彼は再びグラスの酒を口に流し込んだ。
 鼓動が早まったことと関係しているのだろうか。グラスに押し付けた唇が少し震えていた。

 その時、カタン、と音を立てて、さっきのアジア系の男が席を立った。獲物<ミシェル>に狙いを定め、ゆっくりとした足取りで男がミシェルの許へと移動し始める。
 カウンターはいっぱいで、端っこに座るミシェルの隣の席は空いていなかった。それで安心しきっていたのに、タイミング悪く、隣の男が金を置いて席を立ってしまった。
 自分もそうしようと上着のポケットに手を突っ込んだところで、その男がミシェルの隣に身体を滑り込ませて来た。

「Hi 」
「……」
「さっきから君に見とれていたよ。この店で見かけない顔だね?」

 アジア系特有のアクセントで男が微笑んだ。それには答えず、男に顔を背ける。

「誰かを待っているの?」
「……Yeah」
「こんなに美しい君を待たせるなんて、酷い男だね」
「……」
「そんな男は放っておいて、この美しい夜を僕と一緒に過ごさない?」
「悪いけど――」
「――金ならいっぱい持ってる」
「!」

 ミシェルの耳元で男が囁く。にやり、とした顔で彼の答えを待つ男に、ぐつぐつ、と腹の底から不快な感情が沸騰し始めた。
 あの男もあの男も、こんなふうに下卑た薄ら笑いを浮かべていた。でももう、僕はあの頃の僕じゃない。

「そういう子が欲しいならクリストファー通りへ行けば? 金の欲しい子たちがあんたみたいな男を待ってるよ」

 そう言ってカウンターの上に金を置いて席を立つと、男がミシェルの腕を掴んだ。

「待ってよ!」
「放せよ!」
「――待たせて悪かった、ミシェル」
「!?」

 さっきの壁際の男だった。アジア系の男をひと睨みし、その男の腕を引き剥がして捻り上げている。

「痛い! 痛いっ!」
「!」
「Back off ! (失せろ!)」

 何事か、と周りの人間の好奇の視線に包まれながら、そのアジア系の男が何か悪態を吐きながら出て行く。恐らく母国語だろう。
 呆気に取られたように男の顔を見つめるミシェルに、まあ座って、と仕草で促し、男が隣に腰を下ろした。

「……ありがとう」
「彼と同じものをくれ」

 バーテンダーにそう声をかけ、男がミシェルに向き直る。
 威圧感とも言える、独特の存在感を放つ男。ミシェルの中で恐れのような焦りのような、得体の知れない何かが生じていた。

「あの……」
「?」
「助けてくれたのに、こんなこと言うのは間違ってるけど……」
「Yeah ? 」
「……勘違いしないで」
「What !? 」
「これで今夜、僕を落とせるなんて思わないで」

 ミシェルの言葉に男は、天井を仰いで短く笑った。

「なるほど。見返りに今夜の君か。それも悪くないな」

 男の向ける笑みにそういう邪(よこしま)なものは感じられない。さっきはあんなに熱い視線を向けてきたくせに、古い友人か何かみたいな顔で彼の横に居座っている。
 不思議な男だ、そう思った。彼はつい傲慢な言葉を向けてしまったことを悔やみ始めていた。

「! そうだ、どうして僕の名を?」
「……君を知っているからさ、ミシェル」

 男が意味ありげな笑みをミシェルへと向ける。男の低い声もその視線も、ぞくぞくとするほどに艶めいていて、彼はまたしても、とくん、と大きく波打つ胸の音を聞いた。
 だが彼はそれを隠し、何食わぬ顔をして飲み残していたグラスの酒をあおり、男へと向き直った。

「……君は、誰?」
「……ミゲル」
「!」
「つまり我々は、同じ大天使の名前を持つ者同士、出会うべくして出合った堕天使……そんなとこかな」
「!」

 それは「彼」がミシェルを抱きながらよく言っていた言葉だ。ミシェル、我々は堕天使なんだよ、と。
 何故なら「彼」も偶然にして、大天使ミカエルの名前を授かった男だったから。
 「彼」を捜しにやって来た店で、「彼」と同じ言葉を囁く、「彼」と僕と同じ意味の名前を持つ男。これは単なる偶然だろうか。それとも、何かを意味しているのだろうか。僕を知っているのなら、もしかしたら「彼」のことも知っているのかもしれない。根拠はないが、何となくそう感じた。

「――So」
「?」
「さっきの男に何を言われた? 君のあの怒りから察するに、金、だろうけど」
「!」

 どうして解るんだい? そんな顔をするミシェルに、ミゲルが再び控えめな笑みを向けた。

「" 彼ら " は金を持ってることが一番のステータス・シンボルだ。女を口説く時、車や仕事を自慢する男がいるように、" 彼ら " にとっての最大の武器を君にアピールしてみせただけだ。別に君を買おうとしたわけじゃない。そうカッカするな」
「……Oh」

 確かに彼は、さっきの男に男娼の扱いを受けた、と憤っていた。それを見透かしたような男の言葉に耳が熱くなる。
 いや、とっくに彼の耳は熱を帯びていた。何しろさっきからずっと、地を這うような、低く艶かしい声が彼の耳をくすぐっていたから。
 それを誤魔化すようにミシェルは軽く笑った。

「勝手に熱くなったってことか……馬鹿みたいだ」
「気にすることはない。……俺にも経験あるよ」
「!」

 それはつまり、自分を売ったことがある、そういうことだろうか。
 それとも……

「ヘーイ、ミゲル!」

 酔った足取りで女と一緒に店に入ってきた男が彼に声をかけ、ミゲルが呆れたような顔をその男に向けている。

「何てザマだ、ショーン。ヴィレッジいちの色男が台無しだぞ」

 ミゲルの言葉を気にも留めず、男は連れの女と空いた席に並んで腰を下ろした。座るなり、女は男に身体を預けるようにべったりとし始めている。
 やれやれ、といった顔を男に向け、彼がミシェルへと向き直る。

「出ないか?」
「え?」
「女といちゃつく酔っ払いを見ながら飲みたいかい?」
「あ……」


 気が付けば、ミシェルは彼に誘われるままに席を立ち、連れ立ってその店を後にしていた。
 「彼」を捜す気など、とうに失せていた。今更会ってどうするつもりだったのだろう。もうその目的さえも思い出せない。
 流れに身を任せるようにブリーカー・ストリートを南のほうに向いながら、ミゲルが彼を振り返る。

「それで? どこか行きたい場所は?」
「……」
「……ひとりになりたい?」
「……」

 どちらの問いかけにも無言のまま静かに首を横に振るミシェルを見て、ミゲルが肩をすくめた。

「無理強いするつもりはない。帰りたいならそうすればいい」

 静かに微笑んでそう言うと、ミゲルは彼に背を向けて歩き出した。


「待って!」

 ゆっくりとミゲルが振り返る。まるでそれを見越していたような表情で。

「……連れてって」
「……」
「連れてって」
「……どこへ?」
「……君のところへ」

 ミゲルは何も言わず、彼の真っ直ぐな視線を静かに受け止めていた。


「お願い……」




 Make love to me  ――僕を抱いて――




 ……Come with me  ――おいで――








 我を忘れて声を上げた。
 巧みな指、滑らかな肌、そこから立ち上る匂い、男の醸し出す何もかもが、息をすることも忘れるほどに彼を夢中にさせた。
 厚みのある、形良く淫靡な唇が、キースの残した傷痕の痛みを、彼の舌から、ペニスから、身体中から吸い上げては、その見返りのように、違う痛みを彼の身体じゅうに遺した。
 新たな甘い痛みと苦しみを植え付けられ、その悦びに震えながら、彼の心と身体がゆっくりと開かれていく。
 やがて、背後で男の動きが止まり、男の手の中で、彼も情熱を放つ。
 キースの総て、クリストファー通りでの日々、「彼」との過去、総てのものから解放された瞬間だった。
 ああ、やっと、ここまで来れたんだ―――羽を畳んだ堕天使は、シーツに崩れ落ち、声を殺して泣いた。