Magnet 18 「 Papa said 」












18. 「Papa said」 ― うちのパパの言うことには ― 





 日曜日

 ブルックリン  9:15 a.m.


 みぃうー。お腹空いたよー。みぃうー。ねえってばー。

「……ん……」

 みぃうー。ねえ、起きて。
 胸元の重苦しさに目を開くと、デーヴィーが彼女の胸の上で毛布越しに「もみもみ」をしている。

「Hi , Devi……」

 まるで母親みたいに容赦なく起こしにかかるデーヴィーに、かすれた声をかける。ゆっくり起き上がると、ベッドだと思っていたそこはソファーだった。
 目の前のテーブルには、チップスが入っていたボウル、ハーフ・サイズ・ボトルのワインの空き瓶とグラス、食べ残してかぴかぴに乾いたチーズと、茶色くしなびてしまった林檎のスライス、ステイシーから借りたDVDのパッケージが幾つか。
 そして、テーブルの先には点けっぱなしのTV。God !  私ったら、途中で寝ちゃったんだ!

 それから彼女はバスルームに行って用を足し、キッチンで待ち構えるデーヴィーに朝食を与え、コーヒーをセットして椅子に腰掛け、ふああ、と何度目かの欠伸をした。
 確か最後に時計を見た時には夜中の2時を過ぎていた。えーと、映画はどこまで観たんだっけ。そもそも何を観ていたんだっけ。1本目は確か、昔のジョニー・デップの映画を観たんだったけど。
 ジョニー・デップが朴訥とした普通の青年を演じているのも新鮮だったけれど、少年時代のレナード・ディカプリオの演技がとても素晴らしかった。ああ、それにジュリエット・ルイス! 彼女の何もかも、全てが可愛かった!
 流石はステイシーのチョイス、と言いたいところだけど……


 ステイシーはラムカの家の直ぐ近所で、小さなアクセサリー・ショップを営んでいる友人だった。商品は殆ど全てが彼女の手作りで、アクセサリー以外にも少し風変わりな帽子やバッグなども置いている、個性的だけれど、いかにもブルックリンらしさの漂う、とてもセンスの良い小さな店だ。
 そのステイシーから昨日の夕方に電話があった。
 " ちょっとラムカ! 今の彼、一体誰よ? " ――昨日、ショーンにバイクで送って貰ったところを見られていた、というわけだ。
 その後、今夜一緒に出かけない?というラムカの誘いに、悪いけど今日はデートなんだ、と言った彼女は、代わりに幾つかの映画のDVDを貸してくれた。客が全く来ず、暇を持て余している時に時々観ているのだと言う。
 ああ……土曜の夜に出かけることもしないで、家に篭って独り映画鑑賞なんて! そりゃあ、恋人の居ない期間にはよくやることだけど……

 ぼうっとした顔でコーヒーを啜り、満腹になってしゃなり、しゃなり、と満足げにキッチンを出て行こうとするデーヴィーの姿を見つめ、彼女はぼんやりと昨日のことを思い返した。楽しかったような、わけの解らない一日だったような。
 感激したり怒ったり、美味しかったり怖かったり。怖かった、というのは最後のバイクのことだけど、とにかく、何だか感情の起伏の激しい一日だった。
 " 二度と乗らないわよ!"――私ったら、彼に対して最後までそんな言葉しか出てこなかったなんて
 " 送ってくれてありがとう " って言わなくちゃ。彼の背中にしがみついている間中、そう思っていたのに。
 それなのに。バイクから降りた時、腰が抜けたみたいに「ふにゃ」っとなってしまって、それがとっても恥ずかしかった。だからなのかどうか、気付いた時にはそんな憎まれ口を叩いて、さっさとアパートメントのほうへ向ってしまっていた。
 " 今日は本当に……色々とごめん "――再び謝る彼の声を背中で聞き、彼女はようやく素直に " 送ってくれてありがとう " と口にすることが出来たのだ。 " 私こそごめんなさい " という言葉と共に。

 その後、" じゃあ、また " そう言って彼が去って行くのを見送った、あの時の気持ち。
 それを思い出してしまい、彼女は否定するようにゆっくりと首を振り、マグカップのコーヒーをごくん、と飲み込んだ。まるでその思いを飲み込むように。
 あっさりと帰ってしまった彼に、何故だか拍子抜けした。がっかり、という言葉でもいいかもしれない。
 もっと言うと、小さくなっていく彼の姿に、寂しさみたいなものを感じていた。
 もう帰っちゃうんだ…そう心の中でこっそりと思ったことを、彼女は頑としてまだ認めてはいなかったけれど。
 馬鹿みたい。「何か」を期待してたのかしら。そうチラリ、と思ったことも彼女は「無かったこと」にした。



 プルルルル――日曜の朝のまったりとした空気を震わせて鳴り響く、電話の音。
 彼女はコーヒーの入ったマグカップを手に立ち上がると、受話器を取ってソファーに腰掛けた。

「Hello ?」
 " Lamka ? "
「Oh !  Daddy ? 」

 今はワシントンに暮らしている父親の声だった。

 " 元気にしているのか? "
「Yeah , 元気よ。ダディこそ元気にしてるの?マギーも」
 " 私たちは変わらず元気だ、ありがとう。それより、たまには電話をしなさい、ラムカ "

 ダディこそ、そう言いたかったけれど、実際は余り話をしたくなかったから、曖昧に笑って返事をした。
 父親が何を言いたくて電話してきたのか――声を聞いた瞬間、何となく嫌な予感がしたからだった。

 " アイシュから聞いたが、幼稚園を辞めたそうだな "
「Umm……Yes」

 ほら来た! 昨日の夜、早速弟に電話をして、お互い近況報告をしたばかりだった。一夜明けた途端、早速父親から電話だ。もう、アイシュのお喋り!

 " どうして辞めたりなんかしたんだ? まだほんの3年だというのに。折角―― "
「――ダディ、そのことだけど、今は話したくない」

 恋愛関係が原因で解雇された、なんて口が裂けても言えない。父の取り成しであの仕事に就けたようなものだったし、何より、英国人である父の硬苦しく気の滅入るようなアクセントで、日曜の朝っぱらからお説教されるなんてまっぴらだった。

 " 子守なんかで食べていけるのか? 家賃は払えるのか? 住み込みじゃないとアイシュが言っていたが…… "
「それは大丈夫。何も心配要らないわ、ダディ」

 実際は家賃を払ってしまうと、その残りでは極めて質素に生活するしかなさそうだけれど、彼女は父親に心配をかけまいと虚勢を張った。何しろ平日の夕食は、クリフォード家のためにショーンが作る豪華ディナーの " おこぼれ " に与ることが出来る。時折ナディアがフルーツや残りものをお土産に持たせてくれることもある。
 つまり、贅沢は出来ないけれど、決して食い逸れる心配も今のところ、ない。だから決して嘘はついていないはずだ。


 父親からの奇襲攻撃を何とかかわし、彼女は再び弟に電話をかけた。クレームを言うためだ。

「よくもダディに喋ったわね」
 " だってあの後、偶然ダディからも電話がきたんだ。それに、どうせいつかは知られることだよ? "

 弟のアイシュはもっともらしいことを言って笑った。
 確かにそうよね。そうなんだけど。それは解ってるんだけど。

「私の可愛いラーイシュリヤ。よく聞いて頂戴。これからは私のことを、勝手にあれこれとダディに話さないでくれると嬉しいんだけど」
 " ジー・ハーン、マー(はい、ママ) "

 姉がいつものように母親の口調をまね、弟が「はい、ママ」と素直に返事を返す。それは子供の頃からの姉弟間でのお遊びでもあった。
 彼は、叱る時にも褒める時にも「私の可愛いラーイシュリヤ」と最初に優しく呼びかけてくれた母の記憶を、何よりも愛していた。それはラムカにも毎回向けられていた言葉だった。「私の可愛いラムカ」と。

 弟と一緒になって、在りし日の母を思い出すこと。それは彼女を春の陽だまりのような優しい気持ちにさせてくれる。
 と同時に、とてつもなく深い悲しみを呼び覚ましてしまうことでもある。
 もう10年近くにもなるのに、彼女の心の中の母親のための部屋は少しも、綺麗に片付いたためしがない
 そこはいつでも散らかっていて、絹のように柔らかなものも、薔薇の棘のように尖った痛いものも、何もかもが一緒くたになって仕舞いこんであるものだから、あるものを取り出そうとする度に、何か違うものが引っ掛かって「くっ付いて」来る。
 " 私の可愛いラムカ、いらっしゃい " ――この上もなく優しい笑顔で抱きしめてくれる母が、その笑顔の裏でひとりこっそりと涙する姿や、深夜、両親の寝室から聞こえてくる諍いの声。
 擦り切れてぼろぼろになっても何度も何度も読み返していた、今は亡きインドの祖父母からの手紙の束。それを目で追う時の、満ち足りたようでいて寂しそうな母の顔。
 全くいつまで経っても、何ひとつ片付けられやしない。もっとも、端から片付けるつもりなんてないのかもしれないけれど。



 弟との電話を切った後、彼女はチェストの上に飾ってある母親の写真をふたつ、手に取った。どちらも彼女のお気に入りの写真だ。
 そのうちのひとつは、何気ない普段の日の母の姿だった。サリーを着けてソファーに座り、こちらへと微笑んでいる写真。
 そしてもうひとつは、インドの伝統的な盛装に身を包み、いつもより派手な化粧を施した、ゴージャスな母が余所行きの顔で微笑んでいる。インドに里帰りした際に写真屋で撮ったものだ。
 ボリウッド女優みたい! そう言うと、母は何故だか少し困ったような顔をした。
 普段の飾り気のない母のほうが好きだったのに、そう言えば、一度もそれをちゃんと母に言ったことがない気がする。
 彼女は母が盛装しているほうの写真をチェストの上に戻し、普通のサリーを身に着けているほうの母へ微笑みを向けた。

「……綺麗よ、マー(ママ)」

 まるでデーヴィーのみぃうー、という鳴き声みたいな、小さい子供みたいな、頼りない甘えた声。
 やがて彼女は、指先に移したキスをそうっと写真の母に捧げ、それを静かに元の場所へと戻した。











 ミッドタウン・ノース、五番街  2:30 p.m.

 友人とランチをとった後、彼女は五番街でぶらりとショッピングに興じていた。
 レイは夫が見てくれている。ゆっくりしておいで、と送り出してくれた彼の顔は昔の彼のようで、少し照れくさい気持ちで彼にキスをした。
 昨日も休日出勤をしておきながら、早々に戻り、レイの相手をしていた夫。「パリに行こう」と言っていた彼の言葉を半ば冗談だと思っていたけれど、本気なのかもしれない、と漸く彼女は思い始めている。
 罪滅ぼしのつもりなのね。そう言ってやりたかった気持ちをぐっと堪え、あの夜彼に寄り添った。たとえそうだとしても、嬉しかったから。
 そのせいか、まだまだ先の話なのに、こうして着て行く服を探しに、五番街をぶらぶらしている自分が可笑しくて堪らない。ウィンドウには春から初夏にかけての服ばかりで、バカンス向けの服や水着を探すには時期尚早過ぎたから。

 それでもやはり、ひとりきりのショッピングは楽しい。つまらなさそうに付き合う夫も居ないし、トイレットだジュースだ何だと気忙しくさせる息子も居ない。
 そして彼女が今立っている場所は、世界でも指折りの、超高級ブランドの集まる場所だ。
 東西に走る東57丁目通りと、南北に走る五番街の交差する四つ角にはそれぞれ、ヴァン・クリーフ・アンド・アーペル、ブルガリ、ルイ・ヴィトン、そして五番街の顔とも言えるティファニーが、競い合うように堂々と鎮座している。
 いずれは私もあの場所で……と彼女を奮い立たせてくれる場所でもある。
 彼女はそこから東に向い、イヴ・サンローラン、バーバリー、シャネル、クリスチャン・ディオール、とそれらの店を順に巡り、次にエミリオ・プッチへ行こうと通りを少し入ったところで、女性の二人組とすれ違った。

「キャス?」

 すれ違いざまに掛けられた声に彼女が振り返ると、それは友人のアリーだった。

「Hi ! 」

 挨拶のキスを頬に交わし、互いの格好を褒め合い、友人の連れの女性に「始めまして」、と挨拶を交わす。
 どこかで会ったことがあるような気もしたが、そのまま彼女らに別れを告げ、キャサリンは再びショッピングを楽しむために歩き始めた。
 そしてエミリオ・プッチに辿り着き、ウィンドウのマネキンに視線を移した時、彼女はハッと瞳を見開いた。

 「彼女」に……似てた?

 アリーとその友人を振り返ってみたが、ふたりはもう彼女の前から姿を消していた。
 会ったことがあるような気がしたのは、そういうことだったのか。
 アリーは連れの女性を、ヤスミン、と紹介していた。
 どことなく似ている、と思ったのは、殆ど黒とも言えるダークカラーの髪に、浅黒いブロンズ色の肌をしていたからだろう。
 髪は染めたものかもしれないし、肌も焼いたものかもしれない。そういった容姿の女性なんて、この街には数え切れないほどいる。シェリーもそうだし、友人の中にも数人いる。
 それなのに、いまだに「彼女」の姿と重ねてしまうなんて…本当にどうかしてる。


 立ち止まっていた彼女は小さく首を振ると、気を取り直したようにエミリオ・プッチのウィンドウを再びその青い瞳に映す。薄いブロンズ色の肌をしたマネキンが、彼女を静かに出迎えようとしていた。
 暫く逡巡した後、彼女は何かを思いついたように、通りで携帯電話を取り出した。

 " こちらは『 Bruno Bianchi NY 』(ブルーノ・ビアンキ・ニューヨーク)、受付のモニカです。お電話ありがとうございます "
「キャサリン・クリフォードよ。ミスター・ピノトーの予約を―――」