Magnet 16 「 Nothing is real 」












16. 「Nothing is real」 ― すべては夢 ― 




 土曜日
 イースト・ヴィレッジ 9:15 a.m. 


 彼は今、ちょっとしたパニックに陥っている。
 腕の中の、甘い匂いのする、白くて柔らかな生き物のせいだ。
 左の腕が痺れきっていたが、どうすることも出来ず、噴き出した冷や汗のせいで体中に寒気のようなものが走るのを感じていた。
 どうしてこんなことになった? 冷静に昨夜の出来事に思いを馳せようとすればするほど、冷や汗はどんどん滝のように噴き出してくる。
 これは夢だ。昨夜の出来事も、目覚めた場所も、白くて柔らかな生き物も、この気だるさも、きっと全てが夢なんだ。そう言い聞かせてみる。
 瞳を閉じて次にそれを開いた時には、いつもの僕のベッドの上で、いつもの朝を迎えることが出来るはずさ。
 けれど、何度瞳を閉じてそれを開くことを繰り返してみても、状況が変わることはない。
 いや……いい加減、認めなければ。腕の中ですやすやと寝息を立てている白くて柔らかな生き物が、赤毛のボブカットの彼女ではなく、薄茶色をした長い髪の持ち主だ、というその事実を。


「――んん――」

 小さい子みたいな甘い声を立てて、腕の中の白くて柔らかな生き物がゆっくりと瞳を開く。
 彼は諦めにも似た気持ちでそれを眺めていた。

「おはよう、ポール」
「……おはよう、ジェニー」
「起きてたの?」
「うん、少し前にね」
「やだ、寝顔見てたのね?」

 少し恥ずかしそうに笑って、彼を上目遣いで見上げてくる彼女。
 こんな時、やっぱりおはようのキスをすべきなんだろうか。
 そんなふうに躊躇っていると、彼女のほうから唇が近付いてきて、彼のそれと重なった。
 昨夜のきっかけと同じ、彼女からのキス。

「ねえ、今日どうする?」
「どうする、って?」
「折角ふたりとも休みなんだもの。どこか出かけない?」
「出かけるって、どこに?」
「んー、例えばお昼を食べに行って、それから……そうだ、映画でも観ない?」
「あー……どうかな」

 彼からの気乗りしない返事の連続に、彼女の真ん丸な瞳が悲しそうに翳っていく。それを目にした彼は、慌てたように顔面に笑みを貼り付けた。

「だってとてもいい天気だからさ、映画より、外を歩きたくないかい?」



 彼女がシャワーを浴びている音が聞こえてくる。彼は彼女のベッドに寝転んだまま、頭の下に腕を組んで、考えを巡らせることに没頭していた。考えてみたところで、ジェニーと一夜を過ごした事実は変わらないのに。そう。もう後戻りすることは出来ないのだ。
 彼は冷静に、昨夜の出来事を順に思い出してみた。
 仕事の後、食事に行こうと彼女に誘われ、いいよ、と彼は即座に返事をした。
 ベティとミシェルとラムカの3人が、連れ立って向かいのサロンから出て行くのを見届けたばかりだった。何となく疎外感を味わっていたから、対抗心のようなものもあったのかもしれない。
 ヴェスパを店の前に停めたまま、彼女と食事をして、場所を変えて酒を飲んで、少し飲みすぎた彼女をこの部屋まで送り届けて、それから……
 ドアの前で彼女にキスをされ、シャツの襟元を引っ張られるようにして、彼女に部屋に引き込まれたんだった。
 あなたが好き、と言葉で、全身で訴える彼女に、彼の理性は見事に吹っ飛んだ。何しろ彼も彼女と同じくらい酔っていたし、彼女のキスは、それは情熱的だったから。
 勢いでこうなってしまった、そう言うとジェニーは傷付くかもしれないけど、ベティのことを吹っ切るにはこれでよかったのかもしれない。

 ジェニーと居るのは楽しい。緊張することなく自分自身のままで居られるし、僕の話すこと、ひとつひとつに瞳をきらきらさせて、熱心に耳を傾けてくれる。何より、彼女は、こんな僕のことを好きだと言ってくれる。彼女みたいな可愛くて心の優しい女の子が、僕みたいな冴えない男を好きだと言ってくれるんだ。
 ……ベティは相変わらず、僕のことなんか眼中にもなさそうだし。


 バスタオルで髪を拭きながら彼女が部屋に戻って来た。ノーブラに薄いブルーのキャミソールとローカットのショーツを穿いただけの姿で。
 体に張り付いたキャミソールの胸元には、彼女のnipple(乳首)がくっきりと浮き上がっている。それを目にして欲望が起き上がってくるのを感じる。
 Hey , ポール。君もいっぱしの男だったんだな。
 彼は自分で自分を嘲るように笑った。再び諦めに似た思いで彼女を見つめながら。
 これでいいんだ、ポール。きっとそのほうが、何もかも上手く行く。
 彼はそう自分に言い聞かせると、ベッドから起き上がり、バスルームへと向った。







 セントラル・パーク  3:05 p.m. 

 ランチを食べた後、アップタウンにあるメトロポリタン美術館で時を過ごした彼らは、その後セントラル・パークへ行き、のんびりと散策していた。
 メトロポリタンを出て何となく南下しながら歩いていると、ジェニーがストロベリー・フィールズに行きたい、と言い出したので、西のほうにあるそのエリアまで足を運んだ。
 本当のことを言うと、彼はそこに行くのは気が進まなかった。でもその訳を説明する気はなかったし、何よりもそう言って彼女が悲しそうな顔をするのを見たくなかった。

 ストロベリー・フィールズ。
 その場所から直ぐ近く、ウエスト72丁目にあるダコタ・アパートメント*にかつて住んでいて、そしてそのエントランス前で命を落としたジョン・レノンを偲んで作られたメモリアル・プレイスだ。
 名前の由来は勿論、説明すべくもなく、ビートルズのあの名曲だ。中心に " Imagine " の文字が刻まれた有名なモザイクはオノ・ヨーコがデザインしたもので、そのモザイクの上には献花が絶えることなく飾られている。
 この日もそこは、ピースマークの形に花が並べられていた。ジョンの命日でもないのだが、ギターを弾きながら " Imagine " を歌う若者がいて、それに合わせて、ちょっとした合唱が起こっていた。
 ベンチに座ってそれを眺めていると、そう言えば、とジェニーが笑いながら彼のほうへ視線を向けた。

「ね、やっぱりあなたはポール派なの?」
「うーん、別に。どちらでもないよ」

 気のなさそうな彼の返事にジェニーは残念そうだったが、彼はビートルズには大して興味がない振りをしてその場をやり過ごした。余りこの話題で話をしたくなかったからだ。
 統計学的にどうなのかは知らないし、全くの思い込みかもしれないが、彼の持論としてはこうだった。
 父親がクリスチャンで、かつビートルズの大ファンだと、生まれた息子の名前はジョンかポールか、そのどちらかになる確率が高い、ということだ。
 勿論ジョージもいるだろう。リンゴもいるのだろうか。残念ながらお目にかかったことはないが。

 子供の頃は、" ジョン " になりたかった、と常々思っていた。あいにく、先に生まれた兄がその名前を既に貰っていた為に弟である彼は " ポール " になったわけだが、父はどちらかと言うとジョン派だったから、父が兄のほうを可愛がっているような気がして仕方がなかった。
 ましてや、こんな足の障害を持って生まれてきたものだから、余計に父親の愛情が兄に向いている気がして、子供の頃にはそれが彼のコンプレックスのひとつだった。
 何しろ兄は " スーパー・スター " だったから。ハンサムで優秀でスポーツ万能で、友達も多かったし、女の子にもよくもてた。両親にとってみれば、それはそれは自慢の息子だったことだろう。
 それで嫌な奴だったなら彼の溜飲も下がったのだろうが、これがまた困ったことに、素晴らしい内面を持つ、心の優しい兄だった。
 つまり、あれだ。非の打ちどころのない、という表現がぴったりの男だった。
 自分がこんなに引っ込み思案で冴えない印象なのは、兄がいい部分を両親から先に全部譲り受けてしまったからだ、そう思っていた。
 ああ……またこんなことを思い出して気分が滅入ってしまうのだけなのに、どうしてこの場所に来てしまったんだろう。ジェニーと一緒ならそんな気持ちになることもないだろう、と思っていたのに。


 そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ジェニーは彼の手を取って立ち上がると、北の方へ向って歩き出した。
 確かこの先にBelvedere Castle(ベルヴェデーレ・キャッスル)やシェイクスピア・ガーデンがあったはず、と言いながら、彼の手を引いてずんずん歩みを進めている。
 気付けば昨夜からすっかり彼女のペースで時間が進んでいる気がするけど、気が楽と言えば気が楽だ。女の子の喜ぶデート・プランを考えるなんて、経験がないわけではないけれど、決して得意なほうではなかったから。
 ただこうして手を繋いで歩いているだけで、ジェニーは嬉しそうな顔をして彼のほうを見上げてくる。
 正直、昨夜初めて一緒に過ごしただけで、恋人としての自覚がある訳でもなく、彼はとても気恥ずかしかった。
 けれど、それを伝えて彼女が悲しむのを見るのは嫌だったので、彼女には静かな微笑みを返した。



 そして予想もしない出来事が起こった。79丁目通りに差し掛かった時のことだ。
 シェイクスピア・ガーデンのほうへ向って傾斜を登ろうとしたところで、少し東側にあるベルヴェデーレ・キャッスルの方向から、どこかで見たことのある少年が駆け下りてくるのが目に留まった。

「レイ! 飛び出すと危ないわよ!」

 その少年を慌てて追いかける人物に彼は目が釘付けになった。
 ラムカ!? ラムカじゃないか!
 それから続いて目に入るのは、笑いながら彼女の後ろを歩く、背の高い、見知らぬハンサムな男。
 ポールは咄嗟に顔を背けるようにして傾斜を勢いよく登り始めた。平地なら少し目立ってしまうかもしれない彼の歩き方も、そこは傾斜だったからラムカに気付かれずに済んだかもしれない。

「ポール!?」

 突然手を離して先を行く彼にジェニーの声が飛び、彼は、ああ、と盛大な溜め息を吐きそうになった。
 ラムカの耳に、今のジェニーの声が届かなかったことを祈るのみ、だ。 
 ジェニーが再び、ポール、と声を上げないよう、彼は振り返るように立ち止まって、彼女が追いつくのを待った。

「突然どうしたの?」
「ごめんよ、ジェニー」

 彼はそう笑い、自分から彼女に手を差し出した。



 僕は卑怯だ。
 ベティを諦めて、僕を好きでいてくれるジェニーと時を過ごすことを選んだ。そのくせ、ジェニーとのことを後ろめたく感じている。最低の男だ。
 僕とジェニーが手を繋いでいたのをラムカに見られたかもしれない。そう思うと気が気じゃなかった。
 ラムカの口からベティに漏れるのが怖い。ベティは僕のことなんて全く眼中にない。だからこんなふうに思うのは間違ってる。そう頭では解っている。
 でも……

「見て、ポール! 凄くいい眺めよ!」

 城の展望台ではしゃぐジェニーの声が彼を現実に引き戻す。
 朝、ゆっくりと瞳を開く彼女を見つめた時の、あの気持ちが再び彼の胸に湧き上がる。
 少しだけ悲しくて、それでいて、少しホッとしたような、諦めにも似たあの感情が。






 その後、イースト・ヴィレッジまで帰るジェニーと一緒に地下鉄に乗り、彼はジェニーに手を振って、途中の駅で電車を降りた。店の前に停めたままのヴェスパで帰るためだ。
 たった一日で、自分を取り巻く状況が激変してしまった、なんて信じられない。それはもしかしたら、ヴェスパを停めたままにしておくことを決めた瞬間から始まったのかも。そんな気もする。
 もしもあの時、酒は飲まない、と決め、ヴェスパを置いたままにせずにいたら。そうしたら、違う朝を迎えていたかもしれない。違う朝、というよりも、いつも通りの朝、と言うべきなのかもしれないけど。
 後悔はしていない。そう思いたい。今はまだ、ジェニーが僕を好きでいてくれるほど、同じくらい彼女を想っている、とは正直言い切れないけれど。

 あれこれと考え事をしているうちに、カフェに辿り着いてしまった。ポケットから鍵を取り出し、ヴェスパにまたがってそれを差し込む。
 その時、カフェの入り口が開き、中から出てきた赤い髪の彼女が、階段を下りて顔を上げた。
 ああ……何てタイミングが悪いんだろう。今この瞬間、君に会いたくなかったのに。

「Hi ! 」
「……Hi , ベティ」
「あーあ。あたし明日休みなの。つまり、あんたのカプチーノを飲めるの、明後日になっちゃうってことよね?」
「あー……そうだね」
「やっぱり、あんたのカプチーノが一番だわ」
「!」
「じゃあまたね、ポール」

 ベティが笑顔で手を振ってサロンに戻って行く。それを見送る彼の胸が、きゅるきゅる、と音を立てる。

 ……ベティ……

 テーブルについた彼女が彼の視線に気付き、もう一度、Bye と笑顔で手を振る。
 そのうちに彼女の手が止まり、少しずつ笑顔が失われていくのを、彼はじっと眺めていた。彼女の笑顔が消えたのは、思いも寄らない、彼の真っ直ぐな視線のせいだ。
 彼は今、初めて瞳を逸らすことなく、想いを込めてベティを見つめていた。
 戸惑った顔のベティが瞳を逸らす前に、ポールはヴェスパを静かに発進させた。

 さよなら、ベティ。

 ――心の中でそう呟いて。