Magnet 12 「 Under the crescent moon 」












12. 「Under the crescent moon」 ― 三日月の下で ― 







 アッパー・ウエスト 0:20 a.m.


 暗闇にくゆり、とゆるやかに立ち上るライト・グレイの煙。ベッドに肘をつくようにうつ伏せていた彼女が、自分の唇で愛撫していたそれを彼の唇に差し込む。普段の彼に喫煙の習慣はないが、時折こうして、ことの終わりにそれを楽しんでいる。楽しんでいる、と言うよりも、彼女に付き合ってそうしているのだが。
 彼の唇からそれを抜き取り、再び彼女がそれを口に咥え、からかうように笑う。

「再試験、見事に合格。満点よ」

 ふん、と鼻を鳴らして窓の外に目を向ける。ブラインドの隙間から月が輝くのが見える。
 何だって月の美しい夜にこんなことをしているのだろう。もっとも、彼女と美しい月を見ながら語る、なんてロマンティックな夜を過ごすなど、考えもつかないが。

「ふふ」
「?」
「別れた夫が昔、言ってたわ。" ベッドで煙草を吸う女は嫌いだ " ――だからそうしてやったの。わざわざ煙草を覚えてね。そうやって彼が嫌がることを片っ端からやってのけた」
「例えば?」
「そうね……酔った女も嫌いって言うから、だらしなく酔ってアパートメントの階段に転がってみたり、他の住人の前で汚い言葉を使って喧嘩をふっかけてみたり……そうやって彼にさんざん恥をかかせて楽しんだわ。それから彼の嫌いなスパイスを効かせて料理もしたし――」
「――あんたが料理を!?」
「失礼ね。これでも結婚していた頃はキッチンに立つこともあったのよ」
「想像もつかないね。それより、彼に同情するよ。そんな嫌がらせまでして挙句、財産までせしめてさ」
「あら、正当な権利を主張したまでよ。最初に若い女を囲った向こうが悪いんだもの」

 彼女は少しも悪びれずにふふっと笑い、またライト・グレイの煙を吐き出した。

「おかげで自由よ。好きなだけ仕事に没頭出来るし、料理もしなくていいの。胸糞悪い彼の母親とも二度と会わなくて済むし。セックスだって、したい男としたい時にするわ」

 短めの金色の髪を掻きあげ、彼の顔を見下ろしながら彼女が意味ありげに笑う。

「……もう寝るよ。何だか疲れた」
「もうギブ・アップ? あんたが?」
「何とでも言えよ」

 本当は気乗りがしない夜だったのに、汚名挽回とばかりに持てる力の全てを一度に使い果たしたからだ。我ながらそんな自分に呆れるが。
 彼女に背を向け、眠る振りをして、もう一度ブラインドの隙間から月を眺めた。それまで数え切れないほど目にしてきたはずの三日月が、何故今夜はこんなにも気にかかるのだろう。
 今夜の月に何故だか懐かしさを憶えるのだ。それが何なのか、そもそも、懐かしいと言うべきなのか、この感情を表現出来る言葉さえ見つからない。懐かしい、とひと言で表現するには余りにも重苦しく、やり切れない思いだった。
 遠い記憶の彼方に眠っていた何かを揺り起こされるような、或いは、身に憶えのない記憶と、それに付随する感情が呼び覚まされるような…或いは、まるで他人の心の中に侵入したような、そんな奇妙な感覚。
 それは彼女、シェリーと出会ってから度々現れる、厄介な感覚だった。彼女に会うと、眠っていた何かがむくむく、と心の奥底から起き上がろうとしている、そんな気がするのだ。

「……止めろ、イネス」
「う…ん、いいじゃない、たまには」

 後ろから彼に抱きつき、彼の背中のあちこちに口付けながら彼女が甘えた声を出す。彼はうっかり「ちっ」と舌打ちをするところだった。余計なスキンシップはしない。行為中やその前戯の時以外キスはしない。そういう暗黙のルールを自ら破る彼女に苛立ちが募った。他の女と違い、こういうことをしない彼女だからこそ関係を続けているのに。
 イネスの手が後ろから彼の体の中心部分に伸ばされる。彼の意志に反して、その部分はイネスの欲望に忠実だった。まるで囚われの身だ。自分の意志で制御することすら出来ない。

「んん……ふふっ」

 気が付けばそこは、イネスの口の中で既におもちゃにされている。そのうち彼女は完成したおもちゃの上にまたがり、好き勝手に遊び始めるのだろう。
 されるがままに、彼はもう一度月を眺め、やがて、諦めたように瞳を閉じた。








 遡ること約4時間前  

 ミッドタウン・イースト 『レヴァーハウス*』 8:10 p.m.

「で? まだ旦那さんには会ったことないわけ?」
「うん。毎日帰りが遅いみたい。でもリヴィング・ルームに家族の写真も飾ってないの。変だと思わない?」
「B、そのワイン味見させて。サンクス」

 レイのナニー(子守)としてあの家に出入りを始めて一週間と数日。金曜日の夜だった。帰りに『Bruno Bianchi NY』(ブルーノ・ビアンキ・ニューヨーク)に寄ったあと、ベティとミシェルと共にミッドタウンのレストランで報告会と称しての食事会、というわけだ。
 そこは新進気鋭の若手インテリア・デザイナーが航空機の客室をモティーフにデザインしたという、ミッドセンチュリー・モダンな内装のレストランで、たまたま予約が取れたので、久しぶりに3人でやって来たのだった。

「相変わらずろくなワイン置いてないね」
「そう? 特に何とも思わないけど。ワインのことよく解んないし」
「ほんと、何にでも好みがうるさいんだから。ね、それよりさ、彼の作った料理とどっちが美味しい?ふふっ」

 まただ――ラムカはうんざりした顔で、その話はしたくない、とばかりに、右手のディナー・ナイフの先をベティに向けた。

「今度 『彼』 とか 『ショーン』 って口にしたら、今日はあんたのおごりだからね」
Amen to that ! * (いいねー!)」
「あんたも今言ったよ」
「つべこべ言わない!」

 たった数日でラムカの顔つきが違って見えるのに他のふたりは何度も顔を見合わせていた。目に力が宿り、表情も生き生きとしていて、かつてのラムカを取り戻したようだった。
 ただ、仕事の内容なんかより、ベティはやたらとショーンのことを聞きだそうと躍起になっていて、今もその日何度目かのショーンに関する質問をラムカにぶつけ、彼女をうんざりとさせたばかりだ。
「だってあり得ないでしょ! 運命の出会いとしか言いようがないって!」――そう言ってはラムカの心を煽り立てようとするが、彼女は相手にしなかった。

 彼女は今日キッチンで、彼とメイドのメアリーがくすくす笑いながらパントリーから一緒に出てきたのに遭遇した。彼は平然とした顔で、やあ、シェリー、なんて言ってたけれど、メアリーは明らかに一緒のところを見られたことへの動揺を隠しているふうで、じゃあクーパーさん、そういうことでよろしく、なんてわざとらしく彼に言ってキッチンを出て行ったのだった。
 一体何してたの? そんな呆れ顔のラムカに彼はくすっと笑っただけだ。何って解るだろ?、とでも言いたげに、軽く片方の眉を上げて。
 この人、絶対私を馬鹿にしてる! 余裕ある彼の態度に何故かカチン、ときたので憮然としていると、そんな彼女にまたくすくす、と笑い、やれやれ、といった顔で仕事に戻った彼。
 子ども扱いされてる、そう感じた。実際、子供じみた態度だと自分でも思ったけれど、彼の態度に彼女は何故だか少しだけ傷付いていた。
 だから彼女は、仕事場でこんなことして余計な気遣いをさせる男なんて最悪! そう思って溜飲を下げることにした。まさにベティが喜んで飛びつきそうなネタだ。だから、絶対言うもんですか、と彼女は心にシャッターを下ろしたのだった。





 ブルックリン 10:45 p.m.

 彼らと別れたあと、ラムカはいつものように地下鉄でブルックリンに戻った。もう一件飲みに行こうよ、とベティに誘われたが、彼女の住むプロスペクト・ハイツは治安の良い場所とは言え、これ以上遅くなると流石に夜道の一人歩きは避けたほうがいいからだ。
 駅からの帰り道、彼女は何の気なしに空を見上げ、そこに美しい月が輝いているのに気付いて思わず顔を綻ばせた。鋭い鍵爪みたいな金色の三日月だ。満月にはない魅力、というのか、どこかミステリアスともいえる美しい光を放っている。
 どうしてだろう。その月を眺めていると、ふいに胸がちくり、とした。
 この月をどこかで見たことがある。悲しい出来事と共に――ふいにそんな確信めいた思いが湧いた。
 そりゃ、何度も目にしてきた月に違いないもの、嫌なことがあった時に三日月を見たことが何度かあったでしょうよ。そう言い聞かせてみるのだが、そういう曖昧なものではなく、確かに何かの記憶と結びついている、そんな気がするのだ。
 それが何なのか、どうしてそんなふうに思ってしまうのかは解らない。何故だか胸がちくり、と痛かった。
 でも、きっと単なる思い過ごしよね。そんなふうに思い直し、いつもの角を曲がり、辿り着いたアパートメントの入り口の階段を上った。

「――ラムカ」
「Oh !!! 」

 突然の声に彼女は驚き、階段を踏み外しそうになった。暗闇の中から突然姿を現した男に思わずひゅう、と息を飲む。何てこと!? ハリーじゃない!

「もう! 脅かさないでよ!」
「ごめん」
「ここで何してるの!?」
「ベティに会いに来た。君のところだと思って」
「……残念ね。ここにはいないわよ」
「待って! ラムカ!」

 彼女はうんざりしたような、困ったような顔でハリーを振り返った。

「君と一緒じゃないならどこ?」
「さあね。自分で訊いてみれば?」
「着信拒否されてるんだ」
「それはお気の毒」
「まさか仕事場まで押し掛けるわけにもいかないし、頼むよ、ラムカ!」
「はっきり言わせてもらうけど、今頃来て何言ってるの? ベティが家を出てからどれくらい経つと思ってるわけ?」

 何か問題でも?――ラムカの大きな声に、隣のアパートメントの3階の窓から男が顔を覗かせた。問題があるなら警察を呼ぼうか?ということだ。

「No problem !  Thank you !」
「問題ありよ! ねえ、こんなことやめて、ハリー。これはベティが決めたことなの。あなたは彼女の意志を尊重すべきよ」
「なあ、ベティとやり直したいんだ。話を聞いてくれよ、ラムカ。君なら力になってくれるだろ?」
「……きっとあなたは同じことを繰り返してまたベティを傷つける。悪いけど、力になってあげられない」
「違う、今回は本当に魔が差しただけなんだ。クライアントの女に誘惑されてさ、つい……解るだろ? 断れないんだよ」
「Oh yeah ?  会社のためにクライアントと寝たわけ。恋人を裏切って、恋人とのベッドの上で。見上げた忠誠心ね」
「後悔してる。もう二度としないと誓うよ! 本当だ――」

 垂れ流される誠意のない弁明と懇願に、ノー、と首を横に振り、彼の言葉を拒絶し続ける。そんな彼女の瞳の色を見て、ハリーがようやく口を閉じた。

「……解ったよ」
「I'm sorry」
「……Bitch(クソアマ)」
「What !!?」

 信じられないひと言を吐き捨て、ハリーがその場を去った。

「ちょ、ま、あっ! ちょっと! ――Hey mister ! やっぱりお巡りさん呼んでよ! 聞いたでしょ!? 侮辱罪よ!?」

 ずっと彼女らを見下ろしていた隣の3階の男は、冗談だろ?わはは、と笑って窓を閉めた。
 何なのもう!! 信じられないっ!!
 怒りながらベティに速攻で電話すると、ベティはげらげら笑ってこう言った。

 " そりゃ、奴の顔見た瞬間にコップ(警官)呼ぶべきだったね "
「やっぱりゾンビだよ、彼! ああもう、ほんとムカつく!」
 " まあまあ、落ち着きたまえよ "
「ちょっと! 誰のためだと思ってるのよ」
 " ごめんって! あんたがそんなに怒るの珍しいから面白くてさ "
「笑い事じゃないんだけど」
 " Ok , じゃあこうしよう! かけ直すからちょっと待ってて "







 チェルシー 10:55 p.m.

 ――「ミシェル、ちょっと音楽消して」
「? いいけど」

 ふと見ると、外した固定電話の受話器がテーブルの上に置かれている。電源が入ったままだ。切り忘れてるよ、そう言ってそれに触れようとすると、駄目駄目、触らないで、実況中継するんだから、とベティから声が飛んだ。
 ベティの言葉を無視して受話器を耳に当て、ハロー?と言うと、ハイ、ミシェル、とラムカの返事が返ってきた。

「一体何ごとなの?」
 " ショーの始まりらしいよ "
「いいからラムカに聞こえるように受話器置いて。あ、こっちに向けて」

 そう言ってベティが立ったまま携帯電話を耳に当てた。

「――ハーイ、ハリー! あたしの可愛い元彼ちゃん! ちょーっといいかしら?」

 うわ、嫌な予感。ミシェルは恐る恐るソファーから立ち上がって自室に引っ込もうとしたのだが、逃がさないよ、とばかりにベティにシャツの裾をぐいっと引っ張られ、ソファーにひっくり返った。

「そんなにあたしに会いたかったのね? んん、突然消えたりしてごめんなさい、ハニー」
 "―――――"
「そう……うん……うん………そうね、そうだと思ったの。誰にでも魔が差すことはあるんだもの」
 "―――――"
「……Alright……あなたのことは誰よりもよく解ってるつもりよ。だって2年も一緒に暮らしてきたんじゃない。だからよーく聞いてね、airhead(おバカさん)」

 そこまで言って、ベティがすーっと息を吸い込んだ。

「今度現れたらそのお粗末なくせに節操のないペニス切り落としてケツの穴に突っ込んでやるから覚悟しなさいよ! 二度とあたしとラムカの前に顔出すんじゃないわよ、このクソったれの bitch-ass(女の腐った野郎)! 今度ラムカを侮辱してごらん、その情けない粗チン写真をあんたとその女の会社、両方にばら撒いてやる! 解ったらさっさと右手とファックして寝ちまいな!」

 ………。
 ミシェルがあんぐり、と口を開け、固まってベティを見上げている。
 ブチッと電話を切り、あースッキリしたー!と息を吐き、今度はテーブルの上の受話器を取って耳に当てた。

「ご清聴ありがとう! ムスィュー・ピノトー、アンド、ミス・テイラー!」

 ぱち……ぱち……ぱち……。あんぐりとしたまま、ミシェルがゆっくりとベティに拍手を送る。彼女はそれににっこりと笑顔で応えた。

「――ところでラムカ、これって脅迫罪になる?」







 再び、ブルックリン 0:20 a.m.

 その後、彼女は寝付けずに、ベッドの中で寝返りをうつことを繰り返していた。静かな音楽でも流そうか、それとも眠くなるまで本でも読んで起きていようか。あれこれ思い悩み、もう一度寝返りをうってベッドから窓を見上げた。
 あの金色の月が、再び彼女の瞳の中に輝きを映す。そうやってしばらく月を眺めていると、彼女の心にとある小さな思い出がふっと蘇った。
 " 月が小さくなっていくのはね、ぼくがときどき、こっそりとかじってるからなんだよ " ――小さい頃、弟がそう言ってたっけ。
 " ふーん、どんな味なの? "  " おとなりのおばさんがやいてくれるココナッツ・クッキーとにてるよ "  " じゃあどうやって真ん丸の月に戻すの? "  " んーとね、お水をあげるの。マー(ママ)がお花にあげるみたいにね。そうしたらね、おねえちゃんがおこったときのほっぺたみたいに、ぷーってふくらんでいくんだよ " ――あの子の想像力には毎回笑わされた。元気にしてるかな。明日、久しぶりに電話してみようかな。大きな丸い瞳をくるくるさせて、いつも家族のみんなを笑わせてくれていた弟のことが急に恋しくなった。
 一番呑気で、幸せでいられた頃だ。マー(ママ)がいて、弟がいて、私がいて、そして、ダディがいた。
 三日月の夜はきっと人をおかしくする。一般的には満月の夜こそがそうなんだろうけど、色んな感情に振り回された一日だったし、ベティの毒舌も冴えまくってた…ってあれはやり過ぎだったけど。
 だからきっと、三日月の夜にもそんな妖しい魔力が潜んでいるに決まってる。

 そう思い、もう一度月を見上げる。駅からの帰り道に感じた、あの胸の痛みは何だったんだろう。どんな記憶と結びついていたんだろう。何故だかそれを知りたい、と強く感じた。思い出したい、と。
 ……でも一体どうやって?
 あの三日月の端っこを齧ってみればそれが解るかな?――彼女の顔に再び笑みが戻った。やっぱり明日、弟に電話しよう。そう心に決め、彼女は考えるのをやめて瞳を閉じた。