Magnet 13 「 Tears of a Honeybee 」












13. 「Tears of a Honeybee」 ― ミツバチの涙 ― 





*冒頭部分、R18表現アリ、です。苦手な方、ご注意ください。



アッパー・イースト 0:45 a.m.

遠慮なく大きな声を出した彼女が、夫の上でがくり、と崩れ落ちる。
独り勝手にのぼり詰めた妻を呆れたように見上げる夫。悪びれずにふふっと笑い、彼女は夫の上で、再び動きを再開させる。
「あぁ……」
「―――」
「……んっ……」
今達したばかりだと言うのにまだ足りないのか、この女は。
むくむくと沸き起こる残虐心。彼は体を起こして彼女を自分の下に敷いた。乱暴に脚を肩に担ぎ、激しく彼女を突き上げ始める。彼女が再びのぼり詰めそうになると彼は動くのを止め、お願い、と懇願する彼女を冷ややかな目で見下ろした。お願い、ともう一度彼女が懇願して、漸く彼が動きを再開させる。そんなやり取りを数回繰り返し、やがて共に真っ白な世界へと達していく。
「素敵よ、フィル。とても感じたわ」
褒美のように彼の唇を貪り、彼女がにやり、と笑う。

クローゼットで抱き合った夜。あの夜を境に彼女は変わった。酒の量が増え、挑戦的な言動が増え、自ら貪欲に夫を求めるようになっていた。
あの夜、パントリーで酔い潰れた彼女を見つけて寝室まで運んだが、あのまま、彼女は深い酔いの世界から醒めていないのかもしれない。或いは醒めてしまうことを拒絶しているようにも見える。その証拠に毎晩のように酒を飲み、上機嫌で彼に唇を重ねてくるのだ。
それは彼が本来の彼女に対して求めている姿では決してないが、少なくとも、以前のように、縋るような眼でじっと待っている、そんな彼女よりはましかもしれない、そう思うことにしていた。
きっと彼女は全てに気付いている。他の男と寝る私を想像して興奮する?そう訊いた後でこう言って不敵に笑うのだ。私は興奮するわ、あなたが別の女と寝る、ってことにね。
彼女が心底そう思っているのか、何故急に態度を変えたのか、彼はまだ彼女の真意を掴みかねている。
ただ、彼女が変わってからというもの、それまでの言い争いや無言の非難、というものから解放されたことは確かだ。不思議なことにあれ以来、夫婦仲は上手くいっている。表面上は、と言うべきではあるが。

「見て、綺麗なcroissant(三日月)」
いつの間にかベッドを抜け出した彼女の声。裸のままで窓辺に立ち、月を見上げ、あなたとパリで食べたcroissant(クロワッサン)が恋しいわ、などと呑気な声で言う。
耳に心地よく響く美しい言葉の波、スモーキーなカフェの薫り、雨に濡れた石畳を照らす街灯り。
パリか―――彼の心に蘇る、あの旅の記憶の断片。
「行きたいかい?パリに」
「……ええ、もちろん」
じゃあ行こうか、とは決して言ってくれない。それは彼女も嫌と言うほどに解っている。そんな時間をどこから捻出するんだ?そう答えが返ってくるだけなのだから。
彼女だって思いつきで言ってみただけだ。ハネムーンで巡ったヨーロッパの国々の、とある一つの都市の、とある一つの思い出。それだけのことに過ぎない。クロワッサンなんて、そこらへんどこにでも売っている。同じ味にはひとつとして出会えないけど。

「――行こう」
「!」
「夏にパリに行こう、キャス」
気付けばそう言っていた。信じられない、という顔をして、彼女が彼を振り返る。
だが一番信じられないでいるのは、そんな言葉を口にした、彼自身だ。
「……本気で言ってるの?」
「Yeah , この街のクソ暑い夏にはもううんざりだ」
クソ暑い夏……夫がそんな言葉を彼女に使ったのは何年ぶりだろう。思わず彼女はぷっと噴き出していた。
「パリだって暑いわよ。夏のパリは空っぽよ。誰もいないし、きっとなんにもない」
「その時は地中海にでも逃げ出せばいい」
「地中海……」
不思議な体験をした旅に彼女が思いを馳せている。彼はベッドを抜け出してガウンを引っ掛けると、裸の彼女にもガウンを掛けて傍に立ち、同じように月を見上げた。
「きっといい旅になるよ」
「……そうね」
「レイにフランス語の特訓をするか」
「ふふ」
彼が彼女の肩を抱き、彼女が彼の手に自分の手を重ねる。月を見上げながら、二人は自然に寄り添っていた。











チェルシー 1:15 a.m.

喉が渇いて眠れずに、彼はベッドを抜け出して水を飲むためにキッチンへと行った。外食をした夜は大概そうだ。思っていた以上に塩分を摂取してしまうからだ。冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出して乾いた喉を潤し、それから部屋に戻ろうとして、ふとベティの部屋から煌々と灯りが漏れているのに気付く。
電気を消し忘れて寝ているんじゃないか?家主としては見逃せない事態だ。そうっと隙間から中を窺うと、彼女は彼に背を向け、机の上で開いたラップトップのコンピュータを前にうつ伏せて眠っていた。
こんなことだろうと思った。やれやれ、全く世話が焼ける。
「ベティ」
部屋の入り口で声をかけてみる。ベティの返事はない。仕方なく彼は彼女の傍まで行って彼女を揺り起こす。
「ベティ、風邪をひくよ?」
「――」
「ほら、ちゃんとベッドで寝なきゃ。ベティ?」
ベティの手が " あっち行って " と言わんばかりにミシェルの手を振り払おうとする。
「ベティ?」
ミシェルはピンときたのか、腰を落として下から彼女の顔を覗き込んだ。やっぱり!
「どうしたんだい?Honey B」
Honeybee(ミツバチ)をもじった、Honey B。それは毒舌家の彼女に親しみを込めて彼がつけた呼び名だった。
何てことだろう。彼女は誤って自分に針をチクリ、と刺してしまったようだ。
どうしたんだい?なんて訊くまでもないことはミシェルにも解っていた。だから彼は彼女の手を取って椅子から立ち上がらせると、ベッドまで手を引いてそこへ座らせた。隣にゆっくりと腰を下ろして彼女の肩を抱き、腕をさする。

毒舌家で気が強くてとことん男勝り。一見すると男が恐れて逃げ出すタイプの彼女だが、実際それは傷付きやすい彼女が外敵から身を守るための分厚い鎧なのだ。
ミシェルにはそれがよく解っている。あんなふうに男を散々にこき下ろしたその裏で、こうしてひとりこっそりと泣くような、そんな女の子なんだってことが。
「全く……手先は器用なくせに」
「……うるさい」
やっとベティが口を開いた。彼女の腕をさするのを止め、顔を覗き込むようにして彼が静かな笑みを向けると、彼女は問うような瞳を彼に返した。
「ねえ、信じられる?自分の恋人だった男にあんなこと平気で言えちゃう女なんだよ、あたし」
「後悔してるの?」
「……ううん。むしろ清々した」
「じゃあ何で」
よく解んない、そう言ってベティが息を吐く。
「何だか泣けてしょうがないの。あいつ、ほんとに頭にくるよ。どうしてちっとも成長出来ないの?言い訳すらまともに出来なくて、何がよりを戻したいよ。クライアントの女に誘惑されて断れなかった?普通それで恋人とのベッドの上で浮気する?そんな見え透いた呆れた言い訳で許して、なんて言うような大馬鹿な男とあたしは2年も暮らしてたの?ねえ、時間の無駄遣いだったよ、ミシェル。この2年をあいつに返して欲しい」
一気に吐き出すように言う彼女にティッシュペーパーを渡し、ミシェルが再び彼女の隣に静かに腰を下ろした。
「……はっきり言うけど……よりを戻したいなんて、結局は家賃をシェアしてくれる相手が必要だからさ。君に出て行かれて、現実として一番困るのは当面のところ、そこでしょ?」
「……うん」

痛いところを突かれた、とベティは思った。浮気される度に何度も出て行こうと思ったのに出来なかったのは、彼女自身もその勇気が持てなかったからだ。そもそも同棲を始めたのは家賃の節約のためでもあった。
引越しの費用、部屋を見つける労力、その後のコストの負担、それらを受け入れる覚悟が出来なかった。腹は立つけど、許してしまえばそれで済むことだから。ベッドで甘いメイクアップ・セックス*をして、暫くの間彼女をちやほや持ち上げて機嫌を取ってくれれば、それでことは済んだ。自分が我慢して彼を許してしまえばそれで終わり。
だから、出て行ったら彼が可哀相……心の奥でそう思う甘い自分がいた。一人で家賃を払っていけるのかしら?誰かルームシェアしてくれる相手が直ぐ見つかるかしら?そんなふうに。
けれど、もう無理。愛情も情けも何もかも、彼のためのものはもう、全て使い果たしてしまった。彼女の心はもう、見事なまでにすっからかんだ。
彼の浮気を目撃してからずっと、怒りで自分を保ってきた。それを爆発させてしまった今、明日から何を支えにしていけばいいんだろう。
「彼は君に甘えすぎていたんだよ。何をしても結局は許してくれる、ビッグ・ママみたいな存在になってしまったのかも」
そうかもしれない、と彼女は思う。出会った頃、べったりと甘えていたのは自分のほうだったのに、どんどんだらしなくなっていく彼に対して、いつの間にか母親みたいに彼の尻を叩いて小言ばっかり言っていた。
そしてそれがいつしか日常になっていた。それに甘んじてきた結果がこれだ。つまり、彼女にも負うべき責任の一端がある。
何てこと!あたしは彼のママになっちゃってたのね?しかも、育て方を間違えちゃったってこと?

「……そりゃママとはセックスしないよね」
ぼそっと言って自嘲的に笑うベティに、ミシェルは静かな視線を向け続けた。
「どうして彼は成長出来ないのって言ってたけど、君自身はどうなの?彼と暮らし始めた頃から成長したと思う?」
「……解んない」
「僕は変わったと思う。エミがうちの店に来て以来、君が陰でもの凄く努力していたのを僕は知ってる。彼女みたいなさ、手先の器用なアジア人ばかりの業界の中で、実際君は死にもの狂いで努力してきたじゃない。高い金を払ってセミナーを受けたり店に残って練習したり。朝行ったら店のソファーで君が寝てたこともあったよね」
「そんなこともあったっけ」
「君だけがどんどん大人になっていってしまったのかも。彼が成長したかしてないかなんて僕には解らないけど、ベティ、少なくとも君は2年前の君よりずっと成長してるよ」
「本当?」
「Yeah ! まず第一に、その頃より毒舌が減った」
ちょっと!それ、褒めてない!そう言ってベティがミシェルのわき腹を指先でつつく。Oh ! そう言って彼が身を捩ると、ようやくベティの顔に笑みが戻った。
「ねえHoney B , 彼みたいな甘ったれた男はきっと懲りないよ。また同じことをして君を傷付けるに決まってる。それでも君が彼を求めるならそれで仕方ない、ってずっと思ってきたけど、やっと彼から離れる決心がついたのなら、もう彼のために涙なんか流しちゃ駄目だ。次の男のために大事に取っておいて」
「……うん」
「あ、" 喜びの涙 " のためだからね」
「そんなもの、何年も流した覚えないや。流したいなあ、その喜びの涙ってやつ」
「うん、そうだね」
「ミシェル」
「うん?」
「……ありがとう」

返事の代わりに彼が拳を突き出す。拳でタワーを作るみたいに、彼の拳の上に彼女の拳が乗って、その上にまた彼が拳を乗せて、最後に拳同士をかつん、と突き合わせてお仕舞い。
まるで男同士だね。ふふっと笑った後、ベティが溜め息を吐いた。
「あーあ、また悲しくなってきた。何であんたゲイなのよ」
「またその話」
「だってこれが映画ならさ、ここでピティ・セックス*始めるとこだよ?」
「残念、これが現実」
「あっそ」
「……B , 誰かとセックスしたいの?」
「したいよ!当たり前じゃない!どんだけご無沙汰してると思ってるの?」
「僕も」
「あーもう!ほんとジレンマ!」
「そうだ!今度ラッセルを紹介するよ。この間NYに戻って来たばかりの友人でさ、凄くいい奴なんだ」
「……ひとついいかねピノトー君。あたしの経験上、男がいい奴、って言って連れてくる男は大抵、つまんないカスなんだよ。何しろ脳みそがスポーツとビールと女の裸だけで出来てんだから」
「Non non , 見くびってもらっちゃ困るよエリザベス。この僕をそこらへんの男と一緒にしないでくれる?とびきりのゲイがお薦めする、とびきりのストレートの男だよ?」
「うーん、それは未知の世界だね。試す価値、ありそう」
本当はラムカに紹介しようかな、と思ってたんだけど、ということは黙っておいた。ラムカはどうやら新しい仕事先で運命的な出会いがあったみたいだし。今のところ、彼女は否定してるけど。
ポールの気持ちを考えると躊躇われるけど、ポールがあんな調子じゃベティはそのうちに飢え死にしてしまう。
悪いね、ポール。彼女を飢え死にさせるわけにはいかないんだ。

「じゃあお返しに、あたしもとびきりのゲイを探しとくよ」
「Oh , Come On ! その必要はないよ」
「ほー、たいした自信だね」
「あら。あたし、今は恋よりキャリア優先なの。解る?」
「うげ、ファゲット・トーン*(オカマ口調)やめなよ」
「J.C.のお決まりの台詞だよ、知らないの?」
「ぶはは!まじ?」
「Yeah ! まだあるよ」
ああ、彼の悪口言い始めたら夜が明けちゃうよ――― そう笑い、おやすみ、とベティの髪にキスをしてミシェルが部屋を出て行く。
ありがとう――― 彼女は彼の後ろ姿に向い、声を出さずにそう呟いた。