Magnet 11 「 Trick or Artichokes ? 」












11. 「Trick or Artichokes ?」 ― いたずら?それとも、アーティチョーク? ― 




 赤毛の彼女の様子がおかしい。そう気付いたのは、インフルエンザで約一週間仕事を休む羽目になった、あの直後だった。
 一週間もの間、一度も彼女の姿を目にすることが出来ずに彼は心底悲しかったのだが、ある時をきっかけに、これを機に生まれ変わろう、とでもいうような妙な決意に目覚めてもいた。
 最後に彼女に会った時、「一杯おごってよ、ポール」と言ってくれた、あのひと言を心のよりどころに病気にも耐えた、と言ってもいいだろう。
 彼女には一緒に暮らす恋人がいる、というのは知っていた。だから相当な覚悟がいることも解っている。自分を受け入れてくれる確率なんて極めてゼロに等しい、と。
 それでも彼はこのまま、毎日窓越しにカプチーノの注文を巡ってのやり取りを続けるだけの、そんな不甲斐ない自分に甘んじる気はなくなっていた。もちろん今のままでは振られるのは目に見えているが、いつか状況は好転するかもしれない。 少なくとも、この思いを伝えることくらい、何の罪にもならないじゃないか!
 でも一体どうやって? どのタイミングで伝える? どんな言葉を選べばいい? 彼はそこで必ず頭を抱えてしまうのだ。


 久しぶりにいつもの場所にベティの姿を見るのはとても良いものだ。これこそが彼にとっての日常だった。
 でも毎日毎日彼女を見つめ続けてきた彼だからこそ、ベティの変化に目ざとく気が付いてもいた。仕事の合間、頬杖をついて溜め息を吐いたり、ぼうっと考え事をしていたり。もう一人のネイリストのエミや顧客たちと談笑していても、どこか翳りを感じさせる笑顔だった。
 何があったんだい? ベティ? ――コーヒーを届ける度にそう声をかけようと思うのだが、彼の前ではいつもどおりの彼女でいるものだから、何となく声をかけ辛くて、気がつくとまた一週間余りが過ぎてしまっていた。
 そしてそのうちに彼は驚愕の事実を知ってしまうのだった。
「ねえ知ってた?お向かいのサロンのミシェルとベティ、同棲始めたらしいわよ!」――ジェシカがフレディに面白そうにそう話すのを耳にしてしまったのだ。

「ええ? 彼ってゲイじゃないの?」
「きっとバイなのよ! ちょっと、面白いことになってきたと思わない?」

 ――何てこった! ぐずぐずしてる間にベティは恋人との同棲を解消して、あろうことかあのミシェルと暮らし始めた、ってこと!? 恋人を振って!? じゃあベティのあの溜め息の原因はそれだってこと!?
 彼女と彼はただの友達だと思っていたのに! ミシェルが相手なんて、全く勝ち目ないじゃないか!
 ああ、僕は本当にのろまで間抜けな意気地なしだ! こんなことになるんならあの時、「じゃあ来週にでもどう?」ってベティを誘えばよかった。もう遅かったかもしれないけど、少なくともそのことで後悔することはなかったのに。
 あああ、今世紀最大のショックだ。いや、今世紀に入ってまだそんなに経ってないけど、少なくともこの10年で最大のショックだ! ああ、また熱が出てきたような気がする――打ちのめされ、廃人のようにぼんやりとする彼を、またジェシカとフレディがくすくす笑っているのが聞こえる(もっとも彼らは、ポールが好きなのはミシェルだと勘違いしたままだったが)。
 それがどうした。笑いたきゃ笑えよ。そんな顔を彼らに向ける。思いがけない彼の反撃に、ふたりはこそこそ、と仕事に戻っていった。
 とにかく落ち着け、ポール。直接彼女の口から事実関係を訊き出すまでは、本当のことはまだ解らないじゃないか。僕にだってまだ「ベティ・レース」に参加する資格は残ってるはずさ!

 そんなこんなでひとり悶々としていると、夕方ベティがいつものようにマグカップを返しにカフェにやってきた。

「Hi , ポール」
「……Hi 」

 その罪つくりな笑顔を向けないで、ベティ。入り口近くのテーブルの上を拭きながら、彼女がカウンターのほうへ歩いていくのを見送る。
 ちら、とカウンターを見やると、今ジェシカとフレディは席を外していた。返却用のカウンターの上にマグを返し、ベティが再び彼の方へ近付いて来る。

「じゃ、またね、ポール」
「……待って、ベティ!」
「?」

 意を決して彼は店の外のベティを追いかけた。ああ、心臓が壊れてしまいそうだ。いや、いっそのこと壊れてしまえ!

「なあに?」
「あの……」
「Yeah ?」
「あー……その……」
「?」
「さっ、最近、あの……えーっと……」

 肩をすくめて一体何なの?と言いたげに笑うベティを見て、彼はすーっと息を吸った。

「僕がミシェルを好きだとかとんでもない妙な噂が蔓延してるみたいだけど決してそうじゃないから本気にしないで! じゃ!」
「……は?」

 彼はその日、生まれて初めて「死んでしまいたい」、と思った。









 ミッドノースいちのバリスタが自分の不甲斐なさに打ちひしがれている頃、そこより少し北、アッパー・イーストのクリフォード御殿では、ひとりの料理人が野菜の山を目の前に、うーん、と頭を悩ませていた。
 出来るだけ野菜中心のヘルシーな料理を、と望むクリフォード夫人に対し、好き嫌いの多いその息子。毎回子供用に別のメニューを幾つか用意してはいるのだが、野菜嫌いのご子息にどうやったらそれらを口にしてもらえるか。それが毎回の彼のミッションであり、苦労の種だ。

 ちらり、と背後のテーブルを見やる。レイは何故か自分の部屋ではなくそこで勉強したがるので、今もそこに座って「お気に入りのナニー」と算数の勉強中、というわけだ。こいつはまだ幼稚園児だぜ!?と声を上げたくなる瞬間でもある。
 レイは体が弱いせいか過保護にされ過ぎているように思う。他所の家のポリシーに干渉する気など更々ないが、この歳の子供はもっと外の世界をのびのびと駆け回りたいだろうし、そうさせてあげるべきだ、と彼は内心でそう思っている。
 甥のアルとクリスなど真逆の育ち方をしているからなのか、外で遊んでばかりでまるで勉強に身が入らず、母親である姉のケイティはいつも嘆いているが。
 さっさと答えを教えてしまいたくなるのを堪え、こうやって気長に根気強く見守りながら、自分で考えることの道筋を与え、やがては答えを導き出す。そんなふうに彼らの勉強を見てやることなど自分には出来そうもない。外でバスケット・ボールやキャッチ・ボールをする方が、自分も彼らも楽だからだ。
 子供の学習に付き合うのには相当な忍耐力が要るんだろうな――そう思いながら感心したように彼女の様子を見つめていると、彼女が彼の視線に気付いて「何?」という顔を向ける。

「Um……実は買い忘れた食材があるんだ。ちょっと買いに出ようかと思ってるんだけど、レイを連れ出しても構わないかな」
「ほんとう? ショーン!」
「あー、どうかしら。ナディアに許可をとらなくちゃ」
「大丈夫、直ぐそこのマーケットだから」
「じゃあいいけど。Oh , バイクは止めてよね」
「もちろん歩いて行くよ。君も一緒だし」
「何で私が?」
「俺ひとりだと、ナディアが許してくれそうにないからさ」
「わぁい!」

 レイが嬉しそうに椅子から元気よく下りて、ナディアー、ショーンとシェリーとマーケットに行ってくるねー、と駆け出した。

「レイ! 上着を着て!」

 自分の上着は忘れて慌ててレイを追いかける彼女にくすっと笑い、彼は自分のものと彼女の上着とを手にふたりを追った。




 クリフォード家のあるパーク・アヴェニューから1ブロック東のレキシントン・アヴェニューを過ぎ、さらに東へ1ブロック進んだサード・アヴェニュー。
 道を1本隔てただけでがらり、と街の雰囲気が変わる、そこがこのニュー・ヨークの面白いところで、ここアッパー・イーストも東に進めば進むほどその色合いが濃くなる。
 ここサード・アヴェニューが「貧富の壁」だと言われていたことをつい最近知った。ここから東に行けば行くほど、家賃も安くなるし、ぐっと庶民的な街並みに変わる。反対に、セントラル・パークに近ければ近いほど家賃は高くなるし、全身ブランド品を纏ったような人々が増えて行く。

 そして、2ブロック歩いたそのサード・アヴェニュー沿いにそのマーケットがあった。直ぐそこ、なんて言ってたくせに2ブロックも歩かされちゃった、なんて思いながらレイと手を繋ぎ、マーケットの中へ入る。
 レイにとってみれば、おもちゃ屋だとかキャンディー屋に来た時と同じくらいにわくわくする「遊び場」なのだろう。眼をきらきらさせながら、あっちからこっちへと走ってはしゃいでいる。

「ほらレイ、見てみろ。綺麗だろ?」

 彼が野菜売り場を指差して言う。オレンジやグリーンやイエロー、白や赤や紫。色とりどりの野菜やフルーツが所狭しと並ぶさまはポップアートさながらで、一枚の巨大な静物画のようでもある。

「うん、とてもきれい」
「野菜はただそこにあるだけで、それ自身がとても美しいんだ。それでいて、食べる人をも美しく健康にしてくれる、そんな魔法の食材なんだぞ?」
「ふーん」
「触ってごらん」
「! つるつるしてる! パプリカってこんなにつるつるしてて硬いんだね」
「そうだ。皮を剥いたり火を通したりして、君が食べやすいようにしてるんだよ」
「これは何? フルーツ? パイナップルのはっぱみたいだね」
「これはアーティチョーク*という野菜さ。瓶詰めのものしか食べたことないだろ?」
「わかんない。きっと食べたことない」
「これは下処理が大変な食材のひとつなんだ。今は君の顔の半分ほどもあるのに、美味しく食べられる部分は真ん中のほんの少しの部分だけなんだよ」
「ふーん。おいしいの?」
「ああ、美味いぞ。まだ子供には美味い、と思えるものじゃないだろうけど」

 彼がレイを連れ出した訳を理解し、ラムカは少し彼を見直した気になっていた。なるほど。テーブルの上で算数を勉強させるだけが学習じゃない、というわけね。
 ついでに自分の買い物もして行こうかしら、とフルーツをあれこれ吟味していたラムカは、値段を見て、直ぐに手にしていたオレンジを棚に戻した。やっぱりアップ・タウン価格とは相容れそうもない。

 ふと何気なく反対側のスペースに目を向けると、彼らをじーっと見ている女がいるのに気が付いた。いかにもモデルか何かをしてるような風情の女だ。ラムカは彼女に見覚えがなかったので、きっとショーンの知り合いだろうと思い、彼の肩を軽く叩いた。
 ショーンがその彼女に視線を向けると、彼女はひらひらと手を振って彼に笑顔を向けている。

「……あー……ちょっと外していいかな」
「どうぞお好きに」

 レイ、お魚でも見てこようか!そう言ってレイをその場から遠ざける。ちら、と彼のほうを見ると、その女が笑いながら彼の頬を指先ですいっと撫でているところだった。ショーンはいつになく軽薄そうな表情をしていた。
 ふたりがどんな会話を交わしているのかなんて考えるまでもない。フード・マーケットでの立ち話に相応しい表情ではなかったから。やっぱりトムさんの言った通りだ。きっと彼が街を歩けば女に当たる。そして彼女はそういう類の男が苦手だ。

「気にしなくてもだいじょうぶだよ、シェリー」
「えっ!?」
「かのじょは " こいびと " なんか じゃないよ」
「見ちゃだめよ、レイ!」
「だってほら、さっさとあっちいけよ、ってこころの中でそう言ってるよ」
「?」

 いいからこっちいらっしゃい、そう言って魚売り場までレイを引っ張っていくと、やっとレイは魚の方に興味を移してくれたようだ。
 " こころの中でそう言ってるよ " ――? それって一体どういう意味? 彼がそういう顔をしている、ってことよね?

「ふふっ」

 ラムカを振り返ってにやり、と笑うレイの瞳を覗き込む。まるで別人のような顔だ。ちょっと意地悪そうな、何かを企んでいるような、少し大人びた顔。
 初めて会った時みたいにその瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚え、彼女はほんの一瞬、眩暈のようなものを感じた。



 結局ショーンはアーティチョークを買って帰った。そしてレイに説明しながら下処理をして、今度は真っ黒になるまで焼いたパプリカの皮を剥くのを手伝わせている。
 あの時レイが一瞬だけ見せたあの表情は何だったんだろう。ふたりを後ろから見つめながら、ラムカはその時感じた、畏敬にも似た感情を思い出していた。
 こんな小さな子に対して抱く感情ではないのかもしれない。でもあの時、レイはレイではなく、違う誰かだったようにも感じられたのだ。
 ……ううん、きっと彼の中にもそういう表情をするような部分があるのよ。彼女はそう思い直した。あれはきっと、何か悪戯を思いついたのに違いない。一見すると良い子だけど、レイだって悪戯くらいするはずだもの。

 そんなことよりも、だ。「気にしなくてもいいよ、シェリー。かのじょは " こいびと " なんかじゃないよ」―― そっちの言葉のほうが気にかかる。何であんなこと言われなきゃならないわけ?
 マーケットからの帰り道、憮然としたような顔のラムカを見て、彼がくすっと笑ったのも気に入らない。
 誤解のないように言っときますけど、私はただ付き合わされて疲れただけなんですからね!そう言ってやりたかったけど、彼の本来の目的は、ああやって女とフード・マーケットの野菜売り場なんかでいちゃつくことじゃなかった訳だし、こうして野菜に興味を持たせようとしてやったことだもの。そう思い直すことにした。
 そのうちにいい匂いがしてきて、わくわくとした気分になってくる。やがて彼女のお腹も盛大に音を鳴らすだろう。
 そうだ、明日は久しぶりにお菓子でも作ってレイに食べさせてあげよう。そう思い立ち、彼女は何の材料があるのかを確かめるために、パントリーの扉を開けた。