Magnet 10 「 Reunion 」












10. 「Reunion」 ― 再 会 ― 



アッパー・イースト 1:10 a.m.  


コンピュータの画面を目で追う彼の背後で、がちゃり、と響く扉の音。
相変わらずノックもしない女だ。もちろんそれを許されるのは、彼女、ただひとりしかいないが。
「遅かったな」
彼が振り返りもせずに低い声で言う。彼女は壁にもたれながら、夫の背中をまじまじと見つめている。
そこにまた、新しい傷でもこさえてきたかしら。私の居ない間に。
確かめてみる?あのカシミアのセーターを脱がせて?
「うーん、寂しかった?ベイビー」
「酔ってるのか、キャス」
そうする代わりに、後ろから抱きついて耳を軽く噛む。だが彼女に返されたのは温度のない声。
「ええ、酔ってるわよ。いけない?」
目の前に回りこんで夫の上にまたがり、にやり、とした笑みを彼に突き刺す。
「だってパーティーだもの」
「最近、飲み過ぎだ、キャス。頼むから、また隠れて飲むのだけは―――」
「――― それよりね、フィル、喜んで! レイの子守が見つかったわ」
「そう、それは良か―――」
唇を重ね、彼の言葉を遮る。不適な笑みを携えて。
「とても可愛い子よ。エキゾチック、大きな茶色の瞳、長い黒髪……Oops ! 全部あなたの好みね」
「!?」
ふふっと笑ってもう一度夫の唇を貪り、膝を降りて、彼女が書斎を出て行く。彼女の残した耳障りな笑い声と気配にうんざりしながら、彼は背中で彼女を見送った。









三日後 
 
アッパー・イースト 12:30 p.m. 


彼女は今、何となく気後れしながらアッパー・イースト・エリアを歩いている。狭いマンハッタンだが、彼女の人生には余り縁の無い地域だ(ただし、メトロポリタン*やグッゲンハイム*などの美術館だけは何度か足を運んだが)。
高級ブランドのブティックが立ち並ぶマディソン街なんて、滅多に訪れることもない。彼女だって女として生まれたからには、人並みに憧れはある。けれど、500ドル以上もする靴や2000ドル以上もするバッグだなんて、そんな贅沢など許されない身には、高級ブランドなんてものは目に毒なだけだ。出来るだけ見ないにこしたことはない。
同じ高級住宅街でも、セントラルパークを隔てた向こう側のアッパー・ウエストの方がずっと、彼女にとっては親しみやすい場所だった。働いていた幼稚園があった場所だが、ゼイバーズやH&Hベーグルズにはよく通ったし、マンハッタン子供博物館やアメリカ自然史博物館には園児を連れて何度も通った。お気に入りのカフェも何件かあったし、それから……セントラル・パークのあちら側が急激に恋しくなってきたのと、同時に、思い出したくない男を思い出してしまったので、彼女はそれ以上、太陽の沈む方角に思いを馳せることを止めた。

セントラル・パーク東側沿いの5th Ave.(フィフス・アヴェニュー)から2ブロック東に通るPark Ave.(パーク・アヴェニュー)。70丁目あたりは高級住宅街として有名だが、キャサリンの教えてくれた住所もそのあたりだ。
ここら辺一帯に黄色いキャブが並んでいるが、時おり黒塗りのリムジンが横付けされていたりもする。いかにも公共の交通機関とは縁の無さそうな人間の住む街、といった光景だ。
キャサリンの住む建物の入り口にはドアマンが居て、その人に顔を覚えてもらうまでは、クリフォード家に出入りする者だと証明しなければならない。
彼女がキャサリンのくれた許可証のようなものをそのドアマンに見せると、「ああ、クリフォード夫人から伺っておりますよ、ミス・テイラー」とドアを開けてくれた。笑顔で礼を言って中に入ると、正面には赤い絨毯が敷き詰められた階段が美しく螺旋を描いていて、階段の横、つまり入り口向って左側の壁側に、重厚な装飾のクラシカルなエレヴェイターがある。
暫く待ってようやく降りてきたそれに乗り込み、教えてもらった通りに15階のボタンを押した。

4階のボタンが上下逆さまになっているのに気付き、くすっと笑っていると、扉が閉まりかけたと同時に「Wait !」という声がして、箱を持つ腕が扉の閉まるのを阻み、背の高い男が「Excuse me」とエレヴェイターに体を滑り込ませて来た。
「ふー!どうも」
「何階ですか?」
「Oh――」
15階、と言おうとして、15階のボタンが既に押されてあるのに気付き、あれ?と言う顔で男が彼女の顔を見下ろした。だが彼女は彼より少し前の方に立っていて、顔が良く見えない。
男がそれ以上何も言わないので、不審に思った彼女が男を振り返った。
「!?」
「!?」
互いに、あれっ?という顔をした後、ふたりして一回顔を前に戻して首を捻り、もう一度互いの顔を、ひとりは見上げて、ひとりは見下ろして、今度こそ「あっ!」と言う顔で互いを指差す。
「シェリー?」
「ショーン?」
同時に名前を呼び合った時、ちーん、と音がしてエレヴェイターの扉が開いた。
「What are you doin' here !? (ここで何を!?)」
「えっと、今日からここの息子さんの子守を……」
「まじで!?」
「あなたこそ何を?」
「ここの家の料理番」
「ほんとに!? じゃあ――Oh !」
驚きの余り降りるのも忘れて話し続けたせいで、エレヴェイターがそのまま下降し始めてしまった。笑う彼にぎこちない笑みを返すと、彼が右手を差し出した。
「ショーン・クーパー。トムから聞いただろうけど」
「Oh , シェリーよ。シェリル・テイラー。この間は美味しいワインをどうも」
自己紹介をしながら握手を交わすと、彼が目を丸くしていた。
「信じられない。本当に " シェリー " だったんだ」
「! そのことなんだけど、どうして――」――そこでエレヴェイターが開き、ひとりの白髪の婦人が乗り込んできた。行き先は1階。最初からやり直しだ。そんな顔でショーンが彼女に目配せをしたので彼女が軽く笑うと、白髪の婦人が自分を笑ったのかと誤解したのか、少し不快そうにふたりを振り返った。
「素敵なスカーフですね、マダム。よくお似合いだ」――彼がそう言って最後に片目を瞑ってみせると、その婦人は、まあ、嬉しいこと、とまんざらでもなさそうな顔をしてエレヴェイターを降りて行った。
あのトムさんと言う人が彼のことを女たらし、と言っていたのは本当かも。しかも全年齢対象。
彼のその『実力』とやらを目の当たりにし、何となく彼女は身構えて、再び15階のボタンを押した。もう一度エレヴェイターが上昇を始める。
「……で、何だったっけ?」
「あー、えっと、そう!どうして私の名前を知ってたの?ってことよ」
「あー……それについてはクリフォード家の坊ちゃんに聞いてくれ」
「はあ?」
「変てこなガキだよ。いつまで持つかな、君」
「どういうこと?」
「会えば解る」
再び15階で扉が開き、今度こそふたりはそのエレヴェイターを降りた。


ナディア、と言う名の、50代後半くらいの、ちょっと厳めしそうなメイドがふたりを出迎える。入って直ぐのエントランスには真ん中に重厚そうな丸いテーブルが置かれ、大きな花瓶に花が活けられている。
薄暗い部屋の上を見上げると、昼間だと言うのに灯されたシャンデリアが、重厚な造りの部屋に柔らかな光と影のコントラストを生んでいる。そこはまだほんの入り口に過ぎないと言うのに、美術品のような調度品が醸し出す雰囲気が既に彼女を圧倒していた。
そんなふうに突っ立ったままのラムカを置いて、じゃ、頑張って、とショーンはあっさりとひとりキッチンの方へと行ってしまったので、彼女は急に心細くなってしまった。

ナディアがラムカを連れ、家のあちらこちらを案内しながらてきぱきと注意事項を伝え始める。例えば、ここから先は夫妻のプライヴェイト・スペースだから許可なく立ち入ってはいけない、とか、使用人はメインのバスルーム(トイレ)を使ってはいけない、とか、家族のプライヴァシーに立ち入るのは勿論のこと、それを外部に漏らしてはならない、とか、まあそんな類のものだ。
先日のランチでキャサリンは「好きにのびのびと、あなたのやりやすいようにやっていいのよ」と言ってくれたけど、このナディアという人はそれを許してくれなさそう、などと思いながら彼女の後をついて行くと、次の案内場所はキッチンだった。
「Welcome to my restaurant ! 」――ショーンが軽く笑ってラムカを出迎え、彼女は引きつった笑みでそれに応える。彼は仕事の手を休め、なんだか面白いことになってきたぞ、と言わんばかりに、シンクにもたれながら腕組みをして、面白そうに彼女達の様子を眺め出した。
冷蔵庫のドリンク類や、コーヒー、紅茶等はご自由に、とか(でもこちらの棚のものは奥様のものだから手を出さないで、とも言われたが)、坊ちゃんに余りミルクを飲ませすぎないで、ミルクやおやつは消費期限を必ず守ってね、とか、そういう細かい説明だった。彼が、くすくす、と笑っているのが聞こえたので、ナディアの目を盗んでこっそりと『何で笑うの?』と抗議の視線を彼に向けたが、彼は軽く肩をすくめてみせただけだ。

次にナディアが、そこはパントリー(食品庫)だと言って奥の扉を指差した時に、電話か何かの呼び出しの音が聞こえたので、Excuse me と言って彼女が席を外した。
ラムカがきょろきょろとしていると、中を見るかい?そう言ってショーンがパントリーの扉を開けてくれた。
そろっと顔を覗かせ、ダブルサイズのベッドが二台、余裕で入るくらいの広さに面食らい、Wow ! と思わず声を上げた。
食材のストックだけでなく、そこにはやミキサーやフード・プロセッサー、大きな鍋といった調理用の機械や器具、冷凍庫、ワゴン、予備の椅子など雑多なものが仕舞われていて、更に最奥のガラスの仕切りの向こうはワインセラーになっている。
パントリーの方が私のキッチンより広いなんて、この家って一体どうなってるの!?下手したら、あのワインセラーより狭いかもしれない!
「驚いたろ?」
「全くだわ!うちのキッチンの5倍は広いんだもの!」
感に堪えない、というふうに彼女が溜め息を吐いて首を振る。
「……Yeah , 本当に驚きだよ」
「?」
何だかしみじみとしたような声だったので振り返ると、驚いた、と言う彼の視線は、パントリーではなくラムカに注がれている。
どういうわけか、心臓がほんの少し動いたような気もするけど、気のせいだということにしておこう。
「……また会えるとは思ってもみなかった」
……またしても心臓が動いたような……
やっぱり気のせいじゃなかった? ううん、気のせいに決まってる。
曖昧に笑って、ええ、私も、なんて適当に返事をしたところで、向うの方から賑やかな声が近付いてきたので、彼女はそちらに気を向けた。子供の声だ。
「待ってたよ、シェリー!」
「?」
そう言ってキッチンに走って来た男の子の顔を見て、彼女は思わず、あっ!と声を上げた。

" はじめまして、シェリー。やっときみに会えた "

ラムカの脳裏に蘇る、あのどん底の日、セントラルパークでの不思議な出来事。あれは幻かと思っていたのに。ううん、思いこんでいた、が正解だったけど。
レイ……だったわよね?えーとえーと、私がセントラル・パークでこの子に会って、そのあとベティがこの子に会って、ミス・ベネットとこの子が繋がりがあって、ミス・ベネットはキャサリンのアシスタントで……キャサリンは……この子の母親?
ちょっと待って、どこをどう結びつければキャサリンとこの子が繋がる?どうしてこうなった??
情報を処理しきれず、ぼーっと突っ立ったままのラムカにくすくす、とレイが笑う。
「あの日言ったでしょ?シェリー。君にはそのうちいいことがあるよ、って」
「!」
「それがこのことだとは僕もしらなかったけどね」
それからレイはあの日と同じように手を差し出し、少しかしこまったように彼女を見上げた。
「ちゃんとフルネームで " じこしょうかい " するね。レイモンド・ジョゼフ・クリフォードだよ」
「Oh ! えーと、シェリル・ラムカ・テイラーよ。よろしくね、レイモンド」
「ら、ん?」
「ラムカよ。 L-A-M-K-A , ラムカ」
「ラムカ?かわったなまえー!」
「そうでしょ?」
「どこのくにのことば?」
「あー……そうね、ママがインド人なの」
「ふうん。じゃあ……『ナマステー、ラムカ!』 」
「! そうよ!よく知ってるわね!」
「僕ね、いろんなくにの 『 こんにちは 』 が言えるんだよ! 『 ありがとう 』 や 『 さよなら 』 も!」
「Wow ! 凄いのね!じゃあ……お部屋でゆっくり聞かせてくれる?」
「Sure !」

ショーンは、信じられない、というふうにゆっくりと首を振りながらふたりの会話を聞いていた。
僕もミス・シェリーに出会ったんだよ、ショーン!そう言っていたレイの言葉を彼はまるっきり信じていなかった。いや、信じないようにしていた。信じてしまえば、彼女やレイとの出会いを、運命的なものだと認めてしまうことになる。偶然の重なりに過ぎない、そう思い込んでこの数週間を過ごしてきたのだ。
レイは時折、未来を読むような変てこなことを言い出すが、きっと当てずっぽうのでたらめに決まってる。たまたま偶然が一致するだけさ――だから彼女との再会もまた、ただの偶然だと思い込むことにした。でなければやってられない。
シェリー、とレイが彼女を呼ぶ声を聞き、イネスのメッセージがふいに脳裏を廻る。彼は、ああ、と頭を抱えたい心境になり、ふたりに背を向け、再び仕事に戻ることにした。