Magnet 49 「If it's magic」












49. 「If it's magic」 ― もしもこれが魔法なら ― 





 マンハッタンの美しい夜景を臨みながら、二人は時間を忘れて色々な話をした。
 ラムカの名前の話をきっかけに、イタリアの血も引く彼のミドル・ネームであるEdoardo(エドアルド)にまつわる話に移り、彼女の父親のミドルネームも同じ名前の英語名・Edward (エドワード)だという偶然に驚き、そのうちに彼女の弟のラーイシュリヤの名前の由来にまで話は発展した。
 Raaishrya(ラーイシュリヤ)とはラムカと同様に母親が付けた名前で、インドだけでなく、色々な国の太陽神を参考にして作り出した名前なのだそうだ。
 頭文字の「Ra」は古代エジプトの太陽神「Ra (ラー)」から、また末尾の「rya」の文字はインドの太陽神「Surya(スーリヤ)」からで、その他の太陽神としては、ギリシャ神話の「Helios (ヘリオス)」や、インカ帝国で崇拝された「Inti (インティ)」、メソポタミア神話の「Shamash (シャマシュ)」など、いくつもあるらしい。
 それがきっかけで神話や歴史に興味を持った彼は、中でも特に古代エジプトに強く惹かれたようで、英国の大学でエジプト考古学を熱心に勉強しているのだという。
 彼は「僕もラムカも、一度は古代エジプト人だったことがある筈なんだ」というのが口癖で、人がエジプトという国に強烈に惹かれるのは、DNAの中にエジプト人だった時の記憶が残っているのに違いない、という独特の考えを持っているそうだ。


 それから後の話題としては、ショーンの料理に関するラムカの質問だったり、今まで観た中で最悪の映画は何だったか、で盛り上がったり、NYで一番美味しいピッツェリアについて激論を戦わせたり。
 そのうち、さすがに少しばかり冷え込んできたので、場所をカフェに移して温かい飲み物でも飲もう、ということになった。少し歩こうか、という彼の提案で、バイクは公園に停めたまま、すぐ近くのカフェまで歩くことにした。
 香り高いコーヒーを飲みながら、彼が今から8年ほど前に1年近く日本に住んでいたことやその時のエピソード、彼が空手やアイスホッケーを子供の頃からやっていたこと、出身はすぐ隣のニュージャージー州で、元警官の父親と元看護師の母親がそこで元気に暮らしているということ、アメリカ生まれのラムカだったが、6歳から11歳までは父の故郷である英国・ロンドンで暮らしていたこと、初めて母の生まれ故郷のインドに行った時の逆カルチャー・ショック、弟が今年の夏休みに英国から帰国するのが楽しみだということ、とにかく思いつくまま、ありとあらゆることを話して、あっという間に時は過ぎていった(弟の話でエジプトを思い出したラムカが、レイのスケッチブックに描かれたヒエログリフらしき絵の謎についてを初めて彼に打ち明け、その瞬間から二人の共通の『気になる事項』ともなった)。
 まるで、数年ぶりに会う友人同士が、会えずにいた時間を埋めるかのように話は尽きず、気付けばカフェも閉店の時間を迎え、時計を見て、あと30分足らずで日付が変わりそうなのに二人して驚きの声を上げた。
 結局、『悲しみの女王』の座に着いたその訳を聞きそびれた、とショーンが言い出したが、それは保留とされた。


 DUMBO地区*からの帰り道、彼女は不思議な気持ちで目の前の彼の背を見つめていた。
 初めてこのバイクに乗った時にはあんなに怖かったのに、それが今ではどうだろう。すっかり彼に命を預けた気になっている。
 思いもよらなかった楽しい時間を彼と過ごし、そしてその終わりが近付いている。それに対して寂しさを禁じ得ないことが、彼女には信じられない思いだった。
 やがて自分の住むアパートメントが見えてきて、とうとうその時間が訪れてしまったと覚る。――そう。この夜が、とうとう終わってしまうのだ。
 このままバイクでどこまでも走ってくれたらいいのに。ふっとそんな思いが湧いて、胸の辺りがぎゅっと潰されてしまったような痛みが走る。
 馬鹿ね、また明日会うのに――彼女は慌てたように自分自身にそう言い聞かせ、止まった彼のバイクから降りた。

 彼のほうも今、全く同じ思いを抱いていることを、この先彼女が知ることはあるだろうか。そしてまた、彼のほうも。
 二人は心を隠して「また明日」と言い、初めての『友人としてのキス』をぎこちなく頬に重ね、そして、笑顔で別れた。
 彼は再びバイクのエンジンをかけてからも、彼女が部屋に灯りをつけるまでを見届けるように、ずっと窓を見上げている。
 やがて灯りのついた窓からデーヴィーを抱いた彼女が姿を現し、デーヴィーの前足を持って「Bye」と振りながら彼を見送った。



 やがて彼女の視界から、彼が完全に姿を消した。彼女の世界、このブルックリンから。
 彼女はゆっくりと部屋の中央に戻り、腕の中のデーヴィーを撫で、暫く余韻に浸るようにぼうっとしていた。
 そのうちに腕の中からデーヴィーが逃亡して、彼女は漸く正気を取り戻す。
 そして思い出したようにバッグから携帯電話を取り出して電源ボタンを押し、そして、ショーンからのメッセージに気付いたのだった。
 彼に番号を教えた覚えはない。バッテリーも切れてはいなかった。メッセージの届いた時間を確認して、その時間には彼がこの電話を持っていた筈だと思い出し、いったいどういうこと?と恐る恐るメッセージを開いてみた。
「勝手に登録したよ、ごめん」――素っ気無いメッセージに思わずぷっと噴き出し、唇に指先を当てた。
 そう、たったそれだけの、言ってみれば事務的な報告のメッセージに過ぎないのに、彼女にはそれがまるで、彼からのサプライズ・プレゼントのように思えたのだ。 
 その短いメッセージを何度も読み返し、その度に胸が高鳴るのを自覚して、彼女は慌てたように携帯電話を胸に押し当てた。
 どうやら彼は、アッパー・イーストからブルックリンまで瞬間移動しただけでなく、携帯電話にまで魔法を仕掛けたらしい。
 そして、仕掛けられた魔法は、まんまと彼女の心に作用してしまった。ほんの数分ほど後に、彼女はそれを知ることとなる。
 ただし、今、この時は――

 ――どうしよう、ベティ――

携帯電話を胸に押し当てたまま、彼女は長い時間、呆然と立ち尽くした。











 マンハッタン、ウエスト・ヴィレッジ。
 届いた郵便物をチェックしながらドアの鍵を開け、彼はそれらをドア横のテーブルの上に、ぽい、と適当に投げ置いた。
 そのまま部屋の奥まで進み、ベッドにどかっと腰掛ける。上着も脱がずに「ふーっ」と大きく息を吐きながら、上半身だけをごろん、と横たえた。
 頭の下に腕を組み、しばらく天井をぼうっと眺める。そのうちに、瞳を閉じ、「ラムカ」と小さく呟いた。
 エキゾチックな響きのする、その名前の意味に思いを馳せ、もう一度「ラムカ」と声にする。
 そのうち、明るい声で「Hi , ラムカ」と言ってみたり、低い声で「Hi , ラムカ」と格好つけて言ってみたり、つまり、「ラムカ」と呼ぶためのシミュレイションのようなことを始めたのだ。
 何て子供じみた馬鹿げたことをしてるんだ、と頭の奥で声が聞こえる。
 これでは完全に間抜けじゃないか! こんな姿、絶対に彼女には見せられない!
 そう思い、最後のつもりでもう一度だけ「ラムカ」と口にした時に、まるで返事のように、絶妙のタイミングで彼の携帯電話が鳴った。
「Oh ! 」――ビックリして飛び起き、上着やジーンズのポケットをあちこちとまさぐって、ようやく見つけた携帯電話を見れば、それは何と彼女からの返信のメッセージだった。
 さっきの「Hi , ラムカ」の練習が聞こえた筈はないだろうに、彼はベッドの下に隠れてしまいたい心境になり、冷や汗をかいた。
 しばらくためらった後、恐る恐る彼女からのメッセージを開いてみる。
 " ピッツァは誰が何と言ってもグリマルディーズよ! ブルックリン万歳!"――予想もしない彼女の返事に声を上げて笑い、" じゃあ今度、そこでマルゲリータでも食べながら『悲しみの女王』の話を聞こう " ――そう返信しようとして、しばらく考えた後、メッセージを途中で消し、携帯電話を耳に当てた。









 再びブルックリン。
 彼にメッセージを送信した後でバスルームへ行こうとすると、プルルル……と家の固定電話のほうが鳴った。
 きっとベティだ! 慌ててソファーのクッションの山から電話を引っ張り出し、受話器を耳に当てた。

「Hello ?」
 " やっと捕まえたー! "
「Hi , Betty」
 " もうー、何で電源切ってたのよ? ちょっと! まさか彼と一緒にいるとか言わないでよ!? "
「何? 聞こえない!」
 " ちょっとミシェル! 音小さくして! "
「またレニー?」
 " 知らん。ナントカってやつ。それでさ、例のプレゼントの件なんだけど、帰りにあちこち寄ってみたわけ。そしたら――あれっ、電話! "
「え?」
 " 携帯鳴ってない?"
「Oh ! 」
 慌ててテーブルに手を伸ばし、それを取り上げる。ディスプレイに表示されている『Sean Cooper』の文字。彼女は大きな目を更に大きく見開いた。
「ごめん! かけ直す!」
 " Wha―― "

 がちゃんと大きな音を立ててベティとの電話を切り、彼女は少し緊張した面持ちで携帯電話を耳に当てた。
「……Hello ? 」
 " Oh , Hi "
「Hi」
 " 驚かせたかな? ごめん "
「うん、ちょっとだけびっくりした」
 " えーっと……今、大丈夫? "
「ええ、大丈夫よ。どうかした?」
 " いや、実は……君に返信しようとしてたんだけど、電話の方が早いかなって思って……いや、その…… "
「Oh ! 確かにそうよね。ふふっ」
 " ……… "
「?」
 " ……So…… "
「Yeah ? 」
 " ……I……Uum…… "
「?」
 " ……I……just wanna say…… "(ただ言いたくて……)
「……?」


 " ……Good night , Lamka " ――おやすみ、ラムカ――






 ふーっ!――大きく息を吐き、再びベッドにバタン、と転がる。
 Shit ! やっぱりテキストにしとくんだった!
 どうせならいっそのこと、電話で直接「ラムカ」と呼んでみればいい、そう思い立ったのだが、彼はそれを後悔し、ぎゅっと目を瞑って顔を手で覆った。耳や頬がかっと熱くなり、まともに目を開けていられなくなったからだ。
 何10代のガキみたいなことやってんだ!? 女好きのトムをして「この女たらし」と言わしめたこの俺が、名前を呼ぶ練習だって!? おい、何かの冗談だろ!?
 思わず彼は、ああ!と声を上げ、明日彼女に会わせる顔がない、と思いついて、再び頭を抱えた。
 F**k ! 俺は一体どうしちまった!? 何やってんだよ!
 彼は拳を額に乗せ、それでがんがん、と自分の額を軽く殴るようにして、気持ちを鎮めようと努めた。
 けれど、鎮めようとすればするほど、自分の格好の悪さにまた、ああ、と溜め息は漏れるばかりだ。
 " おやすみ、ショーン "――最後に彼女が僅かな沈黙の後で呟いたその声が、耳の中で何度も繰り返し鳴り響いている。
 瞳を閉じれば、デーヴィーの前足を振りながら「Bye」と2階の窓から見下ろしていた、あの笑顔がいつまでも目蓋の裏に貼り付いている。
 頬にキスを重ねた時の少し緊張した様子と、その後の照れたような顔。彼女の家に近付いた頃、ぎゅっとしがみ付くように力が込められた手。
 そしてあの「ありがとう」と言った時の柔らかな笑み。あの時の動揺がまたしても彼の胸をゆらゆらと揺らすのだ。
 鎮まるどころか胸の高鳴りは増す一方で、少しも言うことを聞いてくれやしない。
 そうだ、その場所はきっと、何年も使われていなかったせいで、久しぶりのことに暴走を起こしてしまい、鎮まり方を忘れてしまったに違いない。

 ……参ったな……

 彼はしばらくそうやって転がっていた。それ以上考えることもせず、起き上がることもせず、何もかもを放棄したように、ただ時が過ぎるのを待つように。
 だが、やがて観念したように大きく息を吐き、拳を額に乗せたままで、くっくっく……と笑い始めた。
 もういい加減認めちまえよ、ショーン――頭の隅から、そう声が聞こえる。
 彼女の携帯電話をテーブルに見つけた時、宝物を掘り当てたように高揚したくせに。
 そう。彼自身、本当は気付いていたのだ。彼女に出会ってからいつの間にか育っていた、このどうしようもなく厄介で手に負えない感情の存在を。
 説明のつかないその感情が、答えを求めるように、一気に彼女に向かって走り始めたのだ。彼女の携帯電話をこの手に拾い上げた、その瞬間から。
 すぐに彼女を追いかけるために残りの仕事を終わらせ、気が付けばバイクにまたがり、それをブルックリンへと走らせていた。
 車と車の間をすり抜け、思いつく限りの近道を試し、彼女の街へと急いだ。まさか自分の方が先に到着するとは予想もしなかったが。
 先に待っていた彼を見つけた時の、彼女の驚いた顔と言ったら――思い返すだけで笑みが零れる。と同時に、胸の辺りを焼き焦がされるような痛みも感じてしまう。
 やはり厄介だ。とても手に負えそうにない。
 けれど、今の彼にとってそれは、もはや受け入れ難いものではなくなっていた。それ(・・)を頑なに拒み続けたあの日々は、もう終わったのだ。


 ただし、そう彼がはっきりと自覚するのは、もうあとほんの少しだけ、先のことになるだろう。
 何しろ今はただ、その日何度目かの溜息を吐き出して、胸の波間にゆらゆらと身を任せ、横たわることしか出来ずにいるのだから。



 同じ頃、ブルックリンの "女神 "の家では、再び携帯電話を胸に押し当てたままの彼女が、やはり呆然と立ち尽くしていた。