Magnet 48 「Get closer」












48. 「Get closer」 ― 接近 ― 






 ブルックリン・ブリッジ・パーク 7:50 p.m.


 イーストリヴァーの上を滑るフェリーの汽笛が響きわたり、美しい夕焼けから主役の座を奪い始めたマンハッタンの夜景に吸い込まれ、掻き消されていく。
 この春はおかしな気候に悩まされていて、汗ばむほどに暑い日が続いたかと思えば、この時期とは思えないほどに冷え込んだり、と予測のつかない毎日を繰り返していたが、その日は春らしさを実感させてくれるような一日で、ここ数日のうちでも過ごしやすいと感じられる夜だった。
 デリかベンダー(屋台)で買って外で食べようか、という彼の提案を受け、この界隈で一番よ、とラムカが奨めるイタリアン・デリで買ったのは、練りこまれたピスタチオのグリーン・カラーが目を惹くモルタデッラ*のスライスが数枚と、黒オリーブとオレンジの果肉が入ったシチリア風のサラダ、ナスを使ったタプナード*、そしてこの店で一番人気の、その場でこんがりとプレスしてくれるパニーノ*
 パニーノの中身は、ズッキーニやナスなどの野菜のグリルとパンチェッタ*スカモルツァ*を選んだ。
 それからサン・ペレグリノ*の小瓶と、カチカチに凍ったままのカタラーナ*(これはラムカが食べたがった)。
 キャンドルが灯るような暗い店で面と向かって見詰め合う、そんなロマンティックなシチュエイションはお互い避けたかったのだ。
 例えそれがカジュアルなピッツェリアだったとしても。気恥ずかしいだけでなく、クリフォード家のキッチンでの気まずさもまだ、はかとなく残っていたから。

 でも目の前の美しい夜景を目にしては、やはり場所のチョイスを間違えた、と彼女は密かに後悔していた。
 普段は観光客を含め多くの人々で賑わう公園だが、夜は対岸のマンハッタンの夜景を眺めながら、ロマンティックな時間を楽しむ恋人たちが多くなるからだ。
 彼の方はと言えば、夜景も周りの恋人たちも、さして何の感慨も無さそうにパニーノを豪快にがぶりと齧っては、美味い、とそれをサン・ペレグリノで流し込んでいて、ロマンティックさの欠片もない。
 そして、彼女の眼には、それがとても好ましく映った。
 本当ならば、今頃はキャサリンと熱い時間を過ごしていたかもしれないのに。
 それが非難されるべきことか、或いは干渉すべきことではないかどうかの議論はこの際どこかへ置いておくとして、キャサリンの誘いに乗ったような顔をしていた彼が、その魅惑的な(と思われる)誘いよりも、自分の携帯電話の方を選んだという事実が、いまだに信じられない。
 何より、こうしてベンチに並んで腰掛け、お気に入りのデリのパニーノを彼と仲良くシェアして食べている、そのことの方がもっと信じ難い出来事だった。そしてそれを思いのほか、楽しんでいる自分も。


「――もっと食べなよ」
「ううん、もういい」
「そう? うーん、確かに俺のタプナードのほうが美味いけど。だけどこれも悪くないよ」
 タプナードを乗せたメルバトースト*を差し出し、彼が豪語する。彼女は軽く笑い、それをやんわりと断るように手のひらを向けた。
「ほんとにこれはもういい。それより……」
「うん?」
「本当に……これで良かったの?」
「何が?」
「だって……その……」
「ああ……」
 ラムカの言いたいことを察した彼は、軽く笑ってサン・ペレグリノを喉に流し込んだ。
「あの夫婦の駆け引きに利用されるなんてまっぴらだよ」
「!」
「君が携帯電話を忘れてくれて、正直助かった。まあ、どのみち本気にするわけないけどさ」
 続けざまに彼の口から飛び出した、思いもよらない言葉たち。本当のこと言ってる? それとも本心を隠してる?
 どうしてだろう。それが真意かどうか確かめたい思いに駆られている。
「……Seriously?」
 本気なの? 信じられない。まるでそう言いたげな彼女の表情。
 彼はその反応に苦笑すると、やれやれ、といった顔で彼女のほうへ向き直った。
「Look , 他人の家にいて、その家の子供が寝てるんだ。天使みたいな顔でさ。その隙に、隣の部屋でその子の母親と火遊び?」
「!」
「悪いけど、そんなのちっとも趣味じゃないよ」
「……Oh」
「意外だった?」
 彼女に向って彼が片眉を上げる。その通り図星だったので、まあね、とでも言いたそうな顔で彼女が肩をすくめた。
「Oh , そりゃ期待を裏切って悪かったね」
 彼女のその反応に対し彼は、心外だ、とばかりに皮肉めいた言葉を返した。
「だって、まんざらでもなさそうだったもの」
「確かに……惜しいことしたかも」
 ほら、やっぱり! そんな顔を向ける彼女に彼は、冗談さ、とばつが悪そうに軽く笑ってみせた。
「ああいうやり取り自体は嫌いじゃないし、楽しませてもらったよ。でも……彼女はフィルに当てつけたいだけなんだろ」
「!」
「結婚してる女とは寝ない。面倒なのはごめんだし。……って言うか、そもそも彼女の夫は俺の友人だろ? ありえないよ」
「……そうよね」
「まったくさ」
 ありえない、と首を横に振る彼を見て、あら、案外モラルあるのね、そう憎まれ口を叩こうとした彼女は、その言葉を飲み込んでしまった。
『結婚してる女とは寝ない』、そう言う彼の言葉に、キャサリンが口にしていた『奥様』『お悔やみ』――それらの言葉が脳裏に甦ったからだ。


 突然知った彼の過去の断片。正直なところ、それをもっと詳しく知りたいという気持ちが湧いたのは事実だ。
 でもプライヴァシーを軽々しく尋ねるほど、彼と親しい間柄だとは言えないし、興味本位であれこれ詮索したがる女だと思われたら不本意だ。
 と言うよりも、彼女自身、そんな思いが湧いたこと自体に戸惑っていた。
 彼の過去を知りたいと思うことは、つまり、彼をもっと知りたいと思うことに他ならないから。
 クリフォード家を飛び出した時、あんなに頭の中がぐちゃぐちゃと乱れたのはきっと、キャサリンと彼との怪しい雰囲気だけではなかっただろう。
 彼にそんな過去があったなんて。何の前触れもなく、それを突然知らされたことに、心がぐらぐらと大きく揺さぶられたのに違いないのだ。



 さっきから黙り込んでいるラムカを見遣り、彼はまだ半分凍ったままのカタラーナを袋から取り出して、彼女に手渡した。
「Oh , thanks」
「……それで? どこから聞いてた?」
「え?」
 ああ、あの会話ね――動揺を覚られないようにさり気なくそう言って、彼女は再び押し黙った。
 結婚、奥様、お悔やみ。それらの言葉をどう組み合わせて会話を進めれば良いのだろう。何しろ、今の時点で彼女が知っている彼とそれらの言葉が、何一つ結び付かないのだ。
 耳にしたままを口に出せば済むことなのに、どういうわけか、一向に言葉が出てこないでいる。

「……交通事故だったんだ」
「!」
 彼女の葛藤と困惑を察知したのだろうか。彼が自分から話を再開し始めた。
「6年前の大雪の時さ。あの時君も東部にいたなら覚えてるよね? あの酷い雪の日のこと」
「ええ……ええ、よく覚えてる。本当に酷い雪だった」
「そう、あの日さ。スリップした大型トレーラーが彼女を乗せた車に……」
 バン!と言いながら、彼が手のひらと指先を交差させるようにぶつけ合った。
「!? No !」
「大雪で何もかもが混乱していて、救助も遅れてしまったんだ。それで……」
「Oh……Oh , I 'm sorry(それはお気の毒に)…… so sorry」
 ありがとう、そう呟いて、彼は気を取り直したような笑みをラムカに向けた。

「次は君の番」
「え?」
「うんと悲しいやつをたのむよ」
「Why ?」
「Hey , 俺だけをドラマ・クイーン*(悲劇の主人公気取り)にさせる気かい? そいつは不公平だろ?」
 彼の自虐的な言い分に、思わず彼女がぷっと噴き出し、その瞬間、少し重苦しかった空気が一変した。
「いいえ、そうはさせないわよ。こう見えてもね、『悲しみの女王』の座を何度か手に入れたんだから」
「『悲しみの女王』? 何だい、それ」
「ほら、あれよ、シャーデーの『King of sorrow(悲しみの王)』って曲、知らない? 少し古い曲だけど、悲しげでとても美しいの」
「あー……覚えてるような……いや、どうかな」
「知ってる? その曲のタイトルから着想を得てるんだけど、まあ言わば仲間内でのちょっとしたお遊びってわけ」
「へえ、どんな?」
「そうね、何人かでお酒なんか飲んでる時に、最近それぞれの身に起きた、ちょっとした不幸話を披露し合ってその日のQueenかKingを決めるの。家を出る前に窓で指を挟んだとか、ダサい格好してる時に限って、お洒落な彼女連れの元彼に出くわしちゃったとか、大概がそんな他愛も無いことばかりなんだけどね、QueenやKingに選ばれるとみんなから1杯奢って貰えたりもするの。該当者なしって場合もあるけど」
「うーん……悲しみの王か……俺は悲しい王なんてゴメンだな」
「そう? じゃあ……何の王になってみたい?」
「あー……」
「Come on ! 」
「……エジプトのファラオ、とか?」
「何それ!」
 ラムカが盛大に噴き出した。両手を広げ、何で笑うんだよ、と言いながら彼もつられて笑っている。
「Oh ! そう言えば弟がエジプトマニアなの! あなた達、きっと話が合うと思う」
「おいおい、言っとくが俺はマニアなんかじゃないぞ。極めて一般的なレヴェルの単なるエジプト好きだ」
「何故否定するの? マニアを恥じることはないのよ? あなたがヒエログリフを解読出来ると言っても、少しも驚かないわよ」
「本当にマニアじゃないって! ……まあ昔、犬にラムセスって名前付けたけどさ」
 いつまでもくすくすと笑うラムカを軽く睨み、やれやれ、といった顔で、彼は残りのサン・ペレグリノを飲み干した。


「ああ、そうだ」
 犬と言えば、と彼が突然何かを思い出したような顔を向けた。
「猫の餌なんだけど」
「うん?」
「缶詰が幾つか家に残ってるんだ。よければあげるけど?」
「Uum……どうかしら……実は缶詰のをあげたことないの。食べてくれるかな」
「本当に? ずっとドライフードだけ? ぜひ試してみるべきだよ」
「そう? んー……OK、じゃあ試してみようかな」
 賞味期限切れだったら返品よ――そう彼女が笑うので、彼は鼻に皺を寄せた。
「あなたも猫を飼ってたのね」
「あー……飼ってたわけじゃないんだけど、その……」

 数か月前、車に撥ねられたか何かで、酷い怪我をして道端で死に掛けていた子猫を拾い、甲斐甲斐しく世話をしたのだが、時すでに遅く、結局命を救うには至らなかった。
 缶詰は子猫を拾ってすぐにインターネットで注文したもので、子猫が回復したらそれを食べさせるつもりだった。結局、その子猫がそれを口にすることは、一度もなかったのだが。
 何故だかそれを打ち明けるのが気恥ずかしく思え、どういうわけだか家に缶詰があってさ、とか何とか、適当に言葉を濁して話題を変えた。

「猫は何歳?」
「3歳よ。デーヴィーっていうの」
 Oh Jeez ! ――彼は心の中でそう声をあげた。以前、酔った彼女を家に泊めた時、彼女が無意識に口にした名前、David(デイヴィッド)。実際は彼の聞き違いで、彼女はあの時Devi(デーヴィー)と言ったのだが。
 てっきり「あの男」の名前かと思っていたのだが、まさか猫の名前だったとは。
「Wha?」
 何かを思い出したように小さく笑う彼に、彼女がいぶかしげな顔を向ける。
「Oh , never mind(何でもない)」
「What!(なんなの?)」
 様子のおかしい彼に、彼女がさっぱりわけがわからない、という仕草をしてみせた。
「あー……ごめん」
 いつまでもくすくすと笑う彼に彼女が再び「どういうこと?」という顔を向ける。
「いや……前に君がうちに泊まった時にさ、寝言みたいにデーヴィーって言ったのを、俺がデイヴィッドって聞き違えたんだ。それを思い出して」
「No , デーヴィーは女の子よ。DavidじゃなくてDevi。D-E-V-I , サンスクリット語で『女神』ってこと」
「へえー、女神か。そいつはクールだ」
 なるほどね、という顔を見せた後、彼が目を瞑って「Oh, Devi, Devi, Devi ……」と数回繰り返したので、彼女はまたしても怪訝な顔を彼に向けた。
「何なの?」
「だって『女神』ってさ、セクシーな存在だと思わない? 名前を唱えたら、ゴージャスな女神が光臨してくれるかもしれないだろ?」
「はあ!?」
「『デーヴィー』なら……そうだな……Oh ! きっとセクシーなボンデージ・スーツの女神に違いないよ! Wow! まさにキャット・ウーマンだ!」
 何よ、それ!――再び盛大に噴き出して、彼女は散々笑った後、呆れたように首を振った。



 何だか調子が狂ってきた気がする。この人、もっと気取ったタイプだと思っていたのに。
 ……悔しいけど、確かにグッド・ルッキングな人だってことは認める。
 でもどこか斜めに構えてて、女を軽視してる遊び人、そんな自分を少しも恥じていない軽薄な男――出会った時にはそんなふうにしか見えなかった。
 けれど、本当のことを言ってしまえば、真摯で心優しい部分を芯に持つ『ちゃんとした人』だと、頭の中では彼をそう評価しているのだ。
 何度も彼のそういう部分を目にしながら、それを素直に受け止めることが出来ずにいたのは、間違いなく彼への偏見だったのだろう。
『ハンサムな男には心を簡単に許しちゃ駄目よ』――何しろ口煩いミナル伯母さんに子供の頃からそう言われ続けてきたし、こういうタイプは苦手だと言い聞かせて避けてきたから。
 何よりもグッド・ルッキングな男は、プロムの相手だったハイスクール時代のボーイフレンドで懲りていた。
 そう言えばミシェルにも『ハンサム・アレルギー』だと言われたんだっけ。じゃあやっぱり……彼へのつれない態度はアレルギー反応だったのかも。
 そう。ハンサムで女好きな男には、最初から出来るだけ近付かないに越したことはない。その方が面倒なことにならないに決まってる。だから距離を置かなくちゃ。
 ……そう意地を張っていたと認めるべきかも。




 一方、彼の方も彼女に対して、同じような思いを抱いていた。何しろ、こんなに快活に笑う彼女は、それまで見たことがない。
 彼に対しては大体不機嫌そうに接していたし、笑っていてもどこか警戒しているようだったから。
 嫌な女を演じているというのか、そういう仮面を常に被っているようにしか見えなかった。
 それが今、目の前にいる彼女ときたらどうだろう。まるで別人のようによく笑い、素直に振舞っている。ようやく心を開いて打ち解けてくれた、と言えばいいのだろうか。
 そしてそれを素直に嬉しい、と感じ、心が浮き立つような感覚に戸惑っている。
 例のデイヴィッドの件が単に自分の聞き間違いだと知ったことも、心が浮き立つ原因のひとつなのには違いないだろう。
 あの時彼女の心の中にあったのは、あの男ではなく、大切な飼い猫のことだったのだから。


 名前、と言えば、今まで彼女を『シェリー』としか呼んだことはなかったが、『ラムカ』とそう呼んでみたい、という思いが湧いた。
 いや、実のところ、そう思ったのはこれが初めてではなかった。何しろ彼女の風貌には『シェリー』よりも、『ラムカ』のほうが断然、相応しいように思えるからだ。
 けれど、親しい友人にしかそれは許されていない気がして躊躇していた。実際彼女をそう呼べるのは、彼女の世界の住人だけだろう。
 彼女の世界に住むことを許された住人だけが彼女を『ラムカ』と呼んでいる、それはつまり、彼女自身がそう呼ばれることを望んでいるのに違いない。
 ラムカと呼んで――そう言われたことが一度としてないことが、口惜しくさえ思えてくる。
 でも、いきなりそう呼ぶのは何となく気恥ずかしいし、何よりも、勝手にその名を口にしてしまうのは、神聖な名を汚すことのような気さえした。
 それで彼は、気後れすることなく『ラムカ』と口に出来る方法を思い付き、それを試した。何しろずっと知りたかったことでもあるのだ。

「――Deviの意味も知ったことだし」
「うん?」
「もうひとつ、訊いてもいいかな」
「何を?」
「君の、その……『ラムカ』って名前の意味」
「Uum……ひと言で説明するのはとても難しいの。長くなっちゃうけど、いい?」
「もちろん」


 彼女が言うのには、こういうことだった。
 インドの古語のひとつであるサンスクリット語。ヨガの用語や仏教に関する用語として、またインドの公用語の一つとして、現在も知られている言葉だ。
 そのサンスクリット語で蓮の花のことを『Padma(パドマ)』 と言う。
 実際には『Pundarika プンダリーカ (白蓮花)』『Kamala カマラ(紅蓮花)』『Utpala ウトパラ(青蓮花)』『Nilotpala ニーロートパラ(青睡蓮)』『Kumuda クムダ(白睡蓮・黄睡蓮)』など、種類別にそれぞれ名称があるのだが、ひとつの概念として、Water lily(睡蓮)も Lotus(蓮)も区別なく、全てを総称して『Padma(パドマ)=蓮の花』とされているのだと言う。
 そして、その蓮の花『Padma(パドマ)』に乗った姿で描かれるヒンドゥー教の神の一人、『Lakshmi(ラクシュミー)』。
 ラクシュミーとは、美と豊穣と幸運を司る女神である。
 亡くなった彼女の母親が、それらの言葉の文字をいくつか組み合わせて作った呼び名、それが『Lamka ラムカ』なのだという。 
 彼女の母親曰く、Lamkaとは『世界にたったひとつだけ咲く、とても特別な蓮の花』、つまり『かけがえのない大切な宝物』――そういう思いが込められているのだそうだ。

「――本当はあくまでも家族が呼ぶためだけのニックネームのつもりだったから、母も半ばお遊びでそういう名前を考えたらしいの。ダイレクトに『Lakshmi(ラクシュミー)』とか『Padma(パドマ)』って名前を持つ人もけっこういるんだけど、 私の母はユニークな考えの持ち主だったから、ありきたりじゃない、ちょっと変わった名前で私を呼びたかったらしくて。……と言うのも、母の出身地ではそうやって、戸籍上の公式名とは別の誕生名って言うか『全く別の呼び名』を持つことは少しも珍しいことではなくてね。 母自身も『シュリーヤーナー』という名前が正式名だけど、家族や周りからは戸籍に載っていない『マリカー』って別の名前で呼ばれていたの。サンスクリットで『ジャスミン』のことなんだけどね」
「戸籍に載ってない別の名前? 良く解らないな。ニックネームとは違うの?」
「あー……ニックネームと言えばそうなんだけど、この場合はもっと正式なものに近くて」
「???」
 まったく訳が解らない、と言いたそうな表情で彼が肩をすくめる。
「OK , 例えば戸籍上の名前が『シェリル』でも、家族や周りがその子供を別の名前の『ラムカ』として日常的に扱っていれば、学校でもその子供は『ラムカ』でオッケーなわけ。解る? ウィリアムをウィルやビルと略して呼ぶのとはまるで意味が違うの。 何の繋がりもない、全く別の名前なのよ。まあ早い話、名前を2つ授かって、一つは戸籍用で一つは日常用、って言うと少し乱暴かもしれないけど。そもそもインドという国は、地方や宗教によって名前の付け方に違いがあったりして、そこらへんとても複雑で私もよく解らないんだけど、 とにかく、母の出身地では公式名の他に呼び名を持つことがとても一般的で、母はその慣習を家族内に持ち込もうとしたのね。でも父が、ここアメリカでは私本人も周りも混乱するだろうし、とても良い名前だから正式なミドル・ネームにしよう、って言い出して、それで……」

 そう、それはとても素敵な由来の名前だね――彼が心から感動してそう言うと、ありがとう、そう彼女が素直な微笑みを返した。
 その微笑みに、彼は胸のあたりをギュッとつままれたような、甘い痛みのようなものを感じて戸惑った。こんな優しい眼差しの柔らかな笑みを、彼女が自分に向けてくれたのは、おそらくこの時が初めてだっただろう。
 思わずドキリ、と鳴った心臓の音が彼女に聞こえやしなかっただろうか。彼は動揺を隠そうと、思わず唇をキュッと固く結んでいた。
 さっきのキャサリンの時みたいに、いつも女を相手に、気障な台詞や色っぽい駆け引きをクールな顔で楽しんでいたくせに、話す相手が彼女だと調子が狂ってしまうのは何故なんだろう。照れ臭かったり、向けられる笑顔が純粋に嬉しかったり、笑われて格好悪いと落ち込んだり、何故だか、妬いてしまったり。
 そう、彼女と居ると、まるで10代の子供に戻ってしまったような感情が湧き出て、それに振り回されてしまう。
 セントラル・パークで言い争ってしまった時にも感じたことだが、女の前で素の自分をここまで曝け出すこと自体が信じられない。
 そして彼は後にそれを後悔したのだが、やはり子供じみた、間抜けな質問(と、彼は自分でそう思った)を彼女に向けてしまった。
 君が嫌でなければの話だけど、自分もそう呼んでも構わない?と。
 そう尋ねた彼に彼女は一瞬きょとん、とした後、くすくすと笑った。
「もちろんよ! どうして嫌だと思うの?」
「だって……俺にはそう呼んで欲しくないだろうと思ってた」
「Oh……」
 少し思い当たる節があったのだろうか。彼女が口篭り、肩をすくめた。
「決してそんなつもりはなかったの。ただ……ほら、さっきみたいに意味を訊かれたら説明が長くなっちゃうから、初対面の度に説明するのも大変なの。それに一般的には、仕事の場や公的にはファースト・ネームを名乗るでしょう? 有名人でもない限りね」
「確かに」
「友達はラムカって呼ぶけど、元はと言えば、いつから誰がそっちの名前で呼ぶようになったのか分からないの。たぶん、子供の頃家に遊びに来た友達が、家族が私をそう呼ぶのを見て面白がって真似したんだろうけど、まあ、気付いたらそうなってて。 私もラムカのほうがしっくりくるから、もうそういうことにしちゃえって、いつの間にかラムカを名乗るようになってたってわけ」
「なるほどね」
「それに……」
「うん?」


『何より、母が授けてくれた名前だから……』