Magnet 37 「 Midnight plot 」












37. 「Midnight plot」 ― たくらむ女たち ― 





アッパーイースト  1:15 a.m.



いつになく、遅い時間まで酒を飲んだせいだろう。バスルームに行くために夫がベッドを何度か出ていくから、彼女も眠りにつくことが出来ないでいる。
いや、仮に夫が隣でぐっすりと眠っていたとしても、彼女が眠れないことに変わりはなかった。
あの日クローゼットで、夫の携帯電話に届いた女からのメッセージを目にして以来、また彼女の不眠の日々が始まってしまったのだから。
バスルームから戻り、ベッドに身体を滑り込ませたフィリップが、向こうを向いて眠る妻の頬に、後ろからそっと唇を寄せる。
「起きてたのか」
「……」
返事をする代わりに、彼女は夫の方へと向き直るように体勢を変えた。
「なかなか寝付けなくて。賑やかな夜だったせいね、きっと」
「そうだな」
「ねえフィル、今夜はありがとう」
「? 何のことだい?」
「だって、休日も出勤して疲れてるのに、招待客の相手までしてくれたんだもの」
「客って言ってもショーンやミゲルじゃないか。俺の友人でもあるんだし、いい気分転換になって楽しかったよ」
「そうだ!フィル、あなたミゲルがゲイって知ってたの?」
夫の出した男の名前を聞いて、思い出したようにキャサリンが声を上げた。
「Uum……この場合、どう答えればいいんだか……」
「?」
「……男とも寝たことがある、それは知ってた。だけど……」
「! バイセクシャルってこと?」
「いや、はっきりと聞いたことはない。だけど、彼はゲイじゃないと思う。少なくとも以前はそうだった」
「ふーん……彼、ヴァレリーといい感じだと思ってたのに。まさかの展開よね」
「ヴァレリー? そうなのか?」
「やだ、去年の創立パーティーの夜にあの二人、壁際でいい雰囲気になってたじゃない。あなた彼らと毎日一緒にいて、何も気付かないの?」
「気付くも何も、彼ら険悪なんだよ?」
「そうなの? じゃあやっぱり何かがあったのね……」
「Hey , 他人のことはいいよ。それより―――」
「―――きゃっ!」
「眠れないなら他のことをしよう」
「ん……」
甘いキスを重ね、首筋を滑る夫の熱い唇。いつもなら甘い吐息で応える彼女だったのに。夫の唇の温もりも、今の彼女には、苦痛を生む辛いものでしかない。
この唇が、同じように浮気相手の肌をさまよったのだ。幾度となく。そう考えただけで、吐き気がこみ上げた。
「……What’s wrong ?」
反応を見せない妻に、夫が小さく呟く。ふーっと息を吐いて、彼女は手のひらを青白い額の上に乗せた。
「ごめんなさい……そんな気になれなくて」
そんな気になれない。そんな簡単な言葉だけで言い表せる感情ではなかった。けれど、他に言葉が浮かばなかった。彼女自身、このどろどろとした感情に戸惑っていたのだ。とても便利な言葉だと、後に彼女はそう思い至ることになるのだが。
フィリップは視線を逸らしたままの彼女の頬に手を添え、自分の方を向かせるように軽く力を込めた。
「キャス、どうかしたのか?」
「……仕事でトラブルがあって、それにパーティーでしょ?とても大変な一日で疲れたの。それに……」
「? What ?」
「レイもまた変なこと言い出したし、ちょっと気になって」
「レイ? ああ、あのことか」
本当は、今夜の息子のあの発言を、彼女も心底気にしていたわけではなかった。夫を拒んだ言い訳のひとつとして、そのことをさも心配の種のように持ち出してみせただけなのだ。
そのくせに、『何だ、そんなくだらないことか』とでも言いたそうな夫の口ぶりが、腹立たしく思えてしまう。
「心配いらないよ。少なくとも、レイ自身は楽しそうにしてるんだ。きっと悪いことじゃないし、そのうちに成長と共に消えるよ」
「……本当にそう思うの? それって楽観的過ぎない?」
「かもしれない。だけど、検査では何も異常は見つからなかったんだ。大丈夫さ」
「……そうね」
「キャス、どこへ?」
「レイを見てくるわ。あの子も今夜は興奮してたから、眠れていないかもしれないし」
ベッドを抜け出し、静かに寝室のドアを開く。裸足のままで廊下に出たせいで、床の冷たさが彼女の足の温度を奪って行くのを感じるが、彼女は気にも留めずに子供部屋へと向かった。
いつでも君は心配しすぎなのさ―――夫にそう言われる前に、会話を止めてしまいたかった。この種の話になると毎回、まるで彼女が悪いかのようにそう言われてしまうから。
いや、夫は決して私を責めようとして言っているのではない、安心させようとしてくれているのだ、それは理解している。確かに彼女は必要以上に心配してしまうところがあって、考え過ぎだったと後になって思い至ることが多かった。
けれど、今、夫にそう言われて平静を保っていられる自信が持てなかった。
彼女は、今夜のレイの発言についてを話したい訳ではないのだ。かと言って、例の女の話を持ち出す覚悟も、まだ持てない。
少し前には開き直ったような、もうどうでもいいと言うような気持ちでいられたのに、携帯電話へのメッセージを目にしたあの日以来、怒りや不安と言ったネガティブな感情にとらわれてしまい、そんな自分が、自分自身嫌になってしまうのだ。



子供部屋の前で彼女は小さく息を吐くと、そうっとドアを開き、息子のベッドへとゆっくり歩みを進めた。静寂の中、小さい寝息が規則正しい音を立てている。
床にひざまずくように腰を落とし、静かに眠る息子の寝顔を見つめた。ほんの少しだけ開いた唇から、真っ白い小さな歯が覗いている。
このまま朝まで息子の寝顔を見ていても、少しも飽きることはないだろう。本心を言えば、寝る間を惜しんででもそうしていたいと思うことがある。
彼女の母親は、彼女の兄である息子を溺愛したものだ。そんな母親に反発したこともあったが、今なら解る。母親にとって、息子がどれだけ愛おしい存在であるかが。
彼女はふっと笑みを漏らし、息子の額にそっと唇を置いた。そして、再び息子の寝顔を見つめることに、決して短くはない時間を費やすと、やがてゆっくりと立ち上がり、子供部屋のドアを静かに閉めた。
夫婦の寝室に戻ると、夫は眠りに落ちていた。見れば、胸元に本を乗せたままで眠っていた。一応は彼女を待っていようとしたのだろう。
起こさないように用心しながら、夫の胸元からそっと本を持ち上げ、ナイトテーブルの上に置いた。
そして軽く逡巡した彼女は、再び寝室を出て、次はキッチンへと向かった。やはり眠れそうにないので、軽く一杯引っかけるためだ。
キッチンの傍まで来ると、中から物音がした。ナディアだった。
やはり彼女も眠れずにいたらしい。何か温かい飲み物でも作ろうかと、紅茶の置いてある棚を開けたところだった。
結局はモルドワイン*でも作って飲むことにした。彼女には詳しいレシピは解らなかったが、ナディアが時々それを作って夜中に飲んでいるであろうことは解った。慣れた手つきで赤ワインとスパイスを入れた鍋を火にかけたからだ。
出来上がりの最後、カップに注いだそれにグラッパ*を一滴、もしくは二滴垂らすのがナディアのこだわりらしい。
そう言えば、と彼女は手元のモルドワインにふーっと息を吹きかけて冷ましながら、ナディアの方へと目を向ける。
「今夜は驚かせてごめんなさいね、ナディア。ゲストのパートナーがミゲルだったなんて、私も知らなかったの」
「……いえ、奥様が謝ることでは……」
週末のパーティーのゲストのことなんだけど、その中に男性カップルが一組だけいるの。我が家でそれを目にするのはあなたにとって不快かもしれないから、前もって伝えておくわね―――あらかじめキャサリンはナディアにそう断りを入れていた。
敬虔なカトリック信者であるナディアへの配慮のつもりだった。それがまさか、あんなことになるとは。
「知っていたの? つまり……その……」
「息子の性的指向ですか?」
「ええ、まあ……そうね」
そのことに対しては、ナディアは曖昧な表情を返すのみだった。それがかえって、親子の溝の原因はそこなのだろうと推測出来てしまったのだが。
「私のせいなんです。あの子に歪んだ結婚観を植え付けてしまったから」
「歪んだ結婚観?」
「……話せば長くなります」
「Oh , いいのよ、無理して話してくれなくても」

ナディアの過去は、フィリップから聞いたことがあった。ミゲルがまだ子供の頃に、ミゲルの父親の浮気が原因で離婚したのだと。
フィリップもミゲルから聞いた話らしいが、詳しい経緯はよく知らないと言っていた。
彼女は、フィリップが子供の頃からの長きに渡って、クリフォード家に仕えているメイドのうちの一人で、キャサリンとの結婚の際に、フィリップが実家から連れてきた人間だ。
それ故に、夫婦の間に何かあれば、躊躇いなく夫の肩を持つ、そういう存在だと思っていた。だから、夫の不貞を打ち明ける相手としてふさわしいとは言えないだろう。そもそもメイドにそんなことを話すべきではない。
けれど、同じことを経験したであろうナディアにすがりたい思いが生まれたのも事実だった。誰にも言えず、一人で悶々と抱え込んでいたから、出来るものならばどこかで吐き出してしまいたかった。もしかしたら今がその時なのだろうか。それとも―――
「―――奥様? どうかなさいました?」
「え?」
どうしようかしら、と逡巡している顔つきが、余程思いつめたような深刻なものに見えたらしい。
「息子の件は奥様のせいじゃありませんし、どうかお気に病まないでください」
「ああ、違うの。いえ、もちろんそれもあるけど、その……何て言うか……」
「何かお困りのことが?」
「………そうね」
気遣うようなナディアの表情から手元のモルドワインへと視線を落とし、キャサリンは小さく息を吐いた。
「……彼が……私を裏切っていたの」
「!? 旦那様が、ですか?」
「ええ」
「ああ、奥様」
そう言ってナディアはキャサリンの腕をそっと撫で、小さく首を振った。
「今も続いているのですか? 旦那様と、その……」
「………わからない……もう会ってはいないように感じるんだけど」
「……そうですか」
「ごめんなさい、ナディア。あなたにこんなことを話すべきじゃないって解ってはいるの。でも、あなたなら、その……」
キャサリンの言いたいことを理解したように小さく頷き、ナディアはしばらくの間、何かを考え込むように視線を止めた。
「奥様、私は……旦那様や奥様、お二人のことに立ち入ることが許される立場ではありませんし、そもそも立ち入るつもりもありません。でも……この件に関してだけは言わせてくださいますか?この家のメイドとしてではなく、奥様よりうんと長く生きている女の言葉として」
「ええ……ええ、もちろん」
「時間はかかるでしょうが……もしこれが一度きりの過ちなら、どうか旦那様をお許しに」
「……」
ほら、やっぱりね―――夫を擁護するようなナディアの言葉に、彼女は軽い失望を覚え、心の中で小さくため息を吐いた。
「私のように、それが出来ずに後悔することだけは……」
だが次の瞬間、思いもよらないナディアの言葉に、先ほど生まれた失望はすぐにかき消された。後悔、というその言葉が、心に別の波を立てたのだ。
「……後悔、しているの?」
キャサリンのその問いかけに、ナディアはふっと軽く笑った。
「もちろん、今ではもう吹っ切れていますよ。もう20年以上も前のことになりますから。でも……別れたあとしばらくは、後悔の念に苦しみました。もう一度、彼にチャンスを与えるべきだった。許すことが出来なくて、修復する努力もせずに、一方的に彼を拒絶してしまったんです」
「……愛していただけに、裏切られて沸いた憎しみが大きかったのね」
「その通りです」
裏切られてもなお、本心では別れた夫をまだ忘れられずにいた、そうナディアは言った。
「私が間違っていた、まだ彼を愛してる、そう気付いた時にはもう、夫は違う女と新しい生活を始めていたんです。悔やんでも悔やみきれませんでした。息子が寝静まった後、酒を飲んでは泣き暮らしましたよ。今だから言える話ですけどね」
「Oh……」
「でも、このままじゃいけない、いい加減前に進まなければ……ある日息子の寝顔を見ていてそう気付いたんです。それでマンハッタンを離れて、クリフォード家に仕える仕事を……」
「そうだったのね……」
「奥様、私の目には、旦那様は奥様を深く愛しておられるようにしか見えませんよ。きっと何かの間違いです」
「……そう思いたいけど、でも……」
「そう信じるのです。どちらにしても、奥様のほうが立場上有利なんですから、堂々と構えていればいいんです。何なら旦那様にお仕置きの一つでもして差し上げればいかがです?」
「お仕置き!?」
ナディアのその提案に驚き、一瞬間を置いたあと、2人してぷっと吹き出した。
「……そうね、それも悪くないかも」
「私が奥様なら、そうですね……ある日突然、何も知らせずに旦那様一人を置いて、どこかカリブあたりにでもバカンスに行きますよ。
飛行機をチャーターして、坊ちゃまと子守りと料理人も連れて、キッチンとプール付きの広いコテージでも借りて、当然費用は全額旦那様持ちで。ああ、もちろん私も連れて行ってもらいますけどね」
「ふふっ、それもいいわね」
「少しくらい懲らしめてやっても罰は当たらないと思いますよ」
ああ、今のは私のもう一つの後悔ですけどね。どうせ別れるならお仕置きのひとつでもしてやれば良かった―――そうナディアは笑った。