Magnet 38 「 Her 」












38. 「Her」 ― 彼 女 ― 





日曜日  五番街  12:15 p.m.


翌日、早めの昼食をとったあと、レイを連れ、家族3人でミッドタウンへと出かけた。老舗のおもちゃ屋がじき閉店してしまうので、その店に別れを告げるためだ。
レイのみならず、母親であるキャサリンもこのおもちゃ屋には数々の思い出があった。映画やドラマにも幾度となく登場した、言わばNYの歴史的な名所でもあった。
そこで時を過ごしたその後、レイのための新しい絵本や図鑑など、何かしらの本を見繕うために、今度は本屋へと立ち寄った。
本屋では偶然、自然環境に関する本を出版した著書による読書会とサイン会が行われていて、かなりの人手で混雑していた。
3階の児童書のコーナーも通常よりも混雑していたが、運よく椅子が空いていたので、レイが興味を示した本をそこで開いて読むことが出来た。
フィリップは経済学関連の書籍を探しに、別のフロアーへと移動していたが、しばらくして夫がそこに置いて行った上着のポケットから携帯電話の音がした。
クローゼットで見つけた時と同じように、メッセージが届いたことを知らせる短い着信音だ。
堂々と構えていればいい―――昨夜ナディアにそう言われたばかりだが、やはりどうしても気になって仕方がない。そのメッセージが誰からのものなのかを知りたくなり、夫の上着に視線を向けた。
いけない、見ては駄目よ、そう言い聞かせてはみるものの、やはり居ても立っても居られない。意を決して上着に手を伸ばそうとしたところで、夫本人がそこへ戻って来てしまったので、彼女は笑みを貼り付けた顔で夫を見上げた。
「メッセージが届いてたわよ」
「そう?」
さり気なく無関心を装って彼が携帯電話をチェックするのを横目で盗み見た。仕事用の電話のほうだった。
フィリップは、会社のトップとして、休日でも何が起きるか分からないから、という理由でその携帯電話も持ち歩いている。
実際そのメッセージもヴァレリーからのものらしかった。昨日受け取った書類に関する確認のようだ。
彼がそのメッセージに返信しようとしていると、今度は着信音が鳴り、彼は反射的に携帯電話を耳にあてた。
「Hello ?」
“―――― “
「Who is this ?」
“―――― “
「! Oh……Um……その件なら、テキストを送ろうかと……Hold on」
外で話して来るよ―――電話で会話しながら仕草でそう伝えると、フィリップは向こう側へと歩き出した。
「―――レイ? ママ、パウダールームに行ってくるから、ここから動かないでね。いい子にしてここに座ってるのよ?わかった?」
「うん、わかったー」
「いいわね?ここにいるのよ?すぐ戻るから」
彼女は息子をそこに残し、こっそりと夫の後を追った。夫は電話で話すために外へ出るはずが、非常階段への扉をこそっと開いてそこへ消えた。
心臓がばくばくと音を立てた。この扉の先で一体何が起きているのか。彼女は息を止めて、ゆっくりとその扉を開いた。
階段の下の方から声が聞こえる。フィリップの声だ。
彼女は螺旋状に続いている階段の手すりにそっと摑まるようにして、下の方を覗き込んだ。
黒く長い髪の女とフィリップだ。女はキャサリンのほうからは後ろ姿しか見えなかったが、彼女はすぐにある特定の人物を思い浮かべていた。
息子の子守りであるシェリーだ。まさかそんな馬鹿な、そう思ったが、後ろ姿がシェリーと似ているように見えたのだ。
「―――解ってるのか? これはストーカー行為だ」
「ふふっ、どうしてそうなるの? 偶然ここにあなたがいたから挨拶しようとしただけじゃない。それともあの場に顔を出した方が良かった? 可愛い坊ちゃんと奥さんの前に」
「家族に近付くな!」
「Oh , あなたの家族になんか何の興味もないわよ―――」
違う、シェリーじゃない。そう気付き、彼女はホッとしたように瞳を閉じた。だが、次の瞬間、思わずあっと声を上げそうになり、息を呑んだ。
振り返った女の顔が見えたのだ。あれは、まさか……!?
動転した彼女は、その場を離れ、児童書のフロアーへと戻った。太い柱の陰に隠れ、胸に手を当てて呼吸を整えた。
間違いなくあれは、5番街で友人のアリーと一緒だった女、先日のパーティーで話しかけてきた、あのヤスミンという女だった。
つまりあの日、彼女を彼の妻だと知っていて、さも親し気に話しかけてきたということだ。
そして彼女への挑発として、あのキスマークと花束を差し向けてきたのもあの女なのだ。
あの日の屈辱を思い出し、沸々と怒りが込み上がるのを感じた。
でも、これでようやく相手が誰なのかを知ることが出来た。例えまた嫌がらせをされたとしても、見えない敵に怯える日々ではもうなくなるのだ。
それに夫のあの口ぶりから言って、やはりもう関係は終わっている。そう確信した。いや、そう信じたいだけなのかもしれないが。
瞳を閉じ、大きく息を吐き出したところに、4歳くらいと8歳くらいのお揃いの服を着た姉妹が、可愛らしい声で話しながら彼女の目の前を通り過ぎて行く。
その姉妹の声によって現実に引き戻された彼女は、ハッと思い出したようにレイが座っていた場所へと目をやった。
「レイ!?」
ここから動かないでと言ったはずなのに、レイが席にいない。彼女は慌ててそのフロアを見渡した。
彼女が身を隠したのと同じ太い柱や、更に配置された家具のレイアウトのせいで死角になった場所がいくつかあり、ざっと見渡したところではレイの姿を見つけることは出来なかった。
「レイ!? レイ!」
整えたはずの呼吸が再び乱れるのを感じながら、もはや先ほどの夫のことなど、頭から完璧に消え去っていた。
彼女の心配をよそに、座っていた場所から離れた場所で、レイは若い男といた。レイには背が届かない本棚から男が本を取り出して、レイに渡しているところだった。
「レイ!」
「あ、ママだ」
「あの椅子に座っててねってママそう言ったでしょ!? どうしてママのお願いが聞けないの!? 心配したじゃないの!」
「ごめんなさい。だってちがう本がよみたくなっちゃったんだもの」
レイに本を取ってくれた若い男が、所在なさげに彼女とレイの顔を交互に見て、額を指で掻く仕草をした。
「Oh , ごめんなさい。この子が何かご迷惑をおかけしたんじゃ……」
「No , No , とんでもない。見てて危なっかしかったんで、ついおせっかいを」
男はそう言って、上段の本を取るための、子供用の赤いプラスティック製のステップを指さした。
「上級生用の本を欲しがるなんて、とても賢い子だね」
「ありがとう。えっと……」
「ああ、僕はジョシュ、よろしく」
「―――レイモンドだよ!レイって呼んでね」
「OK , レイ」
「キャサリンよ。ご親切にどうも」
ジョシュと名乗った男は、キャサリンとレイと交互に握手を交わすと、じゃあ、と手を振って去って行った。
「レイ、いい?」
キャサリンは膝を床に着くように腰を落とし、レイの目線と自分の目線を合わせながら、息子の両腕を掴んだ。
「ママ、さっきは感情的に怒ってしまって悪かったわ。ママがあなた一人をここに残していなくなったことのほうが何倍もいけないことなのに。悪いのはあなたじゃなくてママなのに。ごめんね、レイ。でもね、よく聞いて」
「うん」
「ママはあなたがそこにいない、って気付いた瞬間、胸が張り裂けそうになってしまったの。どうにかなってしまいそうだった。わかるわね?」
「うん」
「レイノルド叔父さんの話はしたわよね?」
「うん、ママのいなくなった『おとうと』なんでしょう?」
「そうよ」
「だいじょうぶだよママ。ぼく、まいごになるのはいやだし、しらない人にもついていかないよ。それにあぶないときにはバディがおしえてくれるんだ」
「まあ、そうなの? それは頼もしい”相棒”ね」
いらっしゃい、そう言ってキャサリンが息子をぎゅっと抱きしめる。そこへフィリップが戻って来て、一体何事だ?と声をかけた。
ダディ!―――見上げる息子を夫が抱き上げる。息子の頬へ唇を寄せる夫を見つめながら、彼女は立ち上がってそっと息子の脚に手を置いた。
息子の小さい体から、温もりが手のひらに伝わる。その温もりに安堵するかのように、彼女は瞳を閉じて息を吐いた。



その夜、彼女は夫の腕の中で、甘くかすれた声を上げた。腕を彼の背中に、脚を彼の腰に絡ませて。
何故、そんな気になれたのかはわからない。ただ、純粋に、抱き合いたいと思った。
あの女への対抗心のようなものかもしれない。或いは、何かを証明したかったのかもしれない。彼に愛されている実感が欲しかったのか、それとも、自分の気持ちを確かめたかったのか。
答えはわからなかった。考えれば考えるほどに、心が混沌としてしまうのだ。
寝息を立てる夫の顔を見上げる。昼間の光景などなかったかのように、満ち足りたような、邪気のない顔だ。
彼女は少し呆れたように小さく息を吐き、こっそりベッドを抜け出して、キッチンへ向かった。目的はやはり、酒だ。
昨夜ナディアがモルドワインに一滴垂らしたグラッパをショットグラスに注ぎ、勢いよく喉に流し込んだ。強い酒に喉や胸が焼かれる感覚は心地良かったが、少々むせて咳込んだ。
夫と抱き合ってみても、あの女の顔が、昼間のあの光景が、頭から消えることはない。そう思い至り、苦々しい思いでグラッパを再びグラスに注いで、そこで彼女はハッと思い出したように瞳を開いた。
あの日、五番街で友人のアリーと一緒にいたヤスミンに会った時。『彼女』に似ているような気がしたことを思い出したのだ。
『彼女』を思い起こさせる女と浮気をしていた―――そのことがどういう意味を持つのか。
ああ、と彼女は思わず声に出し、指先で目の両端を押さえるようにして瞳を閉じた。
何故気付かなかったのだろう。浮気そのものは大して問題ではなかったのだ。そう覚った。
視界がぐらぐらと揺れ始めるまでグラスを何度も口に運び、しばらくしてようやく彼女は寝室に戻った。ベッドの横に立つと、夫はやはり静かに眠っている。
胸に暗い火が点った。彼女は再び夫の隣に身を横たえると、夫に背を向け、声を殺して泣いた。











ニュージャージー州  パーシッパニー・トロイヒルズ  2:40 p.m.


驚いた水鳥たちが一斉にバタバタと羽を広げるのを横目に、彼はバイクを止めてヘルメットを外し、しばらくの間、その湖を眺めることに時間を費やした。
彼が脅かして羽をばたつかせた水鳥たちは、再び呑気に水面をゆらゆらと漂い始めたが、彼がバイクのエンジンを吹かすと、大きな音に驚いて、またしても羽をバタバタさせながらヒステリックな声を上げ始めた。
Sorry , と水鳥たちに向かって手を上げ、彼はゆっくりとバイクをスタートさせた。
緩くカーブを描く道が続き、湖から距離が遠のくのに比例して住宅の数が増えていく。そのうちに、住宅が立ち並ぶ緑豊かな一角から少し進むと、さらに緑が増し、林が見えて来る。
その林を背に、焦げ茶色の屋根とベージュ系のレンガの壁を持つ一軒の家があり、その家の前で彼はバイクを止めた。
ヘルメットを外して髪の毛をかき上げるように整えていると、家の中から姉のケイトが出てきて、彼に手を振った。
姉に向かって片手を上げ、彼は久しぶりに実家のドアの前に立った。
「Hi , Sean」
「Hi ! Katie」
姉のケイトとハグして中に入り、リヴィングルームを見回す。
「ダディは今出かけてるの。アルとクリスも」
「Baseball?」
「Yeah , マムなら寝室よ」
早速2階に上がり、両親の寝室のドアをノックする。返事がしないので、そっとドアを開けると、ヘッドボードに背を預けるようにしてベッドの中にいる母親のスーザンが瞳を開いた。
「Oh , Sorry」
「No ! Come here ! My boy」
「Hi Mom !」
ベッドに腰かけて母親にハグし、挨拶のキスを交わす。温かい母の手が、すっかり広くなった末息子の背を何度も行き来する。
「ケイティったら大げさね。あんたまで呼び寄せるなんて」
「No , no , 寝てなきゃ駄目だよマム」
「ああ、でもこうして顔を見せてくれるなら、体調崩すのも悪くないわね」
母親のスーザンはそう笑って息子の頬を撫でた。
姉の電話ではとても気分が悪そうで心配したのだが、思っていたよりも母親の顔色が良かったので、彼はホッと息を吐いた。
「医者には?」
「いつもの目まいよ。前に処方された薬がまだあるし、わざわざ医者に行くまでもないのよ」
「本当に?ちゃんと検査とかしたほうがいいよ」
「Oh , あんたも心配性ね」
「マムに似たんだよ」
「まあ」
元気にしてるの? ああ、元気だよ。 新しい仕事のほうは?上手くいってるの? もちろん。順調にいってるよ―――そんな他愛もないやり取りをしばらく続けていると、姉のケイトがコーヒーとクッキーをトレイに乗せてやって来た。
「マムもダディも、あんたがあの店辞めちゃったから、もうあんたの料理を食べに行けないって残念がってるのよ」
「フィルの家に来れば?」
「馬鹿なこと言わないの。招待もされてないのに」
「Oh , 彼元気なの?」
「Yeah , すっかり大企業のCEOが板に付いてる。立派なもんだよ」
「へえー、子供の頃はよく泣いてたのにね」
「姉貴が泣かせるからだろ? 近所の男の子はほとんど全員、一度は姉貴に泣かされたはずだよ。ほんと男勝りだったよな」
「ふふっ、覚えてなーい」
「よく言うよ」
そんなふうに彼らはしばらく軽口を叩き合って時を過ごしていたが、母親を再び横にならせて休ませることにした。
1階に下り、ショーンがキッチンの冷蔵庫を開ける。そんな弟の背後を通り過ぎ、ケイトはキッチンの椅子へと腰掛けた。
「何か作ってくれるの?」
「What the fuck ! この家の冷蔵庫は何でいつもこう……カオスなんだよ。前回俺が整理してからまだ4か月しか経ってないのに」
「4週間もたなかったよ」
「マジかよ」
「……ね、ショーン」
「うわ、これ腐ってる。これもやばそう」
「ショーン、聞いて」
「Wha !?」
「まずは礼を言うわ。来てくれてありがとう」
「And ?」
「もっと頻繁に顔を見せてやって」
「Uum……冬はなかなか来れないって知ってるだろ?雪降るし」
「ここは南極大陸じゃないの。バイクが無理なら電車で来ればいいでしょ?」
「今時南極だろうが宇宙だろうが、スカイプとかFacetimeで顔見れるのに?」
「そういう問題じゃない。解ってるでしょ?」
「Oh , まさか……どこか悪いの?」
「No , そうじゃないけど……最近すごく不安がるの」
「不安?」
「マムらしくないわよね。でもそうなの。ダディの姿が見えないってパ二くって電話かけてくるし、今朝もめまいがするって、この世の終わりみたいに嘆いて電話してきて」
「じゃあ何でダディはマムを置いて出かけたんだよ」
「あたしが来たから、もう出かけていいって。あの子たちの野球があるから連れて行けってマムが」
「また更年期とか?」
「どうかなあ」
ふーっと息を吐き、冷蔵庫を閉めると、ショーンもキッチンのテーブルの椅子を引き、そこへどかっと腰を下ろした。
「歳のせいで不安になってるんだと思う。去年ビル伯父さんが亡くなったじゃない?その影響もあるかも」
「歳のせいって、まだ64だろ?」
「そうだけど、不安なものは不安なのよ。明日どうなるかなんて誰にも分らないし」
「不安ね……それならセラピストに診てもらうべきじゃ? 俺が顔を見せたところで、解決する問題だとも思えないけど」
「Are you serious ? マムにとってあんたがどんだけ大事な存在か解ってる?」
Oh God―――勘弁してくれよ、と言わんばかりに、彼は手のひらで顔を覆った。
長男と9歳も離れて出来た末の息子への、過度とも言える愛情と期待に、応えたい気持ちがないわけではなかった。両親を深く愛しているし、彼らから貰った無償の愛には感謝しかない。
けれど、それに時々プレッシャーや息苦しさを覚えるのも正直な気持ちだった。傍から見れば、愛情を一身に受けて育った、要領の良い苦労知らずに見えるかもしれないが、末っ子には末っ子なりの苦労や悩みがあるのだ。
特に彼のように、親の期待に応えているとは言えない人生を送っていると。
「ショーン……あんたがこの土地にあまり帰って来たがらない理由は解ってるつもり。あんたを責めるつもりはないの。ただ―――」
「―――解ったよ。冬も終わったし、もっと帰ってくるようにする。だからもうその類の話はやめてくれ」
「Oh , じゃあ何を話す?」
「I don’t know ……姉貴の尻に敷かれて可哀そうな彼氏の話とか?」
「失礼ね!そんなことしないわよ」
「早く彼に会わせてくれよ。そこんとこ確かめたいから」
「No ! あんたとは会わせない!今決めた!」
「Whaaat !?」
大丈夫だって、子供の頃、近所の男子全員泣かせてたなんて余計なことは喋らないから―――そう笑う弟を軽く睨み、姉のケイトは弟の手に自分の手を重ねた。
「真面目な話、本当に、本当に素晴らしい人よ。知っての通り、ろくでもない男ばっかりだったから戸惑うくらいにね」
「Oh , that’s good for you」
嬉しそうに微笑む姉の手を握り返すように包み込み、ショーンは笑みを収めて姉の瞳を見つめた。
「姉貴は幸せになるべき人間だよ。心からそう願ってるし、そのために俺に出来ることがあれば何でもする」
「ありがとう」
うっすらと瞳を潤ませ、ケイトは再び弟の手に自分の手を重ねて微笑んだ。
「あんたは? 本当に誰もいないの?」
「What ?」
「愛してる人。大切な人。ううん、ただ気になる子でもいいけど。いないの?そういう子」
「………」
「!」
いるのね!? と言いたげに驚いた顔を見せる姉に向かい、ショーンは軽く笑って首を横に振った。
「No no no , 今の沈黙は絶対誰かのこと考えてた。正直に言いなさいよ」
「Nope」
「Hey , come on !」
「No , I just ……」
そう言ったきり、小さく首を振る弟を見つめ、ケイトは辛抱強く言葉の続きを待った。いつもなら、何もないだの、ほっといてくれだのと言い切って話題を変えたがる彼が、言葉を探しているようだからだ。
「……先に姉貴の幸せを見届けたら考える」
「What !? またそうやって誤魔化す気?」
「誤魔化してないよ。順番は守ろうよって話」
「ふん、まあいいわ」
期待したような答えを弟はくれなかったが、それでも姉のケイトは内心満足していた。この間まで頑なだったはずの、弟の変化を感じ取れたからだ。
「Look」
「うん?」
「あんたにプレッシャーを与えるつもりはないけど、これだけは言わせて」
「何」
「あんたこそ幸せになるべき人間よ。長くて冷たい冬はもう終わったの。いつまでも怖がってないで、そろそろ前に進むべきってこと」
「……かもな」
「枯れるにはまだまだ若すぎよ!でももう遊びまくる歳でもないんだからさ」
「あー……最近遊んでないな、そう言えば」
「Oh ! That’s good for you !」
そうやって姉弟がキッチンで話していると、父親のヘンリーがケイトの息子二人を連れて帰宅した。
それからショーンは甥っ子二人を連れて買い出しに出かけ、さらに二人に手伝わせて、久しぶりに家族のために料理を作った。
そして夜にはマンハッタンに帰るつもりでいたのをやめて、その日はそのまま両親の家に泊まった。
翌朝、マンハッタンに戻る途中、再び彼に驚かされた湖の水鳥たちが、バタバタと羽を広げてヒステリックに声を上げている。Sorry , と水鳥たちに手を振り、彼はマンハッタンへとバイクを走らせ続けた。
交差点で信号を待つ間、彼は昨日の姉との会話を思い返していた。
あの時、心に浮かんだ彼女と、数時間の後に会うことになるのだ。その考えは、彼の気を重苦しくさせた。
本当は、心の反対側では、全く違う思いが生まれている。だが、彼がそれをはっきりと自覚するのは、もう少し先のことになるだろう。
やがて信号が青に変わった。彼は邪念を振り払い、気を引き締めて、ゆっくりとバイクをスタートさせた。