Magnet 27 「 Another Saturday 」












27. 「Another Saturday」 ― もうひとつの土曜日 ― 





 ミッドタウン 11:50 p.m.


「ラムカ、上手くいくかな」
「どうだろう。彼本気で困ってたみたいだし。ちょっとやりすぎたかも」
「でもあれくらいしなきゃ、あの二人の距離ちっとも縮まらないじゃない。毎日顔合わせてるのに」
「ラムカはともかく、彼の気持ちがいまいちよく解らないんだ。迷惑かけて彼女が嫌われちゃったら台無しだよ」
「その時は別のプラン考えるわよ」
「おっと、やる気満々」
「そりゃあもう!」

 ミシェルとベティのふたりは、バーを出たあと、流れのままブロードウェイ通りを歩いていた。
 土曜日の夜のせいもあったのだろう、タイムズ・スクエアに近付くにつれ、他人と肩がぶつかりそうになる頻度が増していく。
 ラムカとショーンの話をしつつも、彼女の頭の中は、昨夜のラッセルとのことをまだ何もミシェルに報告していない、そのことでいっぱいだった。ミシェルは今日サロンの仕事を休んでいて、一日顔を合わせていなかったし、さっきのバーでも話しそびれてしまったのだ。
 まあ家に帰ってからゆっくり話せばいいか、そう思い、昼間仕事中に起きたあれこれを業務連絡のように話したりしている。
 そもそもミシェルのほうこそ、ラッセルとのデートをセッティングしたくせに、そんなことは忘れたような素振りなのが彼女は気に入らない。もしかしたらラッセルのほうから連絡があったのかもしれないけど、それでも何かしらひと言あってしかるべきじゃない? そんなふうに思ってしまうのだ。
 本当のところ、何故ラッセルを拒んでしまったのか、上手く説明出来る自信はなかったのだが。
 そしてあの夢の1件以来、何となくミシェルに対して気まずい思いを抱いてしまう。
 そんな彼女の複雑な思いをよそに、彼はポケットの中で鳴った携帯電話を取り出すと、ごめん、電話、と言ってベティから離れ、道の向こう側へと行ってしまった。
 いつもなら彼女が隣にいようが、気にも留めない彼だったのに。
 こそこそしたようなミシェルの様子に彼女は苛立ち、ミシェルを置いてそのまま歩き出した。

「――Hey, B!」

 しばらくして、後ろからミシェルが彼女を追いかけるように声をかけた。

「Betty!」
「……何」
「I gotta go ! (行かなきゃ)」
「……あっそ」
「ちゃんと鍵かけといてよ。じゃあね!」

 はぁ、と息を吐いて振り返ると、何だか嬉しそうな軽い足取りで彼が向こうの方へ歩いて行くのが見える。
 ラッセルとのことを訊くそぶりすら見せないなんてどういうことよ。それとも上手くいったと勝手に思い込んでる?
 何の言葉もないなんて、あたしのことなんてどうでもいいってことなの?
 彼女は何だか自分が透明人間になってしまったように感じ、その後ろ姿をぼんやりと見送った。













 ウエストヴィレッジ 0:20 a.m.


 やっとのことで彼女を3階まで担ぎ上げ、部屋の鍵をがちゃがちゃ、と開けているところで彼女が「気持ち悪い」と言い出した。
 慌てて部屋に入り、急いで彼女をバスルームに運び込むと、すぐに彼女がトイレットへ吐き始めた。
 女の酔っぱらいの世話は久しぶりだが、決して初めてではない。何をしてやれば良いのかは、大まかにだが覚えがある。だから、彼女が吐き始めてすぐに髪の毛を持ち上げてやったのだが、間に合わなかったようで、髪の毛を少しばかり汚してしまった。
 それで彼は洗面台でタオルを濡らし、彼女の汚れた髪をそれで拭いた。
 何度か吐いてすっきりしたのか、彼女が「水、水」と小さい声で繰り返した。洗面台にある古ぼけたホーローのマグカップに水を入れて渡してやると、彼女はその水で口をゆすぎ、それをまた吐き出すことを数回繰り返し、やがてふらふらと立ち上がった。

「Devi? どこなの?」
「おっと!」

 足がもつれて倒れそうになる彼女を支え、バスルームから部屋に戻ると、ベッドを見て安心したのか、彼女は「No ! No ! No !」と言う彼の手を振り切ってそこへバタン、と倒れ込んでしまった。

「Hey ! ソファーで寝てくれよ!」
「zzzzz……」
「Come on , come on , come on !」

 彼女を揺り起こそうと何度も試みたが、全くもって起きる気配がない。

「……For God’s sake ! *(ったくもう)」

 そう恨みがましく呟くと、彼は仕方なく彼女の靴を脱がせ、そしてうつ伏せに倒れ込んだ彼女をひっくり返すようにして横を向かせると、同じベッドに腰掛けて彼女を見下ろした。
 初めはブルックリンまで送って行こうと思っていたのだが、よくよく考えてみたら、彼女のアパートメントのロック・パスワードを知らない。
 かと言ってエントランス前に彼女を置き去りにするわけにもいかないし、あのまま店に置き去りにするわけにもいかないし、でほとほと困り果てた彼は、仕方なく、自分のアパートメントに連れ帰って来たのだった。
 抱き上げてソファーまで運ぼうかとも思ったが、思いの外すやすやと静かに眠る彼女を見ていると、それも気が咎めた。
 ちょっと待てよ、ここは俺の家だ、何で俺が気兼ねしなきゃならない? そもそも何でこんなことになった?
 「じゃあね」と席を立ったミシェルとベティの顔を思い出し、やれやれ、と呆れたように首を振り、もう一度彼女の寝顔を見下ろした。
 鼻や口元に垂れる髪をそっと払いのけてやると、横を向いて眠る彼女の、耳の下の大きいピアスに目が留まった。痛そうに見えて何だか気にかかる。外してやるべきか放っておくべきか少し躊躇したが、やはり外すべきなんだろう、そう思い、そっと両耳から輪っかになったピアスを取り外して、ベッド脇の小さいチェストの上に置いた。
 余計なことをするな、と目覚めた彼女が怒り出しそうだが仕方がない。女の耳から飾りを外すのは、男の仕事と決まっている。彼がそれを知っていたかどうか定かではないが。

「……んん」

 子供のような甘えた声を出し、気持ちよさそうに眠る彼女。まったく……人の気も知らずに、暢気なもんだ。
 昨夜から連日、彼女には振り回されてばかりいる。そう思えて仕方がない。実のところ、彼は男を振り回す類の女は苦手だ。
 彼女ときたら、いつでも予想もしない反応ばかり見せるし、他の男の前で恋人のふりをしてくれ、などという難題を与えてくるのだから始末が悪い。
 正直、困ったと言うよりは、存外に楽しんだハプニングではあったのだが。

「……」

 何故そうしたのかは解らない。気が付けば、眠る彼女の頬を、手の甲でそっと優しく撫でていた。
 不思議なことだが、何故だか彼女の寝顔にとても懐かしいような、愛おしいとも言えるような情が湧いたのだ。それは、言ってみれば「慈愛」とでも呼ぶべき感情かもしれなかった。
 だが、それもほんの一瞬のことに過ぎなかった。次の瞬間、それは動揺に取って代わった。

「……No……Devi……no……」

 やめて、というふうに彼女が彼の手を振り払おうと動く。

 ――デイヴィ……ッド?
 彼の耳には彼女の発した「デーヴィー」が、「デイヴィッド」と言ったように聞こえたのだった。
 ――昨夜のあの男か?
 そう言えば彼女はついさっきもバスルームでその名を口にしていた。やはり昨夜のあの男なのだろうか。
 そう思いついた途端、何かもやもやとしたものがこみ上げ、気付けば彼女に唇を寄せていた。
 あと少し、唇が重なりそうなところで、彼はハッとして顔を離した。ちょっと待て、彼女、ついさっき吐いたんだぜ?
 ほんの少し残されていたらしい自制が、彼の衝動を押し止める。
 突然湧いた感情と衝動。それらを追い出すように天井を仰ぎ、ふーっと息を吐いた。
 本当にどうかしてる。いや、きっと自分も酒を飲み過ぎたんだろう。
 彼は再びふーっと大きく息を吐いた。そしてベッドから立ち上がると、眠る彼女にそっとブランケットをかけてやった。












 ミッドタウン 11:15 p.m.


 その日も彼はじっとりと嫌な汗が噴き出すのを感じながら、それでいてどうすることも出来ず、目の前のソーダをひっきりなしに口に運んでばかりいる。隣に座る彼のガールフレンドが、友人たちとのお喋りの合間に時おり彼の方を向いてにっこり笑うから、安心させるために同じように笑みを返すことに少々疲れてきている。
 ガールフレンド。彼自身はまだ彼女をそう呼ぶ心構えが出来てはいないが、彼女が彼を目の前の友人たちに「私のボーイフレンド」と紹介してしまったから、彼のほうも彼女をガールフレンドと認識しなくてはならないらしい。
 彼は決して反社会的な人間ではないが、社交的だとも言えないし、自分のことを見ず知らずの人間にぺらぺら話すのもあまり得意ではない。
 それにここのところ、スタッフが減ってしまった穴埋めをしていて、少し疲れが溜まっていた。出来ればこの日もジェニーと過ごすことはしないで、ゆっくり休みたいと思っていた。何故なら明日は久しぶりに遅番で、たっぷりと眠りを貪ることが出来そうだったからだ。

「――作家を目指してるんだって? ポール」
「――えっ」
「Wow ! 第2のポール・オースター*ってわけね。あ、それでコロンビア大*行ったとか?」
「ううん、彼ならきっともっとすごい作家になれると思う。まだ読んだわけじゃないけど」
「――ちょっと、ジェニー!」

 何で勝手にそんな話を彼らにしたの!? そんな表情をジェニーに向ける。
 彼女は意に介す様子もなく、得意げな顔で友人たちに彼がどんなに素晴らしいかを訴えていた。
 ジェニーの機嫌を損ねないよう、場の雰囲気を壊さないよう彼らが振る舞いながら、内心ではきっと彼を小馬鹿にしているのだろうことはありありだった。
 コロンビア大を卒業したのに、しがないバリスタなんかやっている変わり者――そんなふうに見られることはもう慣れっこだったし、そう思われてもこちらとしても少しも気にもかけないことなのだが、ジェニーがそれを打ち消そうと彼を褒めれば褒めるほど、何だか居た堪れない気持ちになってしまう。
 変わり者でさえない僕のことを好きだと言ってくれて、こうして懸命に持ち上げてくれようとしているのに。
 ありがとう、ジェニー――本当ならそう彼女に感謝すべきなのに。
 いや、感謝の気持ちがないわけではなかった。ただ彼はあまりにも「褒められること」に慣れていないのだ。
 素直にそれを嬉しいと感じることが出来ず、身の置き所がなくなり、冷や汗が吹き出てくるような感覚に陥ってしまうのだった。

 それで彼はその場から逃げるために席を立ち、レストルームへと向かった。
 しばらくして席に戻ると、ポールの憂いをよそに、いつの間にか話題は他のことへと移っていた。
 帰るなら今かな。一瞬そう思ったが、ジェニーがきっと悲しむに違いない、そう思えて、やはりこの場へ留まることにした。




 しばらく続いた拷問のような時間のあと、ようやく彼らと別れ、彼はキャブを拾おうと広い通りに出た。
 そして数台のキャブに拒否されること数分、ようやく一台のキャブが彼とジェニーの前に停車してくれた。
 ドアを開けてジェニーだけを乗車させ、ポールはそのままドアを閉めた。

「えっ、来ないの?」
「ごめん、今夜は帰るよ」
「What !?」
「本当にごめんよ。ひどく疲れてて……体調が芳しくないんだ」
「Oh……」

 本当にごめん、と言いながら、キャブの窓の外から彼女におやすみのキスをしていると、乗るのか乗らないのか、早くしてくれ、と運転手に急かされてしまったので、彼はキャブのドアから離れた。
 仕方ない、という表情をしたあとで、彼女はいつものように砂糖菓子のような甘い笑顔で、大好きよポール、と言いながら、走り出したキャブの窓から手を振った。
 体調が芳しくない、というのは断る理由のための大げさな言い訳でしかなかった。むしろ「嘘」と言い換えてもよいかもしれない。ごめんよ、ジェニー。小さな罪悪感が彼の中に生まれる。
 そんな思いで消えていくキャブを見送り、振り返って歩き出した時。
「Hi , Paul」と顔の横でひらひらと手を振るベティがそこにいた。