Magnet 19 「 Sequel 2  :  Raindrops keep fallin' on their heads 」












19. 「Raindrops keep fallin' on their heads」 後日談 2 ― 雨にぬれても (明日に向って行け) ― 




ミッドタウン・ノース 『Bruno Bianchi NY』(ブルーノ・ビアンキ・ニューヨーク) 3:40 p.m.


昨日まで続いた、春の訪れを思わせる陽気が嘘のように、彼のカシミアのセーターと同じ色をした空から、窓ガラスに小さなドットがひとつ、ふたつ。
やがてそれらは融合して大きなドットになり、そのうち歪んだストライプへと姿を変えて流れ落ちてゆく。
形良いふくよかな唇から幾度となく吐き出される溜め息。その日何度目かのそれはまるで、窓の外の突然の雨に向けられた憂いのように、仲間達には聞こえただろう。
彼のあめ色の瞳には雨粒のひとつすら、映っていないというのに。



" また会える? "
" ……Maybe "

つれない答えが切なくて、男の首に思わず伸ばした指。
一晩中彼の身体を這い続け、恍惚とさせた唇に、別れの時間(とき)を自分から重ねた。
" ……ありがとう……ミゲル "
男は何も言わず、返事の代わりのように彼の唇をただ優しく貪り返した。湿った音の連続に混ざる、甘い息遣い。
彼の髪を乱し、頬を滑る、指先。男の愛撫に敏感になってしまった身体が悲鳴を上げ始める。
" やめて。仕事に行けなくなる "
そうすれば?とでも言うように片方の眉を上げる男を残し、石碑のように重いドアを開けた。

それからどうやってここまで来たのかはっきりと憶えていない。
彼としたことが、2日続けて同じ服で出勤するなんて、普段なら絶対に有り得ないことだった。と言うことは、家に帰らずにそのままキャブでここまで来た、ということだろう。
身体のあちこちが痛いけれど、そんなのはどうってことない。さっきからずっとズキズキと疼いている、胸の痛みに比べたら。
唇を噛むと、そこに最後、男がくれた甘い口付けを思い出して、また胸が疼いた。
ああ、と額に手をあて、瞳を閉じる。何てこった。これじゃ仕事にならないよ。

「――ミシェル、予約入ったわよ。ミセス・クリフォード。30分後よ」





「――もう、突然降り出してくるんだもの」
そこからそこなのにキャブを拾っちゃったわ、と笑う彼女につられて彼も笑みを返す。
相変わらず綺麗に手入れの行き届いた肌は、彼にクリエイティブな欲求を甦らせてくれる。
そろそろパーク・アヴェニューをピンク一色に塗り替える桜のように、彼女を春の女神に仕立て上げてしまいたい。
それなのに今日の彼女ときたら、無下にも彼の欲望をあっさりと封じ込めてしまった。
「元気ないわね」
「そう見える?」
そう。キャサリンの予約とはヘア・メイクでも何でもなく、ミシェルを拘束することだった。彼女たちは今、向かいのカフェで椅子に座り、コーヒーを飲んでいる。
「Yeah ! 酷い顔してる。でも、翳のあるあなたもセクシーで素敵よ」
「あー……ありがとう、と言いたいところだけど――」
「――Lovesick (恋患い)」
「?」
「顔にそう書いてある」
「!?」
窓ガラスで顔を確認するミシェルをふふっとからかうように笑い、彼女はマグカップを口に運んだ。
「キャス」
もう、からかうのはやめてよ、そう言いたげに苦笑したミシェルの眉がほんの少し、切なげに歪むのを彼女は見落とさなかった。
「言えない恋でもしてるみたい。人妻と恋に落ちた男、そんな顔よ」
「Me and Mrs.……Clifford ? *」
ビリー・ポール*の古いソウル・ミュージックを引き合いに出し、ミシェルが悪戯っぽく眉をくい、と上げる。
ミシェルの頬にいつもの "えくぼ " が戻った瞬間だ。
「ふふっ、あなたみたいな人とならそれも悪くないかな」
「Really ? それは光栄だよ」
「Tell me ! どんな人なの?」
「あー……」

顎の下で指を組み、彼を見上げる青い瞳に自分の姿が映し出されるのをぼんやりと見ながら、彼は暫し考えを廻らせた。
彼女とは知り合って間もないし、本来彼はプライバシーを簡単に他人に打ち明けるタイプではない。
けれど、彼女には何でも話せそうな気がしていた。初対面の時から不思議と彼女には居心地の良さを感じるのだ。
「ねえ、キャス。運命の出会いってあると思う?」
「ええ、思うわ。ただの偶然と言う人も多いけど、その偶然こそが運命だって思わない?」
「……僕ね、恋をする度に毎回そう思ってきたんだ。これは運命の出会いに違いないって。だけど……」
「?」
「……どうやら今までのそれは……違ったみたい」
「! 出会ったのね?本当の運命の相手と」
「判らない……何しろこんな感覚は初めてで……まだ上手く言葉に出来そうにもないよ」
また彼の唇から深い溜め息が吐き出される。伝染したように、彼女の唇からも同じように吐き出される溜め息。
「残念だわ」
「どうして?」
「あなたに紹介したい男性がいたんだけど、そんな相手に巡り逢ってしまったんじゃ彼の出番はなさそう」
「はは、まさかあの彼じゃないよね?」
「Who ?」
ミシェルが指をパチンパチンと鳴らしながらMaxwellの曲を歌い、リズミカルに身体を揺らす。
彼は、クリフォード家の別荘でのパーティーで、踊りながら彼に身体を摺り寄せて来た、あのバーニーのことを言っているのだった。
「あははは!」
仰け反って大笑いする彼女に、彼も笑って両手を広げる。

「Oh , もうこんな時間! そろそろ話の本題に入るわ」
「本題?」
「今日はあなたに依頼したいことがあって来たの―――」












ブルックリン  10:25 a.m. 


プルルルル―――
「Oh ! 」
母の写真から手を離した瞬間またしても電話が鳴り、驚いた彼女の指がビクッと宙を舞った。
またダディかも。
彼女は再びソファーに腰掛けて、ぞんざいに受話器を取り上げた。


「Hello ? 」
" おっはよー、ミス・テイラー "
「Oh , ベティ!おはよう。今日休み?」
" Yeah ! ねえ、あんた今日も暇よね? "
「失礼ね。今日も、って何よ」
" わはは "
「で?」
" ショッピング行こうよ "
「Yeah , いいわよ」
" ミシェルがとびきりの男を紹介してくれるって言うからさ、とびきりの服をゲットしなきゃ! "
「何それ!自分だけずるい!」
" あんたは間に合ってるでしょ "
「何が」
" ステイシーから電話来たよ。彼に送ってもらったんだって?進展したじゃん! "
「What !?  もう!みんなしてお喋りなんだから!」
" みんな? "
「その話はいいから! ……で?何時にどこで?」



ベティとの電話を切り、早速彼女はシャワーを浴びた。
バスタオルを2枚、それぞれ頭と身体に巻き付けたら、気分はひと昔前のエリカ・バドゥ*。
" On & On" を口ずさみながら、そんなしどけない姿で着ていく服を選び始めた。
歩き回るから疲れないようにシープスキン・ブーツを履いて行く?じゃあボトムはジーンズ?それとも、いつもジーンズだからやめとく?

プルルルル―――

そんな調子であれこれ思い悩んでいると、またしても電話が鳴った。
God ! 今日は一体どうしちゃったの? 朝から電話ばっかり!
彼女は手にしていた服を持ったまま、再び受話器を取って耳に当てた。

「Hello ? 」
" ……Lamka ? "
「Yeah ? Who is this ? 」
" ……It's me……Neville "
――― !?
思いがけない人物の声。彼女の身体と心は石のように固まり、それが解けるのに暫し時間を要した。
" Hi "
「……Um……Hi , ずいぶん久しぶりね」
" 元気にしてた? "
「Yeah , 元気よ」
" 何年ぶりかな "
「3年とか、そのあたり?」
" 突然電話なんかして……迷惑だったかな "
「No , 迷惑だなんて」
" 彼と一緒かもしれないし、迷ったんだけど "
「彼?」
" 実は昨日、君を見かけたんだ "
「Really !? どこで?」
" 『ヴィネガー・ストアー』で "
「……ああ」
" 色々と想像を掻き立てられたよ "
ショーンとレイのことを言っているのだろうか。まさか家族に見えたわけじゃないだろうけど、もしかしたら、彼ら二人が父子に見えたのかも。
「……それで電話を?」
" ……今夜、会えないかな "
「!」
" 久しぶりに食事でもどうだい? "
「……Oh」
" 古い友人として"
「……あー……ごめんなさい……今夜は約束してるの」
" 昨日の彼? "
「……Yes」





ソーホー  2:40 p.m. 

「――Wow ! これなんかどう?」
「……見え見え」
「じゃあこれは?」
「もっと見え見え」
ベティときたら、「今直ぐにあなたとベッドに行きたいわ」と主張しているようなドレスばかり手に取るので、ラムカの首は横に振られるばかりだ。
「うーん、やっぱりあからさま過ぎるか」
その後、違う店に行くために通りへ出ると、ベティが思い出したように「あっちにすっごいセクシーなランジェリー・ショップがあったよね!」と彼女の手を引いて歩き出した。
辿り着いたのはヴィヴィアン・ウエストウッドの息子*がデザインしているというブランドの店だ。
かなりセクシーなイメージだけれど、ランジェリー自体は決して下品なものではなく、クラシカルな気品さえ漂わせるものが大半だった(中には " プレイ用 " のどぎついものもあったけれど)。
ただし、やたらと扇情的なアプローチを見せていて、店内に流れるモニターに映し出されるコマーシャル映像を観て、ラムカは目を丸くしてばかりだ。
「流石はヴィヴィアンの息子だね。アヴァンギャルド!」
ノリノリでセクシーな下着を身体に当ててはしゃぐベティをよそに、ラムカはさっきからずっと、何となくぼんやりとしてばかりで気のない様子だ。その上、ベティが手に取るもの全てに否定的で、何だか楽しくなさそうにも見える。

「彼と何かあった?」
「彼?」
「送ってもらったんでしょ?」
「……」
「いい男だったってステイシーが言ってたよ――Wow ! これ可愛い!幾らかな――」
「――ネヴィルから電話がきたの」
「!」
「今夜会えないかって……」
「! 駄目だよ、ラムカ!解ってるよね?」
「I know ! もちろん断ったわよ」
「Gosh ! 150ドルもするソング*を握り締めてる時に脅かさないでくれる!? ふーっ、危うくレジに持ってくとこだよ」
「買えば?」
「Nah ! 出よう、それどころじゃなくなったよ」



やっと見つけたカフェは満席で、20分も待って漸く席に着くことが出来た。
五番街もそうだけど、ここソーホーも、気の利いたカフェはブティックが集中している場所から離れた場所にしかない。
10分以上も歩いた挙句、20分も待って漸く口に出来たカプチーノだった。
ラムカから昨日の一連の出来事や今朝のネヴィルからの電話の件を聞きながら、ベティは大好きなはずのカプチーノを、半分も飲まないうちに飲む気が失せてしまっていた。お世辞にも余り美味しいとは思えなかった。エスプレッソの部分は薄くて香りも弱いし、ミルクの温度も高すぎて泡のきめが粗い。いかに普段レヴェルの高いそれを口にしているかを改めて感じずにはいられなかった。
あーあ……ポールのカプチーノが恋しい。やっぱり彼のがいちばんだわ。
いつものようにそんなことを思いついた途端、ふっと昨日の夕方の、ポールの表情を思い出してしまった。
ドキッとした時にはもう、彼は視線を外し、ヴェスパを走らせ始めていた。
あれは何だったんだろう。ポールは一体どうして、あんな目であたしを……
今度はベティがぼんやりとする番だった。

「――聞いてる?刑事さん」
「は?」
「まだ尋問に答えてる途中なんですけど。それとも、もう釈放してくれる?」
「あー、ごめん。続けてくれたまえ、ミス・テイラー」
「もういい」
「……しかし気になるなあ、ミシェル」
「はあ?」
「あ、言わなかったっけ?彼、昨日帰って来なかったんだよ」
「あんた、話飛びすぎ」
「そうかな」
「一体どうしたの?」
「だってカプチーノ、いまいちなんだもん」

ネヴィルの誘いを断った時、ショーンとの約束がある、と嘘をついたことをラムカはベティに言えなかった。
一方ベティも、昨日のポールの件をラムカに言わなかった。
代わりに話したことは、一昨日の夜、ミシェルにハリーとのことをぶちまけて慰めてもらったことや、彼が紹介してくれると言っていたラッセルという友人のこと。
ふたりの話題はいつの間にかミシェルのことに移り、気付けば外は雨が降り出していた。
残念なカプチーノのせいではないのだろうけど、何だかショッピングする気まで削がれてしまった。
とは言え、ラムカを今夜ひとりにしておくのは危険な気がしたので、今夜一緒にミシェルをとっちめよう、と提案して、彼女をチェルシーのミシェルの家まで付き合わせることにした。











アッパー・イースト  3:25 p.m.

その日の昼、久しぶりに息子のために料理をした。料理と言っても、冷蔵庫にあった残りもののカポナータ*にチーズを載せて焼いた、ピザ風のオープン・サンドウィッチとフルーツだけだが。
更に厳密に言うならば、そのカポナータはショーンが作ったものだし、フルーツも切って皿に並べただけだ。
それでもレイはとても喜んで、口の周りをトマトソースで汚しながら、嬉しそうにぱくぱくと食べていた。
それから一緒にジムに行き、軽く運動をして、戻ってきてから着替えをさせた後、今度は一緒にテレビのクイズ番組を観た。
そのうちにレイがうとうととし始めたので、彼の部屋のベッドまで運んだ。
そして現在、彼は久しぶりに我が家で「独りきり」の時間を過ごしているところだ。
コンピュータを立ち上げようかとも思ったが、なかなか出来ることではないから、久しぶりにソファーに寝転がって本を読むことにした。本と言っても文学ではなく、結局は経済学者の著書になってしまうのだったが。
本に集中し始めた頃、テーブルに乗せたままの携帯電話が鳴った。キャサリンからの電話かもしれない。
起き上がって携帯電話を取り上げ、ディスプレイに点滅する名前を見た彼は硬直した。
出るべきじゃない。そう言い聞かせ、テーブルの上に携帯電話を戻す。直ぐにもう一度、着信音が鳴り響いた。
耳障りでヒステリックな音だ。逡巡した彼は、意を決して電話を耳に当てた。

「……Yeah」
" ……You missed me , hah ? "
「No」
からかうように笑う声が、彼を苛つかせた。
" さっき、あなたに脱がせてもらうための新しいソング*を買ったの "
「……」
" その後、誰に会ったと思う?"
「!」
" 初めまして、ですって。彼女、何も憶えてないのね。がっかりよ "
「……君とは終わりだ。そう言ったはずだが」
" んー、留守電は聞かない性質なの "
「だから今も言った」
" 直接、あなたの唇から聞きたいわ "
「No , 本当にこれで終わりだ。二度とかけてこないでくれ」
" 後悔するわよ "
「とっくにしてるさ」
そう言い放って電話を切り、それをテーブルの上に乱暴に置いた。

窓の外の景色と比例するように、彼の心にも灰色の雲が広がって行く。
やがてぽつぽつと降り出した雨にキャサリンを思った。
彼女は今、どこで過ごしているだろう。傘を持たずに出かけたはずだ。
ふとレイの様子が気になり、彼は子供部屋へと向った。
レイはぐっすりと眠っていた。一度ぐっすりと寝たら、長い時間起きない子だったことを思い出し、彼は苦笑した。
「*+#.:*+:*…」
「?」
聞いたこともない言葉の寝言だ。ファンタジーの国の王子か勇者にでもになって、ライオンや豹を従えて冒険でもしているのだろう。
どこか懐かしさを憶える言葉だったが、彼は気に留めるでもなく、レイの上掛けを直し、子供部屋を後にした。












ミッドタウン・ノース  4:30 p.m.

美しいふたりが楽しそうに笑い合う姿に、幾度となく目をやった。
ミシェルがゲイだと知らない人間には恋人同士に見えているかもしれない。それくらい絵になるふたりだ。
また後ろの方からくすくす、と笑い声が聞こえた。どうせまたジェシカとフレディだろう。 ミシェルとあのブロンドの女性に嫉妬してる、とでも思ってるに違いない。
知ったことか。勝手にそう思っていればいいさ。彼は声に振り返ることもせず、仕事に没頭することを続けた。

今日もジェニーは休みだった。正直、あんなことになってしまった彼女と仕事場で顔を会わせるのは気まずかったから、今日彼女が休みだと思い出した時には心底ホッとした。
遅かれ早かれ、明日になればその時はやってくるわけで、今更逃げ出す訳にもいかないことは解っているのだけど。

その後、紙ナプキンの補充を取りに奥の倉庫へと行った彼は、隣の事務所から大きな音が聞こえたので慌ててそこの扉を開いた。
「――!」
「あいたたた……」
「マダム!」
彼は慌ててマダム・デュボアに駆け寄った。どうやら脚立から落ちてしまったらしい。
「お怪我はないですか?マダム?」
「ああ、ありがとう、ポール。嫌だよ、あたしったら。うっかり脚を踏み外しちゃったらしいよ」
「本当にどこも何ともない?足首は?捻ってないですか?」
「ああ、大丈夫。お尻をしこたまぶつけたようだけどね。あいたたた……」
彼はマダム・デュボアの手を取ってそっと立ち上がらせ、ゆっくりと椅子に座らせた。
「本当に大丈夫ですね?」
「大丈夫だよ。そうだ、ポール、悪いけどそこの落ちたファイルを棚の2段目に戻して貰えるかしらね。……ああ、ありがとう」
「お手伝いが必要な時はいつでも呼んで下さい、マダム」
「ありがとう」
「ああ、そうだ。新しいベーグル・サンドが今日は一番人気で、昼過ぎにはもう売り切れちゃいましたよ、マダム」
「おや、そうかい。それは良かった」


ここのところ、急に足腰が弱くなり始めたマダム・デュボアが心配で仕方がない。
本人は太りすぎだよ、と笑うけれど、決してそんなことはない。むしろ食が細くなり、以前よりかなり痩せてしまったのに。
彼女には身寄りがない。夫を早くに亡くし、子供も居ない、と聞いている。もし病気になってしまったら誰が彼女の面倒を看るのだろう。
ふいにミセス・バレットのことが頭に浮かんだ。彼女は今朝も徘徊していたらしい。アパートメントの住人たちが入り口でその話をしていた。
彼女とのこれまでのやり取りを思い返し、何となく悲しい予感に包まれてしまった。彼らが「施設」という言葉を口にしていたからだろうか。
いずれにせよ、自分に出来ることは何もない。ミセス・バレットにとって何が最善なのかは判らない。ただそれを願うことしか出来ない。
ジョンの振りも必要なくなる日が、いつかきっとやって来る。
僕はこんなにも無力な人間だけれど、少しは彼女の心の支えになれたのかな。
いや、まだまだその日はうんと先じゃないか。彼はそう自分に言い聞かせ、気を取り直して、店への入り口の扉を開けた。

店に戻ると、ミシェルの目の前にいたブロンドの女性は姿を消していて、独り残された彼が頬杖をつき、ぼうっと外を眺めていた。
彫刻のように美しい彼を眺めるのは良いものだが、きっとまたあらぬ誤解を招いてしまうのは必至だろう。
彼は直ぐにミシェルから視線を外し、仕事に戻った。
ふっといつもの癖で、向かいのサロンの窓へと目をやってしまった。今日そこに赤毛の彼女はいない。
昨日、心の中で、彼女にさよならを告げた。まだ暫くはこうやって無意識に、あの窓に目を向けてしまうのかもしれない。
そのうちいつか、そんな日もなくなる。ベティを忘れられる日がきっとやって来る。
彼は自分にそう言い聞かせ、サロンの窓から視線を外した。
その瞬間の瞳の色を、ミシェルに捉えられていたことを知らずに。












MPD (ミート・パッキング・ディストリクト)  9:15 a.m.

強烈に喉が渇いて目を覚ました。ゆっくりベッドに起き上がると、そこは知らない場所だった。
昨夜のことは殆ど何も憶えていない。近くのバーで飲んでいて、そこで昔一度だけ寝た女と会い、それから一緒に店を出たまでは憶えている。
とするとここは、あの女の家か。名前さえもはっきりと思い出せない。確か……レイチェル、とかそんな名前じゃなかったか。
最悪の頭を抱えて起き上がり、彼女の冷蔵庫を勝手に開けると、ミネラル・ウォーターが入っていなかった。
オレンジ・ジュースを飲む気にはなれず、彼は水道水を喉に流し込んだ。

テーブルには彼女からの手紙が置かれている。イネスの時みたいに、どうせろくなことは書かれていないだろう。
" おはよう、酔っ払いさん。キスしか出来なかったなんて最低!今度会ったら押し倒してやるから覚悟して!  レベッカ "
どうやら彼女はレイチェルではなかったようだが、また途中で寝てしまったのか。どうりで服を着たままだ。
イネスの時のように途中で力尽きてしまったよりはマシか。いや、女をふたりも立て続けにがっかりさせてしまったなど、どちらにしても不名誉なことに違いはない。


空腹で目が廻りそうだったので、帰る途中で見つけたダイナーに飛び込んだ。昔、時々通った店だ。
カウンターに座ると、でっぷりとした白髪のウェイトレスが「おはよう、ハンサムさん」と言いながら薄いコーヒーを入れてくれる。
コーヒーも料理も、決してお世辞にもそう美味しいとは言えないのだが、この好ましい時代遅れさを、彼は殆ど愛していた。
この街の開発が幾ら進んだとしても、こういう場所は決して失くしてはならない、と心から思う。

「ショーン?」
ふいに肩を叩かれて振り返る。懐かしい男の顔がそこにあった。
「ニック!」
「久しぶりだな」
握手やハグの 『男同士の挨拶』 をした後で、ニックという男が隣の席へ腰を下ろした。
「それで? 今何してる?まだあの店に?」
「いや、今は 『Amilcare(アミルカーレ)』 に居るよ」
「Really ? 」
「ああ、やっぱりオーソドックスな南イタリア料理が作りたくてさ。自分のルーツだからね。訳の解らんオブジェみたいな料理はもううんざりだ」
「はは……確かに」
「お前は? Oh , そう言えば、でかい仕事をするはずだったろ?寸前で駄目になった、って……」
「Yeah , 不景気とやらの煽りでね。スポンサーが怖気付いちまって、あえなくおじゃんさ」
「そうか……それは残念だったな。それで今は何を?」
「今か?そうだな……強いて言えば……『宮廷料理人』、ってとこかな」
「何だ、それ」
「アッパー・イーストのパレス(宮殿)で『王と女王と王子の晩餐』のために日々、命を削ってるってことさ」
「Really ?」
「Yeah , 今日から俺を『Vatel(ヴァテール)*』とでも呼んでくれ」
「Ok , ヴァテール。まあお前ならまたそのうち、でかいチャンスを掴むさ。悲観するのはまだ早すぎるだろ」
「……Thanks」
「……ショーン……その……」
「?」
軽い話をしたあとで、ニックが急に何か言いにくそうな顔をして俯いた。

「……いつかお前に謝りたいと思ってたんだ」
「謝る?何を?」
「……その……」
「? 何だよ、言ってくれよ」
「……お前に " あのこと " を言ったこと……ずっと後悔してるんだ」
「あのこと?」
「彼女のことさ」
「!」
「俺が……見たものを心に秘めたままにしておけば」
「Hey , Nick ! お前が気に病むことじゃない。謝るだなんてよしてくれ。それに……」
「?」
「……もうずっと昔に終わったことだ。俺はもう忘れたい。だからお前もきっぱり忘れてくれないか」
「……Yeah……解ったよ」
「俺のほうこそすまなかった。お前にそんな思いをさせてたなんて」
「いや、いいんだ」



今度店に顔を出すよ――そう言って彼はニックに別れを告げた。
雲が時折太陽を覆い隠し、顔に当たる風に少し湿り気を感じる。この後、雨が降り出すかもしれない。


" お願い、話を聞いて "
" いいから出て行け!"

――あの日、土砂降りになるとも知らずに「彼女」を追い出した。
行く宛てもなく、街を彷徨った後、家の階段の下でずぶ濡れになった「彼女」を見つけ、そして、抱いた。
確かあれが「彼女」と交わした最後だった。
昨日の夢、ニックとの再会、雨の気配。
忘れていたはずの日々を思い出させる偶然の重なりに、彼の足取りが急激に重さを増して行く。


……俺は一体、何をしているんだろう。
見上げた空には不気味な色をした雲が居て、ゆっくりと風に乗って流れていた。あの雲のように、風に流されるまま生き、やがては散れ逝く運命なのか。
綺麗さっぱり散ることが出来るのなら、それも決して悪くない。
時折湧いては歩みを止めさせる虚無感を、彼はいつものように酒で誤魔化して、また自分の中に封じ込めることになるのだろう。
やがてアパートメントの下に停めたバイクが見えてきて、少しずつ彼の視界の中の割合を増して行く。
「よう、相棒」
もちろん、相棒の返事はない。 " 二度と乗らないわよ!" そう憎まれ口を叩いた、彼女の残像が見えた彼の唇の端が持ち上がるのを、ただ静かに見届けただけだ。
彼の中に生まれていた " 何か" も相棒には見えていただろうか。そしていつか、彼がそれに気付く日は来るだろうか。
もちろんそれも相棒には解らない。今はただ、くすんでいく街の空気をその磨かれたボディに映し、西の街に静かに佇んでいた。