Magnet 19-T「Sequel 2 : Raindrops keep fallin' on their heads 1」












19-T.「Raindrops keep fallin' on their heads 1」後日談 2 ― 雨にぬれても(明日に向って行け)1 ―




 ミッドタウン・ノース 『Bruno Bianchi NY』(ブルーノ・ビアンキ・ニューヨーク) 3:40 p.m.


 昨日まで続いた、春の訪れを思わせる陽気が嘘のように、彼のカシミアのセーターと同じ色をした空から、窓ガラスに小さなドットがひとつ、ふたつ。
 やがてそれらは融合して大きなドットになり、そのうち歪んだストライプへと姿を変えて流れ落ちてゆく。
 形良いふくよかな唇から幾度となく吐き出される溜め息。その日何度目かのそれはまるで、窓の外の突然の雨に向けられた憂いのように、仲間達には聞こえただろう。彼のあめ色の瞳には雨粒のひとつすら、映っていないというのに。



 " また会える? "
 " ……Maybe "

 つれない答えが切なくて、男の首に思わず伸ばした指。
 一晩中彼の身体を這い続け、恍惚とさせた唇に、別れの時間(とき)を自分から重ねた。
 " ……ありがとう……ミゲル "
 男は何も言わず、返事の代わりのように彼の唇をただ優しく貪り返した。湿った音の連続に混ざる、甘い息遣い。
 彼の髪を乱し、頬を滑る、指先。男の愛撫に敏感になってしまった身体が悲鳴を上げ始める。
 " やめて。仕事に行けなくなる "
 そうすれば?とでも言うように片方の眉を上げる男を残し、石碑のように重いドアを開けた。

 それからどうやってここまで来たのかはっきりと憶えていない。
 彼としたことが、2日続けて同じ服で出勤するなんて、普段なら絶対に有り得ないことだった。と言うことは、家に帰らずにそのままキャブでここまで来た、ということだろう。
 身体のあちこちが痛いけれど、そんなのはどうってことない。さっきからずっとズキズキと疼いている、胸の痛みに比べたら。
 唇を噛むと、そこに最後、男がくれた甘い口付けを思い出して、また胸が疼いた。
 ああ、と額に手をあて、瞳を閉じる。何てこった。これじゃ仕事にならないよ。

「――ミシェル、予約入ったわよ。ミセス・クリフォード。30分後よ」





「――もう、突然降り出してくるんだもの」

 そこからそこなのにキャブを拾っちゃったわ、と笑う彼女につられて彼も笑みを返す。
 相変わらず綺麗に手入れの行き届いた肌は、彼にクリエイティブな欲求を甦らせてくれる。
 そろそろパーク・アヴェニューをピンク一色に塗り替える桜のように、彼女を春の女神に仕立て上げてしまいたい。
 それなのに今日の彼女ときたら、無下にも彼の欲望をあっさりと封じ込めてしまった。

「元気ないわね」
「そう見える?」

 そう。キャサリンの予約とはヘア・メイクでも何でもなく、ミシェルを拘束することだった。彼女たちは今、向かいのカフェで椅子に座り、コーヒーを飲んでいる。

「Yeah !  酷い顔してる。でも、翳のあるあなたもセクシーで素敵よ」
「あー……ありがとう、と言いたいところだけど――」
「――Lovesick (恋患い)」
「?」
「顔にそう書いてある」
「!?」

 窓ガラスで顔を確認するミシェルをふふっとからかうように笑い、彼女はマグカップを口に運んだ。

「キャス」

 もう、からかうのはやめてよ、そう言いたげに苦笑したミシェルの眉がほんの少し、切なげに歪むのを彼女は見落とさなかった。

「言えない恋でもしてるみたい。人妻と恋に落ちた男、そんな顔よ」
Me and Mrs.……Clifford ? *

 ビリー・ポール*の古いソウル・ミュージックを引き合いに出し、ミシェルが悪戯っぽく眉をくい、と上げる。
 ミシェルの頬にいつもの "えくぼ " が戻った瞬間だ。

「ふふっ、あなたみたいな人とならそれも悪くないかな」
「Really ? それは光栄だよ」
「Tell me ! どんな人なの?」
「あー……」

 顎の下で指を組み、彼を見上げる青い瞳に自分の姿が映し出されるのをぼんやりと見ながら、彼は暫し考えを廻らせた。
 彼女とは知り合って間もないし、本来彼はプライバシーを簡単に他人に打ち明けるタイプではない。
 けれど、彼女には何でも話せそうな気がしていた。初対面の時から不思議と彼女には居心地の良さを感じるのだ。

「ねえ、キャス。運命の出会いってあると思う?」
「ええ、思うわ。ただの偶然と言う人も多いけど、その偶然こそが運命だって思わない?」
「……僕ね、恋をする度に毎回そう思ってきたんだ。これは運命の出会いに違いないって。だけど……」
「?」
「……どうやら今までのそれは……違ったみたい」
「! 出会ったのね? 本当の運命の相手と」
「判らない……何しろこんな感覚は初めてで……まだ上手く言葉に出来そうにもないよ」

 また彼の唇から深い溜め息が吐き出される。伝染したように、彼女の唇からも同じように吐き出される溜め息。

「残念だわ」
「どうして?」
「あなたに紹介したい男性がいたんだけど、そんな相手に巡り逢ってしまったんじゃ彼の出番はなさそう」
「はは、まさかあの彼じゃないよね?」
「Who ?」

 ミシェルが指をパチンパチンと鳴らしながらMaxwellの曲を歌い、リズミカルに身体を揺らす。
 彼は、クリフォード家の別荘でのパーティーで、踊りながら彼に身体を摺り寄せて来た、あのバーニーのことを言っているのだった。

「あははは!」

 仰け反って大笑いする彼女に、彼も笑って両手を広げる。

「Oh , もうこんな時間! そろそろ話の本題に入るわ」
「本題?」
「今日はあなたに依頼したいことがあって来たの――」












ブルックリン  10:25 a.m. 


プルルルル――

「Oh ! 」

 母の写真から手を離した瞬間またしても電話が鳴り、驚いた彼女の指がビクッと宙を舞った。
 またダディかも。彼女は再びソファーに腰掛けて、ぞんざいに受話器を取り上げた。


「Hello ? 」
 " おっはよー、ミス・テイラー "
「Oh , ベティ! おはよう。今日休み?」
 " Yeah ! ねえ、あんた今日も暇よね? "
「失礼ね。今日も、って何よ」
 " わはは "
「で?」
 " ショッピング行こうよ "
「Yeah , いいわよ」
 " ミシェルがとびきりの男を紹介してくれるって言うからさ、とびきりの服をゲットしなきゃ! "
「何それ! 自分だけずるい!」
 " あんたは間に合ってるでしょ "
「何が」
 " ステイシーから電話来たよ。彼に送ってもらったんだって? 進展したじゃん! "
「What !?  もう! みんなしてお喋りなんだから!」
 " みんな? "
「その話はいいから! ……で?何時にどこで?」



 ベティとの電話を切り、早速彼女はシャワーを浴びた。
 バスタオルを2枚、それぞれ頭と身体に巻き付けたら、気分はひと昔前のエリカ・バドゥ*。" On & On" を口ずさみながら、そんなしどけない姿で着ていく服を選び始めた。
 歩き回るから疲れないようにシープスキン・ブーツを履いて行く? じゃあボトムはジーンズ? それとも、いつもジーンズだからやめとく?

 プルルルル――

 そんな調子であれこれ思い悩んでいると、またしても電話が鳴った。
 God !  今日は一体どうしちゃったの? 朝から電話ばっかり!
 彼女は手にしていた服を持ったまま、再び受話器を取って耳に当てた。

「Hello ? 」
 " ……Lamka ? "
「Yeah ? Who is this ?」
 " ……It's me……Neville "

 ―― !?
 思いがけない人物の声。彼女の身体と心は石のように固まり、それが解けるのに暫し時間を要した。

 " Hi "
「……Um……Hi , ずいぶん久しぶりね」
 " 元気にしてた? "
「Yeah , 元気よ」
 " 何年ぶりかな "
「3年とか、そのあたり?」
 " 突然電話なんかして……迷惑だったかな "
「No , 迷惑だなんて」
 " 彼と一緒かもしれないし、迷ったんだけど "
「彼?」
 " 実は昨日、君を見かけたんだ "
「Really !? どこで?」
 " 『ヴィネガー・ストアー』で "
「……ああ」
 " 色々と想像を掻き立てられたよ "

 ショーンとレイのことを言っているのだろうか。まさか家族に見えたわけじゃないだろうけど、もしかしたら、彼ら二人が父子に見えたのかも。

「……それで電話を?」
 " ……今夜、会えないかな "
「!」
 " 久しぶりに食事でもどうだい? "
「……Oh」
 " 古い友人として"
「……あー……ごめんなさい……今夜は約束してるの」
 " 昨日の彼? "
「……Yes」







 ソーホー  2:40 p.m. 

「――Wow ! これなんかどう?」
「……見え見え」
「じゃあこれは?」
「もっと見え見え」

 ベティときたら、「今すぐにあなたとベッドに行きたいわ」と主張しているようなドレスばかり手に取るので、ラムカの首は横に振られるばかりだ。

「うーん、やっぱりあからさま過ぎるか」

 その後、違う店に行くために通りへ出ると、ベティが思い出したように「あっちにすっごいセクシーなランジェリー・ショップがあったよね!」と彼女の手を引いて歩き出した。
 辿り着いたのはヴィヴィアン・ウエストウッドの息子*がデザインしているというブランドの店だ。
 かなりセクシーなイメージだけれど、ランジェリー自体は決して下品なものではなく、クラシカルな気品さえ漂わせるものが大半だった(中には " プレイ用 " のどぎついものもあったけれど)。
 ただし、やたらと扇情的なアプローチを見せていて、店内に流れるモニターに映し出されるコマーシャル映像を観て、ラムカは目を丸くしてばかりだ。

「流石はヴィヴィアンの息子だね。アヴァンギャルド!」

 ノリノリでセクシーな下着を身体に当ててはしゃぐベティをよそに、ラムカはさっきからずっと、何となくぼんやりとしてばかりで気のない様子だ。その上、ベティが手に取るもの全てに否定的で、何だか楽しくなさそうにも見える。

「彼と何かあった?」
「彼?」
「送ってもらったんでしょ?」
「……」
「いい男だったってステイシーが言ってたよ――Wow !  これ可愛い! 幾らかな――」
「――ネヴィルから電話がきたの」
「!」
「今夜会えないかって……」
「! 駄目だよ、ラムカ! 解ってるよね?」
「I know ! もちろん断ったわよ」
「Gosh ! 150ドルもするソング*を握り締めてる時に脅かさないでくれる!? ふーっ、危うくレジに持ってくとこだよ」
「買えば?」
「Nah ! 出よう、それどころじゃなくなったよ」



 やっと見つけたカフェは満席で、20分も待って漸く席に着くことが出来た。五番街もそうだけど、ここソーホーも、気の利いたカフェはブティックが集中している場所から離れた場所にしかない。10分以上も歩いた挙句、20分も待って漸く口に出来たカプチーノだった。
 ラムカから昨日の一連の出来事や今朝のネヴィルからの電話の件を聞きながら、ベティは大好きなはずのカプチーノを、半分も飲まないうちに飲む気が失せてしまっていた。お世辞にも余り美味しいとは思えなかった。エスプレッソの部分は薄くて香りも弱いし、ミルクの温度も高すぎて泡のきめが粗い。いかに普段レヴェルの高いそれを口にしているかを改めて感じずにはいられなかった。
 あーあ……ポールのカプチーノが恋しい。やっぱり彼のがいちばんだわ。
 いつものようにそんなことを思いついた途端、ふっと昨日の夕方の、ポールの表情を思い出してしまった。
 ドキッとした時にはもう、彼は視線を外し、ヴェスパを走らせ始めていた。
 あれは何だったんだろう。ポールは一体どうして、あんな目であたしを……
 今度はベティがぼんやりとする番だった。

「――聞いてる? 刑事さん」
「は?」
「まだ尋問に答えてる途中なんですけど。それとも、もう釈放してくれる?」
「あー、ごめん。続けてくれたまえ、ミス・テイラー」
「もういい」
「……しかし気になるなあ、ミシェル」
「はあ?」
「あ、言わなかったっけ? 彼、昨日帰って来なかったんだよ」
「あんた、話飛びすぎ」
「そうかな」
「一体どうしたの?」
「だってカプチーノ、いまいちなんだもん」

 ネヴィルの誘いを断った時、ショーンとの約束がある、と嘘をついたことをラムカはベティに言えなかった。
 一方ベティも、昨日のポールの件をラムカに言わなかった。
 代わりに話したことは、一昨日の夜、ミシェルにハリーとのことをぶちまけて慰めてもらったことや、彼が紹介してくれると言っていたラッセルという友人のこと。
 ふたりの話題はいつの間にかミシェルのことに移り、気付けば外は雨が降り出していた。
 残念なカプチーノのせいではないのだろうけど、何だかショッピングする気まで削がれてしまった。
 とは言え、ラムカを今夜ひとりにしておくのは危険な気がしたので、今夜一緒にミシェルをとっちめよう、と提案して、彼女をチェルシーのミシェルの家まで付き合わせることにした。

( 第19話 パートUへと続く )