Magnet 35 「 Much ado about nothing 」












35. 「Much ado about nothing」 ― から騒ぎの夜 ― 





アッパーイースト  7:15 p.m.


「――No , no no , その件ならアトリエにきちんと伝えてあるし――Oh , No , それは変更なしでって話はついてるはずよ?」
「そこにこの小さいタルトを並べてもらえるかい?」
「こんなかんじ?」
「Yeah , good , もう少し間隔空けて――そう」
「――それじゃ何も進んでないってこと?」
「――OK , じゃあ次はタルトにこれとこれを乗せてってくれるかい? こんな感じで――」
「うん、わかった」
「――Ok , すぐに確認して連絡するわ」
「赤いやつを上に見えるように置いてみて。そう、いい感じだぞレイ」
「えへへ」
「――ちょっと仕事でトラブル発生みたい。失礼していい?」
「Yes , of course」
「Bye , mom」

 レイは、ため息をつきながらキッチンを出て行く母親の背中にそう声を掛けると、たどたどしい手つきでショーンの指示通りに手伝いを続けた。


 本来なら休みであるはずの土曜日。彼は雇い主に頼まれ、軽いホームパーティーの料理を用意している。
 招待客の1人であるにも関わらず、仕事もしているのだ。もちろんこれには特別報酬が支払われることになっている。
 土曜日にいるはずのないショーンが仕事をしているので、レイが大はしゃぎでキッチンに姿を現し、手伝う、といって聞かないのだった。
 当然ながら一人でも手を貸してくれるのはありがたいのだが、5歳の子供に難しい手伝いはさせられない。
 見かねたキャサリンがレイを連れ戻しにキッチンにやってきたのはいいのだが、仕事の電話がひっきりなしにかかってきた挙句、トラブル発生だと言って結局は出ていってしまった。
 さて、次は何を手伝ってもらおうかな――と考えを巡らせる余裕もなくなってきた。レイの相手までしているせいだとは思いたくないが、思った以上に作業に時間がかかってしまっているのだ。
 仕事絡みや緊張する相手を招待しているわけでもない気軽なパーティーなんだし、とキャサリンは言うが、ホームパーティーとは言え、報酬を貰う以上、手を抜くわけにはいかない。
 そんなことはプロとして彼のプライドが許さない。いや、そんな当たり前のこと以前に、顔見知りが集まるからこそ、軽くつまめる食事ばかりと言えど、決して手抜きはしたくないのだ。

「――Hi , guys」
「Hi , Sherry」

 そこにタイミングよくラムカが現れたので、ショーンは心底ホッとしたような顔で彼女を振り返る。

「レイ、シェリー先生にもそれを教えてやって。一緒にやったらきっと楽しいぞ」

 『は?』と言う顔を向ける彼女に、ショーンがこっそりと『Please』と声に出さずに懇願する。

「Uum……Wow !  レイ、お手伝いしてるの? 偉いのね」
「うん。――そうだ! ぼくの『じょしゅ』にしてあげるよ、シェリー」
「Ok , thank you !」

 得意げな顔のレイにぷっと軽く吹き出しそうになるのを堪え、彼女は上着を脱いでレイの傍に立った。

「うんとね、こうやってね、これをまずはタルトに乗せるの。こぼさないように少しずつだよ」
「こう?」
「ちがうよ、この赤いのをうえにするんだ。ちゃんとぼくのをみててよ」
「Oh , それは失礼しました、スー・シェフ」
「すー?」

 くっくっく、と笑いを漏らし、ショーンが振り返る。

「Ok , 上出来だ。助かったよ、レイ。ありがとな」
「えー、もうおわり?」
「今のとこな」
「Ok , またいつでもよんで、シェフ」
「Yeah , I will」

 そう言って彼はレイの頭を撫でるとにっこりと笑みを向けた。
 キッチンから出ていくレイの後姿を見送り、ラムカが作業台に両手をついてきょろきょろ、とそこに乗せられたものを見渡す。

「それで? 次は何をすればいい?」
「Uum……じゃあそこの天板のアボカドをこの皿に並べてくれるかな。整然と並べるんじゃなくて、散らす感じで」
「Alright」

 結局は手伝うことになるのよね、と言いたげな顔で肩をすくめ、彼女はショーンの指示通りにアボカドを皿に並べ始めた。







「――ええ、そうしていただけると助かるわ。そうね、じゃあその件も確認して折り返し連絡するわね。Bye」

 廊下をウロウロ歩き回りながらの電話を終え、ふーっと息を吐いてしばしあれこれと考えを巡らせる。
 ある程度考えがまとまり、まず初めに連絡すべき先の番号を探していると、エレヴェイターの到着する音が聞こえた。
 間を置かず、すぐに玄関ドアのベルが鳴ったので、『私が出るわ』と奥の部屋にいるナディアに聞こえるように言い、彼女は足早にドアの方へと向かった。
 ドアを開くと、そこに立っていたのは、ワインボトルを手にしたミシェルだった。

「Hi Cath , お招きありがとう!」
「ミシェル! いらっしゃい!」

 キャサリンはミシェルと抱き合って頬にキスを重ね、ミシェルの後ろに立つ男の顔を見て瞳を丸くした。

「ミゲル!」
「Hi Cath」
「Hi !  久しぶりね、ミゲル!」

 2人が親しそうに頬にキスを重ねるのをミシェルが驚いた顔で見ていると、キャサリンも、ミシェルとミゲルの2人を交互に見遣り、驚いた表情を浮かべている。

「えっと……えっ? えっ? ちょっと待って! まさか……あなたたち……!?」
「Um……Well , It’s a long story」
「Oh my God !」

 キャサリンがさらに驚いたような声をあげて胸に手をあてた。
 ほら、だから来たくなかったんだ、そういう顔でミゲルがミシェルを振り返る。
 同行を拒むミゲルと、大切な友人だから会って欲しい、と懇願するミシェルとの間で、ここ数日、激しい攻防戦が繰り広げられたのだった。
 結局は渋々とミゲルが折れた。誘いを断れば、ミシェルの顔を潰してしまうことになるからだ。
 当然そんなことなど知る由もないキャサリンが、ああ私ったら、と声を上げた。

「とりあえず入って。好きなものを飲んでゆっくりくつろいでてね。 Oh ! 2人とも! あとでじっくり話を聞くわよ! ちょっと失礼」

 そう言ってキャサリンは奥のほうへと姿を消した。
 連れ立って奥のリヴィングルームへ歩き出そうとしたところで、子供の笑い声がしたので、ふたりはその声に振り返った。
 レイだった。

「ミスター・アンダーソーン!」
「?」
「Ciao ! Ray !」
「??」

 走ってきたレイを、それまで見せたこともないような満面の笑顔で抱き上げ、レイの頬にキスをする。ミゲルのその様子を見て、ミシェルはまるで違う人間を見ているような気になってしまった。

「ご機嫌麗しゅう、殿下」
「うむ。くるしゅうない」
「はは……」
「ねえねえ、また公園で遊ぼうよ、ミスター・アンダーソン」
「いつでもお相手いたしますよ、殿下」
「Hi , ミシェル! きみもきてたんだね」
「Hi ! 元気そうだね、レイ」
「――坊ちゃま、今はそっちに行っちゃいけません、こちらに!」

 その声に振り返ると、声の主はナディアだった。
 仕方なくミゲルはレイを床に下ろし、「また今度、殿下」と笑って、髪の毛をくしゃっとするようにレイの頭を撫でた。
 ナディアはレイの背中を子供部屋の方へそっと押しやると、ミシェルとミゲルを交互に見遣り、少し硬い表情をミゲルに向けた。
 ミシェルがナディアに挨拶しようと口を開きかけた、その時だった。

「……Ciao Ma(やあ、母さん)」

 ミゲルがそう言ってナディアを軽くハグし、彼女の頬に挨拶のキスをした。

「……」

 それには答えず、ナディアは硬い表情のまま、何かを言いたげにミゲルを見つめている。
 そして彼女は小さく息を吐いて瞳を伏せると、今度は慈愛を滲ませた瞳で、ミゲルの頬を軽くぽんぽんと叩くように手のひらを沿わせ、レイの後を追うようにその場から姿を消した。
「Are you alright ?」――ミシェルがミゲルに心配そうな顔を向ける。
 来てしまったものは今さら仕方ないよ、とでも言いたそうにミゲルが肩をすくめた。
 その場から立ち去るようにミゲルが歩き出したので、ミシェルもその後を追ってリヴィングルームへと移動した。


「――ミスター・アンダーソン?」
「Ha」

 シャンパンの入ったグラスを手渡しながら、ミシェルが怪訝な顔を向けると、ミゲルが短く笑った。

「またひとつ、君の謎が増えたよ」
「謎?」
「そう。君って謎だらけの男だから」

 まあ、そこがセクシーなんだけど――誰も周りに居ないのをいいことに、ミゲルの腰を引き寄せ、こっそりと口付ける。

「じゃあ最新の謎を明かそうか」
「うん?」
「これはレイのお遊びで、彼にとって俺は、アンダーソンって名の架空の護衛人ってわけさ」
「架空の護衛人?」
「Yeah , どうやら彼にとっては架空じゃないらしいけど。まあ、この話は長くなるからまたそのうちに」
「あ、さっきのメイドのご婦人も! 君のお母さんだったなんて驚いたよ。それでキャスやレイと親しかったんだね」

 ミシェルの言葉に『Uum……』と口ごもったあと、ミゲルが軽く笑うように息を吐いた。

「……キャサリンの夫が俺のボスでね」
「! どうして黙ってたの?」
「別に秘密にしてたわけじゃない」

 これで俺がここに来たくなかった理由が解ったろ?――ミゲルがそう言って苦笑した。
 ミゲルと母親のナディアには、何かわけがありそうにも見えたが、今それを口にするのは無粋だろう。
 ミシェル自身、母親のアンヌとの間に、時に愛情だけでは解決出来ない複雑なものを抱えてきたのだ、理解出来る。

「まあいいや。今だけでもいくつか君のことを知ったし」

 気を取り直したようにミシェルが頬にえくぼを浮かべると、キッチンの方から大きな皿を持ったラムカがリヴィングルームへと姿を現した。

「ミシェル!」
「Hi ! My Princess !」

 大きな皿を窓際のテーブルに置き、ラムカはミシェルと抱き合って頬にキスをした後、ミシェルの後ろに立つ男に目線を向けた。

「ああ、ラムカ、彼がミゲル。ミゲル、こちらラムカ」

 想像以上にグッド・ルッキングな男だったので、ラムカがミシェルに『Wow !』と言いたげな驚いた顔で目配せをする。
 ラムカとミゲルがよろしく、と握手をして少し話をしていると、少し遅れてショーンがそこに料理を運んで来た。

「あれ、お前も来てたのか」
「お、酔っ払いのお出ましか」
「うるさい、まだ飲んでないぞ」

 ミゲルとショーンが笑いながら抱き合って男同士の挨拶を交わし、ラムカだけが『?』という顔でそれを見ていると、ミシェルがショーンへと手を差し出した。

「この間は失礼。彼女を置き去りにして悪かった」
「ああ、あのあとマジで大変だったんだよ。詳しく聞く?」

 ちょっと!――不服そうにラムカがショーンの腕を軽く小突き、彼の背中を押すようにしてキッチンに再び姿を消した。

「ビックリしたー! 本当にすごいハンサムなんだもの!」
「?」

 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら、ラムカが驚いたように呟いた。

「あー、ミシェルの勝ちかも。でもほんとフェアじゃないわよね」
「? さっきから何の話?」
「ミシェルの新しい彼氏のことよ。さっきの彼」
「What !? ミゲルはゲイじゃないぞ?」
「What !!? そんなはずない」
「ちょ、マジで? 付き合ってるの? あの2人?」
「そうよ。ミシェルったらもうすっかり彼に夢中なんだから」
「Oh Jeez……いつもいい女連れてたあいつがねえ……」
「そうなの?」
「そりゃあもう」

 あいつが通りを歩くだけで、マンハッタンじゅうの女が色めき立つんだぜ?――そうショーンが肩をすくめた。同じ夜に同じ女を口説き、ミゲルに負けた過去があることは言わずにおいたのだが。

「ねえ、ミシェルには黙ってて。彼、きっと凄いショック受けるから」
「解ってる。言えるわけないよ」
「あなたと彼が知り合いだなんて、それもびっくりだわ」
「こっちのセリフだよ」
「知り合って長いの?」
「んーと……そうだな、7、8年ってとこじゃないかな。もともとはフィルを介して知り合ったけど、気が合ってね。いい奴だよ」
「ふーん……」

 その時、『Oh my Gosh !』というベティの大声がキッチンまで聞えたので、ラムカはリヴィングルームの方へと顔を向けた。

「――あの時の彼よね? レイのボディガードみたいな、ホラ、うちのサロンにティナを迎えに来たでしょ? レイと一緒に」
「Uum , yes」
「えっ!? 君がうちのサロンに!? いつ!?」

 ミシェルが『そんな話は初めて聞いた』とばかりに驚いた顔をミゲルに向ける。

「まだ寒い時だったわよね?あなたあの時、確かサングラスかけてて」
「そうだったかな」
「そうよ、あの日よ。忘れもしないわ。浮気された最悪の日だもの!」
「Oh」
「ほら、ミシェル、同じ日にラムカも幼稚園クビになっちゃってさ、あの日よ。憶えてるでしょ?」
「あー……」
「――B !」
「ラムカ」

 そこに現れたラムカがベティとハグをしたので、ミゲルはようやく解放された。

「ちょっと手伝って――Excuse us !」

 そう言ってラムカがベティの背中を押すようにキッチンへ連れて行く。キッチンへ行くとそこにはショーンがいて、料理の盛り付けをしていた。

「Hi Sean」
「Oh , Hi Betty」
「こないだはこの眠り姫の面倒みてくれてありがとう」
「Yeah , その埋め合わせに手伝いに来たのかい?」
「もっちろーん!」
「いいから! ちょっとこっち来て!」
「なになになに」

 ラムカがキッチンの隅にベティの手を引っ張って移動した。

「Look !  ミゲル、どうやらバイ(バイセクシャル)みたいなの」
「あらま。そうなの?」
「ううん、バイかどうかは解らないけど、少なくとも以前はストレートだったみたい」
「……ってことはさ、あたしでもOKってことよね? やった!」
「なにバカな事言ってんの、いい? ミシェルには言っちゃだめよ」
「ん? ミシェルは知らないの? じゃあいったい誰の情報?」
「俺」

 ショーンが真剣な表情で料理にソースをかけながら言う。

「お嬢さんたち、ガールズ・トークはパントリーの中で頼むよ。気が散るから」
「Oh , sorry」
「もう終わったわよ。あーっ! 運ぶ運ぶ! 貸して!」

 盛り付けた料理を運ぼうとするショーンのもとへとベティが走り寄り、「美味しそうー!」と言いながら、受け取った皿をリヴィングルームへと運んで行った。
 笑いながら、やれやれ、といった感じで首を振り、彼がベティの後姿を見送る。

「とりあえずこれで終わり?」
「ああ、あとは様子見ながら追加していくよ」
「OK」
「Hey」
「?」
「……Thanks」
「……Anytime」