Magnet 34 「 It's too late for a gimlet 」












34. 「It's too late for a gimlet」 ― ギムレットには遅すぎる ― 





 マンハッタン……のどこか  8:25 a.m.

 ぐーがっ………ぐーがっ……――耳障りなくせに規則正しく鳴り響くいびき。漂う不快な酒臭さ。
 何でダディがここに? それともこれは子供の頃の夢?

「……ん……」

 ずきん、と痛む額に手を当ててうっすらと瞳を開ける。
 次の瞬間彼女は飛び起き、隣でいびきをかく見知らぬ男の顔を見下ろした。
 だ、誰!?

「いっ……」

 再び襲う頭痛に顔をしかめ、こっそりとベッドを抜け出して、散らばった服をかき集めた。
 昨夜のことを思い出すことより先に、急いで服を身に着け、忍び込んだ男のバスルームで鏡を覗く。
 ラムカみたいに、もしここにショーンがいれば、同じようにマリリン・マンソンだと言われたことだろう。
 そんな悠長なことを考えている暇はないのだった。急いで逃げ出してしまわないと!
 彼女はこそっとバスルームから部屋に戻り、男がまだいびきをかいてぐっすりと眠っているのを確認すると、その部屋から逃亡を図った。
 すぐに通りでキャブを拾い、チェルシーにあるミシェルの家まで戻り、バスルームに駆け込んだ。
 シャワーを浴びて、ミシェルの部屋をノックする。返事はない。そうだった、昨日彼はミゲルのとこ行ったんだっけ。
 時計を見ると、急いで支度しないと遅刻しそうな時間だったので、慌てて支度をして家を出た。

 地下鉄の中で、ぼんやりと昨夜のことを思い出してみる。クラブでエミやランディたちと飲んでいたのは憶えている。
 どのあたりから記憶がぶっ飛んじゃってるの?えーっと、確か踊ってたら男が寄ってきて……カウンターで一緒に酒を飲んで……
 どう頑張って思い出してみても、彼女の記憶はそこでぷっつりと消えている。ただし、体の中心部には、その後の記憶がしっかりと残されていた。
 やだ、じゃあやっぱりあの男と…!? 嘘でしょ!? ――彼女は道の真ん中で頭を抱えて立ち止まった。

 やっとの思いでサロンにたどり着き、ガラスのドアを開ける。こんなにこのドアが重いと感じたのはこれが始めてだ。
 そしてさらに奥のスタッフルームのドアノブに手をかける。表のドアよりも数段重い。彼女はえいっと気合を入れてそのドアを開いた。
 途端に、中にいた数人がいっせいに彼女に目を向けた。彼らの表情を見て、昨夜とんでもない姿を仲間に晒してしまったのだろう、すぐにそう覚った。

「――Good morning ! Queen Elizabeth !」
「Shut up !」

 ニヤニヤするランディにそう声を上げると、彼女はロッカーを開けて荷物を仕舞い、大きな音を立てて扉を閉めた。



 それからおよそ1時間後、遅番のエミが出勤してきたので、彼女はエミを捕まえてパウダールームに駆け込んだ。
 昨夜あたしに一体何が起こったの!?――そう恐る恐る尋ねるベティに、エミは『聞かないほうがいいかも』そう言って肩をすくめた。
 お願い、話して、そう懇願すると、どうやら彼女は昨夜、かなり酒に酔ったようで、寄ってきた男とカウンターで激しくキスをしたり、今にもそこで脱ぎ始めてことを始めそうな勢いで、その男といちゃついていたのだそうだ。
 出会ったばかりの知らない男と一夜を共にした、それ自体はこれが初めてではなかったし、その時に盛り上がった気持ちを優先した結果であり、後悔したことはなかった。そこから恋が始まったことだってあったのだから。
 けれど、そんな痴態を仲間に晒した挙句、記憶のない状態で見知らぬ男と寝ただなんて! ありえない! それだけはすまいと心に誓っていたのに!
 それでも彼女は何とか気持ちを切り替え、予約の客の施術はこなすことができたが、合間に出る溜息に自分で溺れそうになってしまった。
 途中、何度かミシェルの方へと目線を送ったが、彼は昨夜のベティのことは何も知らない様子で仕事に没頭している。

 そのうちに昼の休憩時間になってしまったので、彼女はひとり、向かいのカフェへとぼとぼと歩き出した。
 カウンターにポールの姿はなかった。何故かそのことにホッとするような思いで、彼女はフレンチトーストとコーヒーを注文し、珍しくサロンに戻らずにカフェの店内の席に座った。またスタッフルームで仲間にからかわれるのはごめんだったし、今は独りになりたかったのだ。
 ぼーっとした顔でコーヒーを飲み、頬杖をついたまま窓の外へと視線を向けると、ミシェルが外へ出ていくのが見えた。どこかへランチに出かけるのだろう。
 あーあ、やっちゃった……あたしってほんと馬鹿―――出るのは後悔と溜息ばかり。いわゆる『自己嫌悪』というやつだ。酒の失敗ほど恥ずかしいものはない。
 先日、他人事のようにラムカのそれを茶化して笑っていたのに。ごめんラムカ。ほんと、全然笑えない、こんなの。

「――Are you alright ?」
「……あ?」

 声に顔を上げると、ポールがそこに立っていた。

「Hi , Paul」
「Hi , ひどい顔してるよ、ベティ。どうかしたのかい?」
「Uum……何でもない……って嘘になるか……」

 だいじょうぶ、ちょっと失敗しちゃって……落ち込んでるだけだから――彼女は精一杯の虚勢を張り、ポールに笑顔を向けた。

「Um……元気出して、ベティ」
「……Thanks」
「ああ、こんなことしか言えなくてごめん。僕に何か出来ることがあればいいんだけど――」
「――No no no , だいじょうぶよ。ありがとう、ポール」
「コーヒーおかわりするかい?」
「……ううん、それより、NYいちのカプチーノ、淹れてくれる?」
「OK , 待ってて」

 ベティに笑顔を向け、ポールがカウンターの方へと歩いて行く。
 その一部始終をこっそりと見ていたジェニーの鋭い視線にも気付かずに、ポールは真剣な表情でベティのためにカプチーノを作っている。
 数分後、ベティの目の前に置かれたマグカップ。彼女はそれを見てくすっと笑い、少しだけ潤んだ瞳で、ポールに『ありがとう』と笑みを向けた。
 彼がベティに運んできたカプチーノには、キュートなスマイルマークのラテアートが描かれていた。









 ミッドタウン・ノース 1:45 p.m.

 その日の正午過ぎ、彼女はミッドタウン・ノースにあるレストランでランチをとっている。ファッション雑誌の編集者とのランチ・ミーティングのためだ。
 いつもなら広告の担当者に任せる仕事だったのだが、この雑誌の編集者・クレアとは古い付き合いの友人でもあったので、この雑誌の仕事に関してはブランドの代表者である彼女が直接出向き、打ち合わせをするのが常だった。
 そのクレアが仕事関係の電話のためにテラスへと出て行った。その間、キャサリンは何気なくきょろきょろと店の中を見渡し、そして、離れたテーブルにミシェルの姿を見つけ、笑顔で席を立った。

「――Excuse me」
「――Cath !」
「Hi , Michel !」

 席を立ったミシェルとハグしながら頬にキスを重ね、彼女はミシェルの向かいに座る男の顔に目を向けた。

「ああ、キャス、彼はラッセル。ラッセル、こちらキャサリン」
「はじめまして。ラッセル・チェンバースです」
「キャサリン・クリフォードです、よろしく。邪魔をしてごめんなさいね」
「とんでもない」

 もしや、この彼が例の『運命の相手』?――キャサリンがラッセルと自分の顔を交互に見て、そう言いたげな目をミシェルに向けたので、彼は笑って首を横に振った。

「Non , 残念ながら、彼は僕の親友」
「そうだったのね」
「前に話した彼となら、上手くいってるよ」
「そうなの! 良かったじゃない!」
「うん、ありがとう」
「Uum……ミシェル、その……」
「Yeah ?」
「えっと……Oh , 友達が戻ってきちゃった。また電話するわ」
「OK , 待ってる」
「お邪魔したわね」
「No ploblem」

 ミシェルとラッセルに笑みを向けて彼らのテーブルを離れると、彼女は自分の席に戻り、クレアとのミーティングの続きを始めた。


「――彼と上手くいってる? まさかキースとよりを戻したわけじゃないよね?」
「違うよ。新たな恋、ってやつ?」
「Whoa , congratulations ! いつの間に?」
「君がNYに戻る少し前かな……いや、あとだっけ」

 ラッセルにミゲルのことを軽く報告していると、ラッセルの電話が鳴り、彼は届いたテキストを読むなり声を上げた。

「Oh Jeez , 悪い、オフィスに戻らないと」
「マジで」
「またゆっくり夜にでも会おう。あ、ベティも一緒にどうだい?」
「OK , 伝えとくよ」
「じゃあな」

 多めの金を置いてラッセルが席を立つ。全く、いつでも例外なく忙しい奴だ。
 軽く笑って時計を見る。彼もそろそろサロンに戻らなくてはならない時間のようだ。
 帰り際、キャサリンの方をちらり、と見ると、彼女が彼に気付いて手を上げたので、指先で彼女にキスを送った。


 それから数時間後、彼のiPhoneに届けられた、彼女からのメッセージ。
『週末、家で軽いパーティーを開くから、ベティやラッセル、それから例の『運命の彼』を連れて是非、遊びに来て!』――メッセージにはそう書かれていた。








 ミッドタウン 7:15 p.m.

 クリフォード家からの帰り道、彼女はミッドタウンを西の方向へと歩いている。ベティとミシェルの2人と合流するためだ。
 それは仕事中にベティから緊急事態の召集がかかったからなのだが。
 待ち合わせのカフェに辿り着くと、まだ2人は来ていなかったので、取りあえず見つけた空席に腰を下ろし、2人を待つことにした。
 バッグの中から携帯電話を取り出してテーブルに置き、それから次に小さい本のようなものを取り出した。
 それはハンドサイズのお菓子のレシピ集で、例のショーンからのオファー以来、持ち歩いているのだった。
 しばらくそれを眺めているうちにベティがやってきて、ラムカの目の前にどかっと勢いよく腰を下ろした。

「Hi」
「――今すぐあたしを撃ち殺して!」
「Wha ?」

 いきなり物騒なことを言い出すベティに怪訝な顔を向ける。

「一体何事?」
「Please kill me NOW !」
「……ぷしゅ!」

 今すぐに!と強調してベティがそう言うので、ラムカは指で作ったピストルでベティを撃つ真似をした。

「Uummm……」

 そう声にならない声をあげたきり、死んだふりでもするように、テーブルに伏せたまま動こうとしないベティに業を煮やし、ラムカははーっと息を吐いた。

「いい加減白状しないと帰るよ」
「……やだ。帰んないでよう」
「ねえ、一体どうしたの、何があったって言うのよ」
「………」
「……言いたくないならいいわよ。でも死んだふりはミシェルが来るまでよ、いい?」
「うー……」

 やれやれ、という顔をしてベティから顔を上げ、手元のレシピに再び目線を移す。
 相変わらずベティはテーブルに突っ伏したまま動かないでいる。
 仕方なく彼女はしばらくの間ベティを放ったまま、レシピに目を通していた。

「………知らない男と寝ちゃった」
「ん?」

 そのまま寝てしまったのかと思うほど、じーっと動かないでいたベティが、突っ伏したままボソリ、と呟いた。

「今何て!?」
「聞こえたくせに」
「いつよ!? 昨日?」
「うん」
「それってでも……」
「もう最悪だよ」
「ねえ――」

 そこへ遅れてミシェルが到着したので、ラムカはミシェルに手を上げて合図を送った。

「――お、逝っちゃってるねえ」
「さっきからずっとこんな調子よ」

 3人揃ったので、カフェの店員に取りあえず適当に注文を済ませると、ミシェルとラムカは顔を見合わせ、テーブルに伏せたままのベティへと視線を向ける。
 やがて、少し落ち着きを取り戻したベティが一部始終を話し始めたので、彼らの会合が正式にスタートした。


「――で、何でそんなに落ち込む必要があるのさ」
「そうよ。別に初めてのことじゃないじゃない」
「No no no , 今までのはさ、ちゃんと意識があって、自分でそうしたいと思ったからそうした訳じゃない? だけどさ……」
「酒で記憶がぶっ飛んでたから?」
「色々最悪だけどさ、何が一番悔しいかってね」
「うん?」
「せっかくセックス出来たってのに、楽しかったとか気持ちよかったかどうかなんて、何一つ憶えてないってことよ!」
「えっ、そこ!?」
「あー……」
「憶えてないならやってないのと同じじゃない! それなのにみんなの前で恥だけかいちゃってさ、ほんとバカみたい」

 そう溜息を吐くと、ベティは腹立ちまぎれにミシェルの皿にフォークを突き立て、彼のポーチトエッグを勝手に潰した。

「Wow , 楽しみを奪ってくれてありがとう」
「Aww……」

 ミシェルの皮肉の後、ベティがラムカの料理も狙おうとしたので、彼女はさっと皿をベティから遠ざけ、やめなさい、とばかりにベティに人差し指を向けた。

「ねえ、やってないのと同じなら、もう忘れちゃいなよ。そんなの、なかったことにしちゃえばいいのさ」
「そうそう。きっと夢でも見たのよ。ほら、欲求不満だっていつもこぼしてたじゃない? きっとそのせいでそんな夢見ちゃったのよ」
「Uum……」
「ね、しばらく禁酒しようか? 私と一緒に」
「ぶっ」

 立て続けに酒の失敗をやらかした女同士、噴き出した。ようやくベティの顔に笑顔が戻った瞬間だった。

「これも経験だよ、ベティ。僕だって酒の失敗は数知れず。そうそう、昨日だってミゲルと――」
「――今のろけたら殺すよ」
「……Oui(ウィ)」

 ラムカとベティの2人が指で作ったピストルをミシェルに向けたので、彼は軽く両手を上げ、それ以上ミゲルの話をすることはやめた。

「――Oh ! そう言えば――」

 突然ラムカが何かを思い出したように声をあげた。

「週末クリフォード家でパーティーするからあんたたち2人を連れていらっしゃい、って帰り際に言われたんだけど」
「ああ、キャスでしょ」
「そう」
「今日彼女に偶然会ってね。その後で僕にもメッセージが届いてた」
「彼、連れて行くんでしょ?」
「ミゲル? どうかな、一応話してみるけど」
「マジで!? うわっ! 絶対連れて来てよ!」

 やったー! 彼に会えるー! ――さっきまでの落ち込みはどこへやら、ベティが浮かれた声を上げる。

「ねねね! ホントにミスター・パーフェクトかどうか賭けようよ!」
「ちょっと! 僕の言葉を疑うの? 完璧に決まってるでしょ?」
「お言葉だがねピノトー君、この世に完璧なものなどないのだよ」
「Non , 彼だけは特別!」
「そりゃあんたにとってはそうでしょうよ」
「ふふん、知らないよ」
「何が」
「僕が賭けに勝つのは目に見えてる」
「Ooh !  言ったね!」

 その後彼らは、昨日の夜をリセットしようと言うベティの言葉に、久しぶりに3人でナイトクラブに出かけた。
 酒の代わりにソーダを飲み、げらげらと笑い、音楽に合わせて体を揺らして、純粋に音楽と戯れて楽しい時を過ごした。
 本当に楽しい時というのは、酒の力など必要としないのだ。大切な仲間と、とびきりの笑顔さえあれば。