Magnet 32 「 Sheryl Taylor's day off 」












32. 「Sheryl Taylor's day off」 ― シェリルはある朝突然に ― 





 ナディアから電話が掛かってきたのは、彼女が朝、ベティやミシェルと朝食を食べている時だった。
 朝食と言っても、ショーンが用意してくれたようなきちんとした食事ではなく、シリアルにミルクをかけただけのものと少しのフルーツ、土曜日の早朝に焼いたサモサふうのアップルパイの残り、それからコーヒー、ただそれだけだったのだが。
 何でも、レイが今朝熱を出してしまったので、大事を取って幼稚園を休ませたのだそうだ。
 だから一日レイをベッドで休ませることになるので、今日は仕事に出て来なくてもいい、という連絡の電話だった。
 この連日の出来事で、彼・ショーンと顔を合わせるのは少し気まずかったから、来なくていいというナディアの言葉に正直、救われたような、ホッとした思いが湧いたのは事実だった。

 けれど、レイのことはとても心配だった。すぐに熱を出すのが子供だと言っても、レイは体があまり丈夫ではない。きっと苦しい思いをしているだろう。そんな時に押し掛けて彼の負担になってはいけないが、一応彼女はレイの子守として雇われているのだ、何か少しでも手助け出来ることがあるかもしれない。
 だけど彼に会うのは気まずいし、どうしようかしら、と悩んだ結果、レイを見舞うために、やはり顔だけは出そうと決めた。
 いつもは幼稚園に直接レイを迎えに行き、そのままレイを連れてクリフォード家へ行くのだが、今日は駅から直接71丁目まで向かうことになる。
 ショーンがクリフォード家に姿を現すのが大体2時から3時の間なので、なるべく彼と顔を合わさずに済むように、1時頃には到着するように早めに家を出た。
 ナディアは最初、彼女の顔を見た時に『何故来たの』と驚いていたが、レイを見舞いに来たことを告げると喜んで迎え入れてくれた。
 少し疲れた様子のナディアの表情が気にかかったから、なおさらのこと、何かしら手助けをしなくては、そう思うラムカだった。

 彼女はすぐにレイの部屋へ直行し、こそっと覗くようにレイの様子を窺った。レイは規則正しい寝息を立てていて、いつもよりも少しだけ青白い顔色をしているように見える。
 そっとベッド脇の椅子に腰かけて、レイの顔を覗き込む。額にうっすらと汗をかいていたので、枕元に置かれたタオルでそっと汗を拭うと、レイがゆっくりと瞳を開いた。

「Oh , sorry」
「Hi……シェリー」
「Hi , 気分はどう?」
「うん、たいしたことないよ。ママが大げさにしんぱいしてるだけだから」
「No no no , 熱があるのよ? ゆっくり寝てなきゃ」
「うん、ありがとう」
「何か飲みたいもの、ある?」
「うん、アップルジュースが欲しい」
「OK」

 彼女はレイの額に軽くキスをして立ち上がると、アップルジュースを取りに行くためにキッチンへと向かった。
 そしてキッチンへ足を踏み入れた瞬間、驚いて思わず声をあげた。いつもならこの時間にいるはずのないショーンが、そこにいたからだ。

「Oh !」
「!」
「Um……Hi」
「Hi」
「どうしたの? こんな早くに」
「……Yeah , 実は今夜のメニューを決めてなくてさ。何の在庫があるか見てから買い出しに行こうかと思って、それで……」
「Oh……」
「君は? 今日は休みだったんじゃ?」
「Uum……Yes , 来なくていいって連絡があったんだけど、レイが心配で……その、つまり……ただレイのお見舞いに来ただけ」
「……Oh yeah ?」

 レイのためだけにここへ来た、そうわざと強調するような言い方をしてしまった。彼女はそう自覚し、そして次の瞬間、そのことを後悔した。何故なら、彼の瞳がそうさせたからだ。
 どうしてこんな早い時間にいるの?と驚き、そしてレイのためだけに出てきた、そう強調するような彼女の言葉に、彼が少し不服そうな、何か言いたそうな視線を向けたのだ。
 そこには、会いたくないから早い時間に来た、それなのに俺がいて、それが君には不快なんだろ?――そう言いたげな色が宿っていた。
 彼のその瞳を見て気付いてしまった、本当の気持ち。彼に会いたくないだなんて、そんなの嘘。ここのところずっと心がぐらぐらと揺れて落ち着かなくて、どうしていいかわからない。ただそれだけなのに。
 気まずい気持ちを抱えたまま、彼女は彼の瞳から逃れるように、冷蔵庫からアップルジュースを取り出した。
 そしてストローのついた子供用のドリンクカップにそれを入れ、ふたを閉めて、ゆっくりと彼へと振り返った。

「……Look」
「?」
「……昨日は本当にありがとう。その……お礼が遅くなってごめんなさい」
「……No problem」
「So……」
「?」
「クミンシードとキャベツのあれ、今度レシピを教えてもらわなきゃ」
「Hah」

 彼女の言葉に彼が短く笑った。そして、『じゃあ』と彼に背を向けて歩き出した彼女に、『ああ、そうだ』と彼が呼び止めるような声をかけた。

「これ……」
「!」

 彼がポケットから取り出して手のひらに乗せた、彼女の忘れていったピアス。
 彼の部屋にそれを忘れてきた、それは全く彼女の頭になかった。それもそうだろう、寝ている彼女の耳から彼が勝手にそれを外したのだ、彼女がそれを知る由もない。
 彼が昨夜、このピアスを届けにブルックリンの彼女の家の前まで行ったことも、このピアスを外した後、彼が、眠る彼女にキスをしようとしたことも、当然ながら、彼女は何ひとつ知らないでいる。
 そう、彼の行動をすべて知っているのは、このピアスだけだ。
 それを自覚しているのかしていないのか、何となく、彼はこのピアスを彼女に返したくない気持ちにもなってしまったのだが。

「Oh……Thanks」

 彼女の『ありがとう』の言葉に、いつものように彼が軽く首をかしげ、『どういたしまして』というあのお決まりの表情をしてみせる。
 その表情に、彼女の心が、キュッと縮まるような小さな音を立てた。再び気まずい思いが湧きあがり、『レイが待ってるから』と言い訳をして、彼女は逃げるようにキッチンから姿を消した。

 レイの部屋へ戻ると、彼女がキッチンでショーンと話をしている短い時間の間に、どうやら再び眠ってしまったようだった。
 ベッド脇の椅子にそっと腰かけ、ナイトテーブルの上にアップルジュースの入ったドリンクカップを静かに置いた。
 不思議なことだが、レイの母親でもないのに、こうして毎日のようにレイの寝顔を見ていたような気がするのはどうしてなのだろう。
 こんなふうに思うのは、実はこれが初めてのことではなかったのだが。
 レイの額にそっと手のひらを乗せると、少し熱が引いているようだった。それからしばらくレイの寝顔を見つめていると、コンコン、と小さく壁をノックする音がしたので、その音に振り返ると、ショーンがそこに立っていた。

「どんな様子?」
「熱は下がってきたみたい。部屋に戻って来たらもう寝ちゃってた」
「そうか……」

 Hey buddy , 早く元気になれよ――ショーンは腰をかがめてレイにそう言うと、レイの髪にそっと唇を置いた。
 再びの既視感。彼女は何度もこんな光景を見ていたような気がして困惑した。小さい子供の髪に口付けるショーンを、今までにも何度も見たような気がしてならないのだ。
 私ってもしかして、どこかおかしいのかしら? そう不安な気持ちになった時。

「これから買い出しに行くんだけど、君も行かない?」――そう言ってショーンが再び首をかしげた。





 ショーンのバイクから降り、ヘルメットを外して見渡すと、そこは来たことのないマーケットの前だった。
 以前レイを連れて3人で行ったマーケットは確かサード・アヴェニューにあったが、ショーンがその日彼女を連れて来たのは、ユニオン・スクエア近くに位置するマーケット。さほど広くはないが、近郊で採れた有機栽培の野菜や、薬品を与えずに育てた鶏肉や牛肉など、安心して食べられるものを厳選して売っている、そんなオーガニック・フード・マーケットのようだった。
 野菜を吟味するショーンを残し、ラムカは興味深そうに店内をウロウロと歩き回り、そしてスパイスコーナーの前で立ち止まった。
 スパイス類は主にブルックリンのアトランティック・アヴェニューにある「サハディーズ*」というアラブ系の食材店で買っていて、よそで買うことはあまりないのだが、彼女はどこのマーケットへ行っても、スパイス類を見て回るのが単純に好きなのだった。
 そう言えば家にあるクミンシードがもうそろそろ切れそうだったかも、そう思い出した。いつもは「サハディーズ」で買っているけれど、ついでだし、ここで買って帰るのもいいかも。そう思い、クミンシードの入った小さなガラスのボトルを手に取った。
 そしてそのまま、上から下へ、右から左へ、と棚の隅々まで視線を移動させていると、製菓用の材料が揃えてあるコーナーに辿り着いた。
 そうだ、土曜日にアップルパイを焼いた時にクルミがなかったんだった。そう思い出してクルミの袋を探していると、「ここにいたのか」と言いながら、ショーンがそこへ姿を現した。

「それは?」

 彼女が手にしているスパイスのボトルを彼が指差して尋ねる。

「これ?」

 彼の目の前にボトルをかざすと、それがクミンシードだと知った彼が軽く笑った。

「キャベツも買わなくていいの?」
「まだレシピ教えてもらってないし」
「よっぽどあれが気に入ったらしい」
「カレー用よ。決まってるじゃない」

 ふん、と鼻を鳴らすように笑ったあと、彼はそこが製菓用の材料のコーナーであることに気が付いた。

「クルミ?」
「え? ああ、そう。アップルパイとかクッキーにいつも使うの」
「ふーん……」

 彼は2日前の土曜日に、彼女の作ったという不思議なアップルパイを食べたことを即座に思い出した。確かあれにはクルミは入っておらず、シリアルのようなものが入っていた気がしたのだが。

「クルミは入ってなかったけど?」
「Wha ?」
「君のアップルパイを食べたんだ。サモサ風の三角形のやつ」

 彼女は土曜日の夜、あのバーでの彼の「Hi , miss apple pie」の言葉を思い出した。
 何故あの時彼がアップルパイだなんて言い出したのか、さっぱり訳がわからなかったのだが、今度は、何故休みのはずの彼があれを食べるに至ったのか、別の疑問が湧いた。
 そして食のプロである彼に味見をされていた、と後で知るのは、あまり快適とは言えないものだが、そんな彼女の葛藤も一瞬で消え去った。
 何故なら彼が「美味かったよ」と言ってくれたからだ。

「ちょうど切らしてたから、クルミの代わりにシリアルを入れたの」
「ふーん、俺としてはあのシリアルが気に入ったんだけど。って言うかさ、あんな味のアップルパイは今まで食べたことないよ。そういや姉が絶賛してた」
「ほんと? ありがとう。あれは母の自慢の味なの」
「形も面白いし、週末のグリーン・マーケットで売り出せば、NYの新しい名物になるかも」

 彼の言葉に「No」と軽く笑って首を振り、彼女は先に支払いを済ませてショーンを待った。

「じゃあ次の店に行こうか」
「え? まだあるの?」

 配達の手配を済ませたショーンが、笑いながら店のドアを開いた。
 そして停めてあるバイクへと歩きながら、ふっと何かを思いついたように歩道で立ち止まった。

「――Look」
「?」
「ずっと考えてたんだけど……」
「Yeah ?」
「レイに食べさせるお菓子を作ってもらえないかな」
「What !?」
「今日これから、ってことじゃなくて、その……日常的にって意味」
「日常的に? どういうこと?」
「本当はディナーのデザートまでお願いしたいとこだけど、贅沢は言わないよ」
「I……don’t get it (言ってることわかんない)」

 突然の彼の提案に、さっぱり意味が解らない、という顔で彼女が肩をすくめた。

「正直、デザートまで手が回らなくてね。甘いものは苦手だし、作るのも自信ない。今のとこ、買ってきたやつを適当にデコレーションして出してるけど。それとは別に、レイには……何て言うか……ホームメイドの素朴なお菓子みたいなものが必要な気がしてさ」
「どうして私なの?そんなお菓子ならそこらじゅうで売ってるのに?」
「No , 買ったものじゃ意味がないんだよ」
「Why ?」
「ちょっと前にクッキーを焼いてあげてたろ? レイにも手伝わせてさ」
「そうだけど……」
「あの時、レイのやつすごく楽しそうだったし、ああいう時間をもっと作ってあげられたらいいなと思ってて。ほら、大きな声じゃ言えないけど、キャサリンはそういうのを作るタイプの母親じゃないだろ?」
「さあ……」
「レイは女の子じゃないし、そんなの必要ないって言われればそうかもしれない。だけど、『何かを作る』とか『手伝いをする』って経験は、子供にとってすごく重要だと思うんだ」
「……Yeah……You’re right(そうよね)」
「工作とか絵とか、何もお菓子に限ったことじゃないんだけど、君のあのアップルパイやクッキーを思い出したら閃いてさ」
「Oh……」
「もちろん毎日とは言わない。君の仕事は俺のアシスタントじゃないし、レイの子守や家庭教師がメインだってことはよく解ってる。その仕事の一環としてって言うと都合良すぎるだろうけど。君の仕事の邪魔をしない程度でやってくれればいいんだ」
「週に1回とかでもいいの?」
「Yeah , 2週間に1回、いや、1か月とか、いや、3か月に1回でもいいんだ。Oh , ちゃんと報酬も支払うよ」
「クリフォード家のキッチンで、ってことよね? あなたの邪魔にならない?」
「もちろん。そこは気にしなくていい」
「……OK , わかった。やってみる」
「商談成立」

 彼が握手を求めて手を差し出したので、それに応えて彼女も手を差し出した。それは、エレヴェイタ―の中での、再会の日以来の握手だった。
 彼の手ってこんなに大きかったっけ。そう思うのと同時に、昨日マグカップを受け取る時の出来事を思い出してしまった。
 それだけでもまた彼女の心がぐらぐらと揺れて落ち着かないというのに、彼ときたら、またあの表情で首をかしげて彼女を見ているのだ。
 またしても心がキュッと縮れる音がして、彼に聞こえやしなかったかと彼女は内心慌てていた。





 その後、人気のスウィーツ店を2つ3つと巡り、彼女の助言に従っていくつかのスウィーツを買い、クリフォード家に戻った。
 甘いものが苦手な彼にとっては、毎回それらを選ぶのも苦手で、だから彼女を買い出しに誘ったのだと知った。
 クリフォード家に戻ると、まだ仕事中のキャサリンが、レイの様子を見に一時的に帰宅していた。
 キャサリンは、休んでいいという連絡を受けながら見舞いに来たラムカに礼を言うと、ショーンへ「ちょっといい?」と声をかけた。
 買ってきたスウィーツを冷蔵庫に仕舞うラムカの背後で、キャサリンが彼に「取材の依頼が入ったの。受けてもらえる?」と話している声が聞こえる。

「取材?」
「そう。さっき『Foodies journal』から取材の申し込みがあったの」
「アマンダ?」
「そう、彼女からよ。何でもNYのプライヴェート・シェフの特集を組みたいんですって」
「うーん……正直、あまり気が進まないんだけど」
「せっかくのチャンスじゃない、断る理由が解らないわ」
「取材とか撮影とか、そういうの苦手でね」
「私はOKしたわよ。あとはアマンダと直接話して決めて」
「わかった、そうするよ」

 彼がアマンダと楽しそうに話をしていた姿を思い出し、再び彼女の心がぐらぐらと揺れる。やっぱり何だか落ち着かない。
 けれど、取材はきっと彼にとって、ひとつのチャンスなのだろう。それは喜ばしいことであり、彼女自身、想像するだけでも高揚した。
 キャサリンが出て行った後も、彼は腕組みをして、じっと考え込んでいる様子だ。
 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう――後になって彼女はそう後悔することになるのだが、気が付けば、考え込む彼にひと言、こう声をかけていた。

「やってみれば? 何か出来ることがあれば、私も手伝うから」