Magnet 24 「 Backstage 」












24. 「Backstage」 ― 小芝居の舞台裏 ― 





グリニッジ・ヴィレッジ  1:15 a.m. 


君を知りたい。
身体だけじゃなくてもっと、色々なことを。
例えば君に与えられた名前の総て。例えば君が心を動かされるもの。君が心から大切にしているもの。君が愛するもの。君が苦手なもの。
君がどんなことに興味を持ち日々を過ごしているのか。君がどんなことに怒りを感じ、どんなことに幸せを感じ、どんなことに安らぎを求めるのか。

君が何故、僕を知っていたのか。


そうっと男の寝顔を見上げる。まるで答えをせがむかのように。けれど、男の瞳が開かれることはなく、唇がそれを語ることはない。
それでも彼は、満ち足りた思いで、男の腕の中にいた。こうして君の傍で眠ることを許されたのは、あの女じゃない。この僕だ。この胸元に残された赤黒い痕も、この僕が付けたものだ。彼は満足げにそれを見つめ、もう一度、そこへ柔らかな唇を当てた。
そして男を起さないよう、裸のまま、そっとベッドを抜け出して窓辺に立ち、眠らない街の景色をそこから眺めた。
彼の暮らす町よりも少し賑やかな場所だったからなのか、それとも昂揚がまだ治まらないのか、ミゲルのように眠りに落ちることが出来ない。
でもだからこそ、思いのほか柔らかなミゲルの寝顔や、まだ幾分か濃密さを残した甘い静寂をひとり味わう贅沢を手に出来たのだ。
サイレン、クラクション、通りに響き渡る男女の大きな笑い声。眠らない都会の夜に付き物のそれらが、ミシェルの意識をふっと現実に引き戻した。
そういえば、ベティはラッセルと上手く行っただろうか。もしかしたら今頃は彼の腕の中かもしれない。
僕と同じように彼の腕の中からこっそり抜け出して、窓の外を眺めてたりして。
その思いつきにくすくす、と笑い、彼は窓に映りこんでいるベッドへと、何の気なしにふっと目を向けた。
「!」
眠っていると思っていた男と、窓ガラス越しに視線がぶつかる。ごめん、起こした?――そう振り返ると、男は首を横に振った。
「何を笑ってた」
ミゲルが唇の端と片方の眉を軽く上げる。間の抜けた顔を見られてたかな。彼はばつが悪い思いで、何でもない、そんなふうに肩をすくめてみせた。
軽い笑みを浮かべたまま、ミゲルはずっと彼に視線を注いでいる。熱が消え去ったはずの身体に再び火が点くような気がして、彼はベッドのほうから再び窓の外へと視線を戻した。
背中越しに、ぎしり、とベッドが軋む音が聞こえる。夢中になっていた時には気にも留めなかったそれが、今は彼の胸をとくん、と揺らしていた。何故ならそれは、男が、窓辺に立つミシェルの傍へ行くためにベッドを離れた音だったから。
窓ガラスに映りこんだ男がゆっくりと近付いてくる。その気配と甘い期待に、彼の背中の羽がぞわり、と逆立つように揺れた。
「向いのビルから丸見えかな」
「構うもんか」
後ろから廻された腕に手のひらを沿わせ、男の肩にもたれるようにして一緒に窓の外を眺める。
向いのビルや周りの景色から窓ガラスの自分たちに焦点を戻すと、そこにはあの日、バーでミシェルを熱く見つめていた時と同じ瞳が見えた気がした。

「……ねえ」
「?」
「さっきの彼女は恋人? まさかね」
「……大昔の女だ」
「!」
「恋人と別れて欲求不満だって言うから、相手してやった」
「他にもいるの?」
「寝る女か?」
「……うん」
「訊いてどうする」
「君を……女と共有したくない」
「……」
「ねえ、解るでしょ」
「……彼女だけだ。他の女とは寝ない。今のところはな」

『嫌だよ。他の誰とも寝ないで』――そう喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
その代わり、振り返り、男の首に腕を廻し、思いのたけを彼の瞳に注いだ。
君を知りたい。君に愛されたい。
君を―――僕だけのものにしたい。


「ねえ、教えて」
「うん?」
「どうして僕を知ってたの?」
「……さあ」
「教えてよ」
「君を知っていた……ただそれだけじゃ、答えにならないか?」
「ふふ、強情だね」
そう笑って男の唇を撫でると、すぐに指先は剥ぎ取られ、唇を塞がれた。もう何も訊くな。そう言わんばかりに。
「……ん……」
甘い声を漏らしながら、滑り始めた男の指先に身を委ねる。




溺れていく。深く、深く、どこまでも。
僕を味わい尽くして。身も心も、血も、何もかも総て。
願いは通じ、彼の喉元を食むように、男が軽く歯を立てる。男の髪をかき乱し、身体を仰け反らせ、彼は恍惚を貪った。
やがて総ての体液を吸い取られたように、からからに乾ききった彼は、いつしか意識を手放していた。












遡ること3時間前

ブルックリン  10:05 p.m.

ミシェルにしてやられた彼女は今、キャブの中で窓の外を眺めてぼんやりとしていた。
ずっと辛い失恋を引き摺っていたミシェルの新しい恋。その彼の紹介で今夜、とびきりの男だというラッセルと会っているベティ。ふたりとも手痛い別れを経験しちゃったし、今度は上手くいってくれるといいんだけど。
金曜日なのにこんな時間に帰るのも少し癪な気もするけれど、なに、また独り寂しくDVD鑑賞会でも開けばいいか。
そんなことを考えているうちに、いつの間にかキャブは彼女の住むプロスペクト・ハイツを走っていた。
いつもの角を曲がったところで、キャブがアパートメントの前に停まる。
キャブを降りて入り口の階段へ向おうとしたところで、道路に停車していた車からクラクションが鳴った。
「!」
音に振り返ると、思いがけない人物が窓から顔を覗かせていた。

「ネヴィル!?」
「お帰り」
「Wha……What are you doin' here !? ( 何してるの!?)」
「君を待ってたに決まってるだろ?」
「……God ! 」
「乗って」
「!」
「ちょっと話がしたいだけだ」
はぁ、と呆れたように溜め息を吐いて暫く逡巡したが、結局彼女は昔の恋人に請われるまま、彼の車へと身体を滑り込ませた。

「……」
「……怒ってる?」
「呆れてるの。一体どういうつもり?」
「言ったろ?話がしたいだけだって」
「……」
「少し走っていいかな」
「……どうぞお好きに」
彼がゆっくりと車を発信させる。どうして断らなかったんだろう。彼女は今頃になってそう後悔し始めていた。
「――綺麗になったね」
「!」
突然彼が前を向いたままで言う。
「彼のせいかな」
「あなたのほうは……車を変えたのね」
彼の言葉には何も応えず、彼女は強張った笑みを彼に向けた。
「ああ。でも車だけじゃない。色々なものが変わったよ」
「……そう」

それを聞きたくはなかった。彼の人生をぶち壊してしまったのは、他の誰でもない自分だったから。
突然の風にはためく窓辺のカーテンのように、心が揺れる。それを隠すように、彼女は窓から見える景色へと顔を向けた。
たった今キャブで通ってきたばかりのブルックリン・ブリッジを、今度はマンハッタンの方へと戻るように走っている。
突然の電話も待ち伏せも、三年前の彼女ならきっと、飛び上がるほどに嬉しかったはずなのに。
何故断らないの?今更何を話すと言うの? 
昔と同じだ。私ったら何も成長してない。結局はこうして彼の言葉に流されてしまう自分の弱さに嫌気が差した。
「突然ごめん」
「……」
「ただ話がしたかったんだ。君を見かけて懐かしかったから。……懐かしかった?いや、違うね。男と一緒だったから妬けた」
「!」
「そしたら居てもたってもいられなくなった……それが本音かな」
「ネヴィル――」
「――でも彼は恋人じゃない」
「!」
「そうだろ?」
「……だったらどうだって言うの?」
「僕にもチャンスがあるってことだ」
「! 気は確か!?自分が何を言ってるか解って――」
「――エレンとは別れた」
「!」
その名を耳にしただけで、今でも心臓に針が突き刺さるみたいに鋭い痛みが走り抜ける。
嫌でも思い出してしまう。あの不毛な日々を。


会う時間を作ることさえもままならない関係だったから、会えた時には、一秒でも長くこの人と一緒に居たくて堪らなかった。待つ人のいる場所へ帰らなければならないこの人を引き留めたくて、さんざん我が儘を言い、困らせ、気付けば嫌な女に成り果てていた。
愛していたのか、それとも、ただの執着だったのか。今ではもう、思い出すことも出来ない。
いや、思い出したくもない。
「私のせいなのね」
「いや、違うよラムカ。君と出会った時にはもう、どのみち、彼女と終わるのは明らかだったんだ」
「――停めて!」
見覚えのある通り。そこがノリータだと気づいた瞬間、彼女はハッとしたように声を荒げていた。
「停めて!」
「Oh ! 」
ちょうど赤になりかけた信号を突っ切ろうとしたネヴィルだったが、横から車が飛び出したので慌ててブレーキペダルを踏んだ。その隙にラムカはドアを開き、逃げるように車を降りた。
「ラムカ!」
「おあいにくさま!今から彼とデートなんだから邪魔しないで!」
「!?」
「嘘じゃないわよ!約束してたの!忘れてただけなんだから!」
全くとんちんかんなことを言っている。そう気付いたけれど、もう止められそうもない。それだけ言い捨てると、彼女は走って通りを渡った。
彼が車を乗り捨てて追ってくるのが判る。あのカフェはすぐそこだ。記憶にいまだに鮮明に残る場所。
お願い、彼がいてくれますように!――そう願いながら、彼女はその店に飛び込んだ。


カラカラ、バタン。扉の閉まる大きな音に、店中の客の目が一斉に彼女へと集まる。
その中に、いてくれますように、と願った男の驚いた瞳を瞬時に探し出した彼女は、カウンターにいた彼に駆け寄り、その腕を掴んだ。
「助けて!ショーン!」
「Oh , Wait ! どうしたんだよ!?」
「恋人の振りして!」
「What !?」
「お願い」
突然のことに眼を丸くしているうちに、扉が開いて、ラムカを追いかけるようにして男が店に入って来た。
ラムカのすがるような目を見たショーンは、立ったままの彼女の手をさっと取ると、自分の首に巻き付けて、その男に見えないようにこっそりと彼女に片目を瞑ってみせた。
「笑って」
「え?」
「いいから」
ラムカが慌てて引き攣ったような笑みを浮かべると、待ってたよ、ハニー、そう言って、彼は今まで一度も見せたことのないような、艶やかな視線で彼女を見上げた。
そしてぐいっと彼女を引き寄せたので、彼を抱きしめる形で、彼女は入り口に立ち尽くしたままのネヴィルを振り返った。
ネヴィルに見せ付けるように、ショーンが彼女の手を取って、絡めた指先に口づける。
彼女は内心ぎょっとしたけれど、早くこの時が過ぎ去ることを祈りながら、仕方なくそのまま彼に身を任せていた。

ふたりの様子を暫く見ていたネヴィルが、やがて諦めたように店を出て行く。それを見送ると、ラムカは直ぐに彼から身体を離し、ああ、と額に手をやった。
「何だよ、もうお仕舞いかい?」
「はぁ?」
「まあ座りなよ。せっかく来たんだから」
「……」
ハニーだのキスだの、やり過ぎよ! そう唇を尖らせながら、彼女が渋々彼の隣に腰を下ろす。
二度と乗らないわよ!――あの時と同じ反応だ。ショーンはくすくすと笑いながらカウンタースツールをくるりと廻して、彼女のほうへと向き直った。
「何か飲む?」
こくん、と無言で頷く彼女を置いて、彼は忙しそうな友人の店主の代わりにカウンターの中へ入っていくと、彼女のためにカクテルを作り始めた。
「Here」
彼女の目の前にグラスが差し出される。彼は両手をカウンターに置いて、じっと彼女の瞳を心配そうに見つめている。その視線に居た堪れなくて、彼女は差し出されたグラスを手に取った。
「……ありがとう」
どういたしまして、という顔で、彼が軽く首を傾ける。隣に戻って来た彼と軽く乾杯し、彼女は彼の作ってくれたカクテルを喉に流し込んだ。
知らず知らずのうちに何度も溜め息を吐いている。それを自覚した時、大丈夫?と彼の静かな声が降り注いだ。
この席で彼から以前、大丈夫?と同じ声が注がれたのは、一体どれくらい前だったかしら。確かまだ、冬物のコートを着ている時だった。
「ええ……本当にごめんなさい、変なこと頼んじゃって」
「いや、光栄ですよ、Miss Sherry (シェリー先生)」
「あー……あの」
「?」
「助けてもらっといて言うのも何だけど」
「うん?」
「……何も訊かないでくれる?」
「……Sure」

ありがとう――そう言って再びカクテルを唇に運ぶラムカを、じっと観察するように見つめる。
ラムカの表情とこの状況に何故だか憶えがある気がして、そんな筈はない、と自分に言い聞かせ、彼は彼女から視線を外して前を向いた。
少しだけ、とくん、と心が揺れた気がしたのはきっと、ほんの数時間前、仕事場で一緒だった時よりも、彼女の睫毛が長く黒々と艶めいて見えるのと、唇に残ったカクテルが、彼女のふくよかな唇を濡らしていたから。
何も訊かないで。彼女はそう言うが、本当のことを言えば、さっきの男とのことが気にかかって仕方がない。
突然現れて、あんな芝居をさせられたのだ。気にならない方がどうかしてる。
男は彼女よりもだいぶ歳上に見えた。仕立ての良さそうな服を着て、いい靴を履いていた。ひと目でリッチな層だと判る風貌の男だ。
一体どういう関係なのか。普通に考えれば、恋人、ということになるのだろうか。
恋人――浮かんだ言葉に心がざわり、と音を立てる。それを掻き消すように、彼は言葉を探して考えを巡らせた。
「So……」
よくここにいるって判ったね――彼女にそう言いかけた時、彼の携帯電話がメールの着信を告げる音を鳴らした。
彼はそれを見ようとはしない。そのことが、女からのメッセージなのだと彼女に直感させたのだが。
「行けば?」
「ん?」
「誰かが呼んでるんでしょ」
「さあ」
「私なら大丈夫。これを飲んだら適当に帰るから」
またネヴィルが家の前で待っていたらどうしよう――本心ではそう思って不安で仕方がなかったが、彼女は虚勢を張って彼に笑みを向けた。
彼女の言葉を否定も肯定もせず、彼は軽い笑みを浮かべたままだ。そんな彼から視線を外し、彼女はカウンターの向こうへと顔を向けた。
ネヴィルを追い払うための芝居に付き合ってくれた彼の、あの艶かしい視線を思い出してしまったからだ。
不可抗力とは言え、私ったら彼を胸に抱きしめてしまった。とたんに、彼が口付けを落とした指先が熱く痺れ始めて、彼女はその手を膝の上に置いて、ぎゅっと拳を握った。


その時、再びドアがバタン、と閉じる音がして、はっとしたようにラムカがそちらへと目を向けた。
良かった。ネヴィルじゃない。入って来たのは女だった。
「Shi――」
遅れてそちらの方へ目を向けたショーンから小さく漏れる息。" Shit " という悪態なのは明らかだ。
ショーンに気付いた女が、Oh ! と大げさな声をあげて彼のもとへと歩いて来る。
「Hi , ショーン! 」
「Hi , レベッカ」
挨拶のキスを頬に重ねると、レベッカというその女は無遠慮に彼の頬に手を滑らせた。
「あんもう、ここじゃあんたを押し倒せないじゃない」
「!」
「レベッカ――」
「――言ったでしょ?今度会ったら押し倒してやるって!ははっ!」
「Oh」
「冗談よ」
レベッカという女がラムカに向かって笑いながら肩をすくめる。邪魔をしてごめんなさい、そう付け加えて。
珍しいものでも見るような彼女の目つきに、ラムカは普段彼がどういう種類の女と過ごしているのかを教えられた気がした。
つまり、私みたいなタイプと並んで酒を飲んでるなんて、きっと本来の彼には有り得ないことなんだろう。
「Hi , guys!待った?」
レベッカが奥のテーブル席にいた数人のグループのもとへと去って行く。
彼ときたら、平然としたふうを装っているけれど、動揺を隠しているのはありありだ。馬鹿みたい。
「Wha ?」
「別に。随分とワイルドな " お友達 " を持ってるなと思って。ただそれだけ」
「…… " お友達 " ね」
「相手が私だったからからいいけど、もし本当のデートだったら最悪ね」
「ふーん……妬いてくれたとは光栄だね」
「……はぁ!?」
抗議の目にふっと軽く笑って彼は椅子を廻し、再び彼女の方へと向き直った。
「何でそうなるのよ。馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿とはご挨拶だね」
また諍いを起こしそうな雰囲気になりかけたが、会話はそれ以上、怪しい方へとは流れて行かなかった。
いつもなら真向から向かって来るくせに、馬鹿馬鹿しい、と言った彼女の表情は、どこかばつが悪そうな、気恥ずかしそうなふうにも見えた。
" もしもショーンがグッド・ルッキング・ガイじゃなかったら、きっととっくに恋に落ちてる " ――彼女がさっきミシェルから言われた言葉を思い出してしまったことなど、彼が知る由もなかったのだが。

「行かなくていいの?」
「何で」
「誰か待ってるんでしょ?」
「いや」
「……」
「……送って行くよ」
「!」
「さっきの彼が待ってたら困るだろ?」
「でも、飲んでるじゃない」
「ああ、これ?酒じゃないよ」
「?」
「手伝いに来た時は飲まない」
「手伝い?」
「Yeah , 時々ね。君が来るちょっと前までバーテンダーやってた。肉も焼いたけど」
手伝う代わりに時々ただで飲ませて貰うんだ。そう軽く笑って、彼がカウンターの向こうを指差した。
「トム一人で大変だからさ。俺も暇潰しにちょうどいいし」
またあの恐ろしいバイクに乗るのだろうか。彼女はぎょっとしたけれど、彼の言うとおり、ネヴィルが待っているのはもっと怖い。それで彼女は、彼の申し出に素直に甘えることにした。


「トム、ちょっと出てくる」
彼の言葉を誤解した店主がにやり、と笑うので彼女はほとほと困ってしまったが、違う、と弁解するのも彼の仕事の邪魔をしそうだったので、黙ってショーンと一緒に店を出た。
二度目のバイクの乗り心地は、というと、やはり楽しむ余裕は出なかったけれど、一度目のような恐怖感は余り感じない。
それどころか、夜風に吹かれてブルックリン・ブリッジの上を走るのは、爽快な気分ですらある。
風とひとつになる感覚―――ショーンが言っていた言葉を、何となくだけれど、少しだけ体感出来た気がした。
やがてバイクは彼女の住む町に差し掛かり、あっという間に彼女のアパートメントの前に到着した。
彼の肩に手をかけて身体を支え、彼女がバイクを降りる。ヘルメットを外し、乱れた髪をかき上げる彼女の顔には、軽い笑みさえ浮かんでいた。
「彼、居ないみたい」
「そう。良かった」
あたりをきょろきょろと窺い、ホッとした顔で彼女がヘルメットを彼に渡す。
「ショーン」
「うん?」
「……ありがとう」
どういたしまして。そういう顔で彼が首を軽く傾げる。
そう言えば彼は、ありがとう、と言うと、いつもこんな表情を返してくる。
そう気付いた彼女だったが、ショーンのその表情を好ましく感じていることまで気が付いているだろうか。
「じゃあ……気をつけて」
「ああ」
――シェリー!
背を向けた彼女を呼び止める、彼の声。その声に、彼女は再び彼を振り返った。
「……ああ、いや、何でもない」
「?」
肩をすくめ、じゃ、と再び彼女が彼に背を向ける。
彼女の姿が見えなくなり、やがて2階の窓に灯りがともる。それを見届け、彼は再びバイクのエンジンをかけた。




―――何を言おうとしたんだろう―――

同じ思いを胸に、互いの夜が終わろうとしていた。
ブルックリンのプロスペクト・ハイツにある、とあるアパートメントのとある部屋から灯りが消えた頃、マンハッタンのノリータにある、とあるカフェの灯りが落とされた。
店主に別れを告げ、バイクに跨った男が、ようやく思い出したように携帯電話のメッセージを開く。
" 今夜、どう? " ―――イネスという女からの短いメッセージを消し、彼はゆっくりとバイクを発進させた。
女の住む町ではなく、彼自身の住む、ウエスト・ヴィレッジのアパートメントへ向って。